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嘉永4(1851)年1月3日のことです。
沖縄に、下の絵に描かれた怪しげな男が降り立ちました。

乗ってきたのは、米船籍のアドベンチャー号です。
服装は、どうみても外人ですが、人相は日本人にも見える。
番所で取り調べをするのだけれど、日本語がほとんど話せない。
ほとんど、というのは、まれにわかる単語がある。
とりあえず漂流民かもしれないとあたりはつけるのだけれど、それにしては身なりが立派です。
ともあれ当時は、鎖国の世の中、沖縄は薩摩藩領でしたから、こういうわけのわからない男は、薩摩本土に送っちまえ、ってことで、薩摩に送った。
ところが外国人と接触した漂流者は、長崎に送って牢に入れるのが当時のしきたりです。
で、彼は徳川幕府の長崎奉行所へ護送された。
これが嘉永5(1852)年のことで、取り調べにあたった河田小龍が、その怪しげな男をスケッチした絵が、冒頭のものです。
取り調べの結果、その怪しげな男は、土佐藩の漁民、万次郎であることがわかります。
そうです。彼こそが、中浜万次郎(ジョン万次郎)です。

ちなみに、ジョン万次郎という呼び名は、昭和13(1938)年に直木賞を受賞した井伏鱒二の「ジョン萬次郎漂流記」ではじめて使われたものです(それ以前には使用されていない)。
万次郎の生前は、日本名なら、中濱萬次郎(なかはままんじろう)とよばれ、英語呼びならジョン・マン(John Mung)と呼ばれていたそうです。
万次郎は、文政10(1827)年、土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の生まれです。
貧しい漁師の2男3女の次男なのですが、父親が早くに死亡、くわえて母も兄も病弱で、だから万次郎が幼い頃から働いて、家族を養っています。
もちろん寺子屋に通う余裕なんてありません。
だから読み書きはまるでダメです。
ちょっと話が前後して脱線してしまうのですが、アメリカに渡った万次郎は、日本語と同じくらい、英語をマスターします。
それも耳から学んだ英語です。
後に万次郎は英語の辞書を作っていますが、この辞書に書いてある発音は、現代の英語辞書にある発音と、まるで違う。
ところが、通じる(笑)
実際に現在の英米人にジョン万次郎の発音通りに話すと、多少早口の英語に聞こえるけれど、正しい発音に近似していて十分意味が通じるという実験結果があるそうです。
万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げると
わら=Water
こーる=cool
さんれぃ=Sunday
にゅうよぅ=New York
なんか納得しちゃいます。
いゃぁ、万次郎に英語を習いたかった(笑)
さて、幼い頃から働きづめで家族を養っていた万次郎ですが、天保12(1841)年、14歳の彼の運命は大きく変わります。
万次郎は、この年の初漁で、仲間4人とともに、長さ8メートルの小舟に乗って、四国沖での延縄漁に出ました。
出航して2日めの1月7日、急に風が強まって、徐々に船が流され始めた。
3日目に海は大シケです。
船は木の葉のように揺れ動き、ついに漂流してしまう。
6日間の漂流の末、ようやくたどりついたのが、土佐清水市から海上760キロ南にある、太平洋の絶海の孤島、鳥島です。
鳥島の場所は、google Map で、「30.483889,140.303056」と入力すると確認することができます。
あの大海原で、こんな小さな島に辿りつけたこと自体が、あるいみ奇跡といえるかもしれません。
漂着した5人は年齢順に、
船頭、筆之丞(ふでのじょう)36歳、
その弟、重助(じゅうすけ)23歳
重助の弟で末っ子の五右衛門(ごえもん)15歳
仲間の寅右衛門(とらえもん)24歳
万次郎14歳 です。
彼らはこの島で漂流生活を送ります。
ちなみに鳥島というのは、火山島で、草も木も生えない。
では、どうして生き延びたのかというと、得意の海釣りに、島に群生するアホウドリ、それと海亀の卵です。
一方、この時代、アメリカは捕鯨が全盛期です。
捕鯨のために、多数のアメリカ捕鯨船が、太平洋を行き交っていた。
そしてたまたま、食料にする海亀の卵を取りに立ち寄ったアメリカ船籍の捕鯨船ジョン・ホーランド号に、彼らは救助されます。
漂着から143日目のことでした。
この時代、日本は鎖国しています。
外国船は日本に近づくことさえ難しく、万次郎らが漂流する4年前にも、漂流者を助けて浦賀に入港しようとしたアメリカのモリソン号が大砲をもって撃退されるという事件があったばかりです。
仮に日本にこっそり帰着したとしても、彼らは外国人と接触したということだけで、一生罪人扱いで、命の保証もない。
せっかく救助してもらったものの、日本に帰るに帰れない5人は、そのままホーランド船内で彼らの捕鯨を手伝い、やがて船は燃料補給の基地のハワイに到着します。
そして漂流者のうち、年配の者達は寄港先のハワイで降り、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた万次郎ひとりが、本人の希望もあって、アメリカ本国に渡ることになります。
1年半の航海の後、ジョン・ホーランド号は、マサチューセッツの母港に到着します。
そして万次郎は、日本人としてはじめて、アメリカ本土の土を踏む。
万次郎が到着した頃のアメリカは、まさに西部開拓真っ只中の時代です。
アラモの戦いが、万次郎上陸の5年前(1836)、ワイアット・アープがOK牧場で決闘したのが万次郎が上陸した40年後(1881)といえば、時代の様子や気分がなんとなくわかる気がします。
こうした時代にあって、誠実でたくましくて働き者の万次郎を、ホイットフィールド船長(36歳)は、我が子のように愛してくれます。
そして万次郎に、ジョン・ホーランド号の船名にちなんで、ジョン・マン(John Mung)という名前がつけられる。
ある日、万次郎は、ホイットフィールド船長から、世界地図を見せられます。
生まれて初めて見せられた世界地図です。
その中にある日本の、なんと小さなことか。
万次郎の心に熱い気持ちが宿ります。
船長は、万次郎を故郷のフェアヘーブンに連れ帰ると、彼に英語、数学、測量、航海術、造船技術などの教育を受けさせます。
こういうところ、昔の人は偉いですよね。
日本でもそうなのですが、見どころのある若者に私費で高い教育を受けさせる。いまの日本には、なぜかまったくなくなった発想です。いまの日本では、なにかというと国にカネを出せ、となる。不思議な話です。
やがて、学校を卒業した万次郎は、捕鯨船に乗って世界の海を航海します。
二度目の航海のときは、副船長にまで昇格した。
航海を終えてカリフォルニアに寄港した万次郎を待っていたのが、なんとゴールドラッシュです。
金山が発見されたのです。掘れば金になる。
万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようと西部に向かい、金山で600ドルもの大金を稼ぎます。これはすごいです。
万次郎の偉いところは、こうして稼いだ大金(いまのお金に換算したら1億円くらい)を、自分の贅沢や遊興費に使わず、一緒に漂流し、別れたままになっている仲間たちと日本に帰る資金にしようと考えたところです。
彼は、稼いだ資金を胸に、ハワイに戻り、そこで土佐の漁師仲間たちと再会する。
ハワイにいた4人のうち、次男坊の重助はすでに亡くなり、仲間の寅右衛門は、彼女ができたのでハワイに残るという。
そこで、筆之丞、五右衛門、万次郎の3人で、アドベンチャー号という船を買い、嘉永3(1850)年12月、ホノルルを出発します。
そうして到着したのが、嘉永4(1851)年1月3日、いまからちょうど160年前の今日、沖縄に上陸した。
沖縄では番所から怖々薩摩に護送するのだけれど、万次郎ら一行は薩摩藩では大歓迎を受けます。
なにせ藩主の島津斉彬は、新しもの好きです。
しかも万次郎は、アメリカ本土で造船や航海技術まで学んでいる。
島津斉彬公は、なんと藩士の中から精鋭を選んで、技術指導なども受けさせています。
ところが、これはあくまで非公式な話で、規則は外国人と接触した日本人漂流者は、長崎に送って牢に入れなくちゃならない。
万次郎たちは、長崎に送られ、そこで取り調べを受け、ようやく嘉永5(1852)年夏、生まれ故郷の土佐へ帰国します。
土佐藩でも同じように取調べが行なわれたのだけれど、彼ら3人は、日本語を忘れていて、取り調べは遅々として進まない。
このとき取調べを任されたのが、土佐藩随一の知識人とされた河田小龍です。
彼は、漂民の中でも教養のある万次郎を自宅に連れかえると、彼と寝起きを共にし、自分は万次郎から英語を習い、また万次郎には日本語の読み書きを教えて、相互のコミュニケーションをとった。
そうして得られた情報を小龍がまとめたのが、「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」という本です。
安政元(1854)年、江戸での剣術修行を終えた坂本龍馬が河田小龍を訪ね、「漂巽紀畧」を通じて、万次郎体験談を知り、衝撃を受けて彼の大海原への夢を膨らませた。
また、土佐市宇佐の真覚寺には、万次郎とともに帰国した地元出身の筆之丞と五右衛門から当時の住職が聞き取った「土佐国漂流人申口聞書」が残っていて、小高い丘には2人の墓もある。
案内板によると、「筆之丞兄弟は他出、漁事まで禁じられ、神妙に暮らした」のだそうです。
外国帰りということで、万次郎ら3人は、そうとう警戒されたわけです。
ところが、故郷に帰ったちょうど1年後の嘉永6(1853)年6月、日本国をゆるがす大事件が勃発します。
アメリカから黒船がやってきたのです。
それまでの日本国内での外国語といえば、オランダ語です。
英語の通訳がいない。
困った幕府は、土佐藩に命じ、万次郎を江戸に呼びよせます。
11月5日、江戸に到着した万次郎を、幕府はその日のうちに直参旗本に抜擢すると、苗字・帯刀を許し、彼の故郷の村の名前をとって、万次郎に「中濱萬次郎」の名を与えます。
時代は、英語力を必要としたのです。
そして万次郎は、翌年の日米和親条約の締結に関与すると、安政7(1860)年には、勝海舟が艦長を勤める咸臨丸の遣米使節団の通訳となって、再び渡米します。
帰国した万次郎は、開成学校(現・東京大学)の教授就任し、明治3(1870)年には、普仏戦争視察のためヨーロッパへ出張した大山巌らに同行しています。
このとき万次郎は、一行がニューヨークに滞在したときを利用して、ひとり恩人のホイットフィールド船長に会いにでかけています。
ホィットフィールド船長は明治19(1886)年に、82歳で亡くなるのだけれど、ホィットフィールド家と、万次郎の中濱家は、いまでも、互いの交流があるのだそうです。
たいへんに貧しい家に生まれ、一度は漂流して死にかけた男が、日本の大転機に、まさに神々のイタズラとしか言いようがないような大活躍を遂げる。
おそらくいまの日本も、その大転機にさしかかっています。
平成23年、皇紀2671年、西暦2011年
今年を大転機にするのは、これをお読みのみなさん、おひとりおひとりです。
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