
1月2日といえば、明治38(1905)年、日露戦争で、旅順要塞が陥落したのがこの日です。
日露戦争の開戦は、明治37(1904)年です。
小国日本が、大国ロシアに挑むのです。
勝機は、戦場が日本から近いこと。
朝鮮半島周辺海域の制海権を、確実に日本が押さえること。
この2点を貫くほかなかありません。
一方、ロシア側からすれば、旅順を母港とするロシア太平洋艦隊と、開戦時にバルト海にいたバルチック艦隊が合流すれば、海軍戦力は日本の2倍になります。
そうなれば日本海の制海権はロシアに移り、日本は大陸への補給を断たれて満州での戦争継続が絶望的になるだけでなく、日本本土の日本海沿岸の都市を、ロシア艦隊によって砲撃されて大損害を被る危険を持ちます。
当時の日本の家屋は木造であり、そんな事態を迎えたらとんでもないことになる。
そこでとにかく旅順にいるロシア太平洋艦隊を撃滅しようと、日本は陽動作戦を展開するのだけれど、艦隊は旅順港から出てこない。
この状態でバルチック艦隊が到着したら、もはや日本は風前の灯です。
そこで日本海軍が行ったのが、旅順港閉塞作戦で、三度に渡って計16隻の船を旅順港口で自沈させています。
ところが、折からの悪天候と陸上からの砲撃で、ぜんぶ不成功。
しかも封鎖作戦で、虎の子の戦艦6隻のうち、なんと2隻を触雷で一挙に失ってしまった。
これではどうにもなりません。
このままの状態で、日が経ち、世界最強を謳われるバルチック艦隊が日本近海に到達したら、もはや日本に勝機はなくなります。
そこでやむなく日本海軍は、開戦当初から頑なに拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなり、明治37(1904)年7月12日、海軍伊東祐亨軍令部長から陸軍山縣有朋参謀総長に対して、陸軍による旅順攻撃を要請した。
制海権の確保は、もちろん海軍の役割です。
陸軍にしてみれば、対ロシア決戦上は満州平野であり、本来、旅順要塞には関わりになりたくない。
そもそも古来、城攻めというのは、ものすごくたくさんの兵力を消耗するというのが世界の常識です。
それでも、「城」というのは、行政役場の機能も兼ねますから、まだ守備上の甘さがある。
たとえば加藤清正が築城した熊本城は、難攻不落というけれど、その「城」は武力要塞としての機能と、行政役場としての機能、見た目の権威性という機能を兼ね備えたものとして構築されています。
これが、19世紀以降になると、戦略上の要害に、戦いを制することだけを目的とした武力「要塞」が築城されるようになります。
日露戦争前に行われた要塞戦としては「セヴァストポリ要塞」の激戦が有名です。これは世界史を震撼させた大攻城戦となった。
セヴァストポリは、黒海の北側に面して、アゾフ海と分かつ、戦略上の要衝地です。
すぐ近くには港があり、そこにはロシア黒海艦隊がいる。
ロシアは、この黒海艦隊を守るため、セヴァストポリにめちゃめちゃ堅牢な要塞を作った。
まず要塞そのものが堅牢に築城されていることに加え、周辺には数千箇所のトーチカがはりめぐらされている。
万一敵が要塞に達したとしても、内部には二重に堀がめぐらされている。
掘には、上向きに槍が連ねてあります。
なだれ込んだ敵は、落とし穴に落ち、槍で刺殺される。
しかも要塞内部は、迷路が張り巡らされ、そこを通った敵兵は、壁から繰り出される銃弾で、全滅させられる。
どうにもならないくらいの難攻不落の建物、それが「要塞」だった。
このセヴァストポリ要塞に、安政元(1854)年10月17日、英・仏・オスマン帝国の連合軍17万5000人が襲いかかります。
セヴァストポリ要塞に立て篭もるロシア守備隊は8万5千です。
背後に海を控えていることから、ロシア守備隊は、後背から補給を得、またロシア黒海艦隊も、敵に向かって艦砲射撃を繰り返す。
これに対し、連合軍は、砲撃と歩兵突撃によって、トーチカをひとつひとつ奪って、要塞本体に迫るという戦いです。
戦いはほぼ1年にわたって続いた。
最終的には、安政2(1855)年9月に、連合軍の突撃によって要塞は陥落し、連合軍が黒海の制海権を得たのだけれど、この戦いで、連合軍は、死者だけで12万8000人を出しています。
ロシア側も死者10万2000人。
両軍合わせて、23万人もの死者が出たのです。
23万人です。
しかも全員が、青年期の男たちです。
つまり23万人の青年の死というのは、100万人の都市ひとつが壊滅したに等しい。
そしてこの要塞は、安政元(1854)年から安政3(1856)年に行われた「クリミア戦争」と、昭和16(1941)年からはじまる第二次世界大戦のときと、2回にわたって大激戦が行われたところでもあります。
要塞線というものは、かくも厳しいものなのです。
そしてそれだけの大激戦のあった「セヴァストポリ要塞」を6つ合わせたほどの堅牢さと火力、武力を備えた、難攻不落で史上最強の要塞としてロシアが完成させていたのが、旅順要塞なのです。
旅順要塞の攻城戦となれば、兵の消耗戦となることは間違いない。
先例となるセヴァストポリ要塞では、死傷者は20万人を超えています。
当時の日本陸軍の兵力は、最大見積もっても30万人しか動員力がない。
ごく普通に、自然に考えて、あたりまえの当然のことながら、そういう難攻不落の要塞は、包囲しだけして兵糧攻めにし、北から南下してくるロシア軍の本体との決戦に備えなければならないと考えるのは、当然のことです。
だから陸軍としては、旅順要塞は放置プレイにしたかったわけです。
ところがそこにいきなり海軍から、旅順港閉塞作戦がうまくいかないから、陸軍で旅順要塞を落としてくれと言ってきた。
それを聞いた山縣有朋は、記録にはないけれど、おそらくその瞬間に日本陸軍の将兵の大量死を覚悟したものと思います。
ちなみに、司馬遼太郎の坂の上の雲などでは、旅順要塞の攻城戦では、乃木大将が、まるで兵を犬死にさせるがごとく、ただやみくもに兵を殺した泣き顔の無能な将軍として描かれています。
けれども、みなさんには是非、冷静に考えていただきたいのです。
敵味方あわせて23万人が死に、まる1年がかりで落城に至ったセヴァストポリ要塞戦。
旅順は、その6倍の重装備要塞です。
しかも海軍の港閉塞作戦のあとで、もはや日がないのです。
陸軍に旅順要塞叩きが要請されたのが明治37年7月で、予測では早ければ、翌年2月にはバルチック艦隊が日本にやってくる。
それまでに旅順要塞を落とさなければ、日本に勝ち目はない・・・って、もはや猶予は半年しかないのです。
無理難題というものです。
理屈からいっても常識から言っても、旅順攻略は不可能だ。
そしてその、不可能を可能にせよ、可能にしなければ、もはや日本の明日はない、その背水の陣の指揮を命ぜられたのが、乃木大将だったわけです。
結論からいえば、乃木大将は、明治37年8月19日から明治38年1月2日まで、わずか4ヶ月半で、旅順要塞を陥落させました。
日本側の死者は1万5000名です。
つまり乃木大将は、難攻不落で世界の大激戦となったセヴァストポリ要塞戦のわずか3分の1の期間で、しかも10分の1程度の死傷者で、旅順要塞を陥落させてしまったのです。
これには、世界の軍事専門家たちが、ひっくりかえったといいます。
それだけの鮮烈な戦果を、乃木大将は出したのです。
ちなみに、セヴァストポリ要塞戦と、旅順要塞戦で、大きく異なった点が、機関銃の装備です。
これはセヴァストポリ要塞戦の時代には、まだなかった。
ところが、ロシアは、この機関銃をトーチカ等にまで大量に装備し、丘を駆け上がってこようとする日本兵を、撃ち倒しています。
この戦いは、世界ではじめて機関銃が陸上の主力兵器として使われた戦いでもあったのです。
旅順要塞戦そのものは、日本側が勝ったものの、戦況からみて機関銃の恐ろしさはたいへんなものだということが、世界の軍事専門家の間で、大問題となります。
で、機関銃対策のために生まれたのが、戦車なのです。
要するに敵機関銃の弾を、分厚い鉄板で跳ね返し、近づいてその主砲でトーチカごと機関銃を破壊する。
そしてこの方式は、第二次世界大戦でも、非常に有効な戦い方として定着しています。
要するに、旅順要塞攻城戦は、その後の陸戦の方法まで変えてしまうくらいのインパクトのあった戦いであり、しかもその利は、むしろロシア側にあった。
その戦いを、乃木大将は、なんと、セヴァストポリ要塞戦の3分の1の期間と、10分の1の兵力の損耗で、見事に制してしまったのです。
世界中が乃木大将を絶賛したのはいうまでもありません。
この第1回旅順要塞攻城戦総攻撃の際、機関銃で全身を蜂の巣にされて、死体として火葬される寸前に、息を吹きかえして生還したた桜井忠温(さくらい ただよし)という人がいます。
彼は、戦後、当時の体験を「肉弾」という本にして出版し、この本は、なんと世界15カ国語で翻訳、出版され、すべての国で大ベストセラーになった。
ちなみに、このときアラビア語でも出版されているけれど、それが日本語の本がアラビア語に翻訳された世界初です。
ちなみに、この桜井忠温氏、チャップリンが来日したときに、彼に皇居向かって一礼をしていますが、そのアドバイスをしたのも桜井氏です。
そして日露戦争における日本の勝利は、世界に衝撃をもって伝えられ、大正10(1921)年3月には、アラビア、インド、エジプト、トルコのイスラム教徒がメッカでイスラム教徒代表者会議をひらき、日本のミカドをイスラムの盟主と仰ぐことを決議し、明治天皇に代表団を送っている。
さらにこの勝利に感動したトルコの青年ケマル・アタチュルクは、仲間を集めて、トルコに革命を起こし、国民に自由をもたらした。
一方、旅順要塞でロシア兵士として戦い、戦後、日本の堺市浜寺にあった、ロシア兵捕虜収容所に収容されたユダヤ人青年のトランペルトールは、収容所で警備をしていた日本兵に、ある日、なぜ小国日本が大国ロシアに打ち勝ったのか、と質問します。
このとき、その警備の青年が、
「国の為に死ぬほど名誉なことはない」と答えた。
そして、この言葉が、イスラエル建国の言葉になっています。
いやはや、それにしても、日本人てのは、すごい民族ですね^^
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