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石井筆子
石井筆子

昨日ご紹介した大村藩士渡辺清の長女、石井筆子のご紹介をしようと思います。
一般にはあまり知られていませんが、障害者教育にご関係の方には、よく知られています。
たいへんな才能と美貌に恵まれた明治の女性です。


筆子が誕生したのは、文久元(1861)年4月27日のことです。
幼い頃から、美しい顔立ちとたいへんな才女として知られ、11歳のときに父のいる東京に祖父母とともに上京して、日本初の官立女子校である東京女学校に第一期生として入校しました。
この女学校は、前年の12月に設立された学校で、文部省の設立布告文をみると、「今般西洋ノ女教師ヲ雇ヒ」と書いてあるけれど、華族か相当の大物商人のお嬢様でもなければ、この学校に入るのは実際困難です。
なにせ授業料が高い。
教師が西洋人女性であり、その教師の渡航費から日本での生活費まで、ぜんぶ丸抱えにするのです。
並大抵の授業料で収まるはずもなく、当然、相当な貴族、華族、大金持ちの子女で、かつ頭の良い才女でなければ、ここには入れません。
その徹底ぶりに、ついには生徒があつまらなくなって、なんとこの女学校は数年を経ずして閉鎖されています。
要するに筆子の父が戊辰戦争の英雄であり、維新後も華族であり、そのような家に生まれた才女だったから、筆子はこの東京女学校の生徒となることができたわけです。
外国人教師を雇うというのはそれだけたいへんなことのわけで、それからみたら朝鮮半島で日本人教師の給料が少々高かったなどというのは、比較にならないほど低い格差でしかありません。
この女学校を閉鎖前に卒業することができた筆子は、卒業後も語学力を向上させるために、アメリカ人のウイリアム・ホイットニーの英語塾に通います。
ここでも筆子は、素晴らしい才能を発揮し、あまりの才媛ぶりは、なんと明治大帝の皇后陛下の目にとまります。
そして筆子は、皇后陛下からの直接のご推薦によって、明治13(1880)年、オランダ公使の従者という名目でフランスに官費留学させてもらう。
当時のフランスは、筆子が留学したちょうど5年前の1875年に第三共和政がひかれたばかりです。
世界最先端を走る列強国であり、市民革命による「自由、平等、博愛」を正式な国の標語にしたばかり、言論や出版の自由を認め、女子教育も盛んだった頃です。
目の覚めるような美しい建物、着飾った女たち。宮廷の晩さん会。
田舎のお嬢さんが、いきなり宮殿に招かれてセレブの仲間入りしたみたいなものです。
普通なら舞い上がってしまうところですが、筆子は当時世界最先端の市民革命国家であるフランスにいて、そのフランス革命は、実はフランスにもとからある宗教観に根ざしているものであると見抜いています。
フランスに留学し、日本のセレブから世界のセレブになった筆子は、帰国して、同じく当時の代表的セレブであった津田梅子らとともに、華族女学校の教師となります。
筆子はフランス語科目の授業を受けもち、その教え子には、貞明皇后(大正天皇の妻)もおいでになります。
また鹿鳴館の舞踏会にも度々参加しました。
そしてここでは大山捨松と並ぶ、鹿鳴館を代表する日本の二代美女として「鹿鳴館の華」とうたわれました。
そして大活躍の筆子に、持ち上がった縁談は、なんと大村藩で代々家老を務めていた小鹿島家の長男の小鹿島果(はたし)との縁談です。
彼は、幼い頃から神童と呼ばれた秀才で、工部大学校(後の東大)を卒業して、政府の高官となっている人でした。
またとない飛びきりのエリートです。
最初、親同士が決めたこの縁談に、なにやら封建的なものを感じて、乗り気でなかった筆子ですが、実際に実際に会ってみると、果は単に秀才というだけでなくて、ものすごく優しくて、向学心に燃えた立派な男です。
二人は祝福されて結婚しました。
さらに筆子は、静修女学校の校長に就任し、近代女子教育者としても活躍しています。
静修女学校というのは、後に津田が主宰していた女子英学塾と合併し、現在の津田塾大学となっています。
ここまで、筆子の人生は、順風満帆でした。
ところが、結婚から2年後、筆子の人生に転機が訪れます。
25歳になった筆子に、長女が生まれ、その長女に幸せを祈って幸子と命名したのですが、この子が知的障害児だったのです。
悩んだ筆子は、母子共にキリスト教の洗礼を受けました。
幸子が4歳の時、次女の恵子が生まれました。
けれどもすぐに病死してしまいます。
翌年三女の康子が誕生したけれど、結核性脳膜炎にかかって、知能と身体に障害を残してしまいます。
三女誕生の翌年には、夫が肺結核にかかって、筆子の献身的な看病も空しく35歳の若さで帰らぬ人となってしまう。
筆子は31歳で、知的障害児童二人を持つ寡婦となってしまったのです。
そのすこし前、明治24(1891)年10月に、国内を揺るがし、その後の筆子の人生を変える大事件が起こりました。
岐阜で日本史上最大の直下型地震「濃尾地震」が起こったのです。
地震規模は、マグネチュード8.4です。
被災地は岐阜、愛知、滋賀、福井まで広がり、死者7273名、負傷者17175名、倒壊家屋28万戸という大被害をもたらしました。
このときの岐阜の模様を伝えた新聞記者の第一報は、「ギフナクナル(岐阜、無くなる)」だったといいますから、その被害の模様がわかります。
この地震のあと、ある新聞社が、地震後の混乱の中で、親を失った多くの孤女が誘拐され、女郎屋に売られているという事実を報道しました。
この報に接して、矢も楯もたまらずに東京を飛び出して岐阜に向かったのが、石井亮一です。
石井亮一は、大村藩のとなりの佐賀藩鍋島公の縁戚にあたる人物ですから、家がらがたいへん良い。
慶応3(1867)年の生まれですから筆子よりも6つ年下です。
生まれつき正義感が人一倍強い男だったそうです。

石井亮一
石井亮一

石井亮一は、このとき24歳で立教女学院の教頭をしていたのですが、孤女誘拐の事実を知ってすぐに現地に出張し、20数名の女子の孤児を、東京に連れ帰ってくると、立教女学院教頭の職を辞任して、孤児たちのための施設、聖三一孤女学院を開設しました。
ここまでほとんど正義感と勢いで突っ走ってしまった石井亮一なのだけれど、孤女を連れてきて、自腹をきって施設を作ったはいいけれど、その後の収入の見通しがありません。
そこで寄付を募ることにしました。
そしてそのときの応援者の中に、筆子がいたのです。
石井亮一の孤女の救済活動に共感した筆子は、火の車の学院経営に少しでも役立てればと、援助をはじめました。
ある日筆子は、石井亮一から、孤女の中に知的障害児がいることを打ち明けられます。
驚いた筆子は、自分の二人の娘のことを打ち明けました。
石井は、驚きながらも、知的障害を持つ子供たちへの教育体制をこの国にきちんと確立するために、渡米してしっかりと学んできたいと筆子に述べます。
筆子はこれを了解し、石井亮一の渡米費用を負担しました。
一度目の渡米は明治29(1896)年です。
このときはアーウィン知的障害児学校やセガン・スクール等を訪問し、E・セガン博士の治療教育法を学び、精神薄弱児専門の教育を学びました。
二度目は明治31(1898)年です。
「白痴教育研究」をするために渡米しました。
二度の渡米で、米国における知的障害児への教育と実践を学んた石井亮一は、聖三一孤女学院を、知的障害児のための専門教育機関として、滝乃川学園と改名し、さらに明治35(1902)年には専門職員を養成するために、滝乃川学園付属保母養成所も設置しました。
こうしてできたのが、いま東京国立市にある「社会福祉法人滝乃川学園」です。
この学園は日本における知的障害者への教育福祉施設として、いまでも高い評価を受けています。
一方筆子は、石井亮一が二度目の渡米をした明治31(1898)年3月、7つになった三女の康子を失いました。
長く病床にあったのですが、ついに帰らぬ人となってしまったのです。
残る子は、長女の幸子だけです。
知的障害を持つ幸子のために、親として出来る限りのことをしようと決意した筆子は、真剣に我が国障害者教育の推進を図ろうとする石井亮一の仕事を手伝うようになります。
そして明治36(1903)年、筆子は42歳で亮一と結婚しました。
二人で、二人三脚で学園の経営をすることにしたのです。
しかし、ようやく学園の経営が軌道に乗り出した大正5(1915)年、長女の幸子がなくなりました。
ずっと泣かずに頑張ってきました。
けれども長女が亡くなったとき、筆子の口から洩れた言葉は
「もう泣いてもいいのね」
だったそうです。
その日の夜、幸子の遺体と二人きりになった部屋からは、うめき声にも似た筆子の嗚咽が、絶えることなく聞こえていたそうです。
最初の夫を失いました。
そして三人の子を失いました。
けれど、いまの自分には学園の子供たちがいる。
気力を奮い起こして筆子は立ち上がります。
ところがそんな筆子に新たな災難が降りかかります。
大正9(1920)年、学園に火災が発生したのです。
学園は全焼し、生徒6人が死亡しました。
原因は、マッチによる生徒の火遊びでした。
火災は、燃えている瞬間もたいへんですが、その後はもっとたいへんです。
当事者はとことん追い詰められていく。
亡くなった生徒への賠償の問題が生じます。
延焼した近隣への賠償の問題もある。
そして出火原因に関して、警察からの事情徴収もあります。
下手をすれば監督責任で逮捕ということもあり得る。
さすがの筆子も亮一も追い詰められていきます。
どうにもならない現実に、ついに亮一は学園の閉鎖を決断しました。
「私たちは神に見捨てられたのだ。
 もはやこの試練に耐えるだけの
 信仰の力は私にはない」
亮一が筆子に語った言葉です。
筆子にも、もはや夫の決断を止めるだけの気力は残っていませんでした。
二人にはもはや絶望しかなかったのです。
そんな二人に奇跡が起こりました。
惨劇が新聞で報じられると、これを見た全国の人たちから、学園におびただしい数の義援金が届くようになったのです。
卒園生からも、励ましの手紙が寄せられました。
そこには障害者としての苦しい日々の生活の中から、なけなしのお金まで同封されていた。
多くの人々の善意に支えられ、二人は学園の再興を決意します。
そして半年後、学園は財団法人の認可を受けて、再出発しました。
初代学園理事長には、渋沢栄一氏が就任してくれた。
昭和12(1937)年、夫の亮一が70歳で逝去しました。
筆子は火災のとき、子供たちを助けるために火の中に飛び込んで足に重度の怪我を負い、ずっと後遺症を患っていました。加えて脳溢血で半身不随となっていました。
それでも学園を支えなければならない。
筆子は、そんな体で、2代目の学園長に就任しました。
借金だらけの学園を人に押しつけるわけにいかなかったからだといわれています。
昭和16(1941)年に大東亜戦争がはじまりました。
戦争で内地の食糧事情が急速に悪化しました。
配給米だけでは、子供たちを養うことはできません。
学園は深刻な食糧不足に見舞われました。
筆子は食料の確保のために必死の活動をしています。
しかしそうやって支えた学園にも、容赦なく空襲が襲いました。
学園は燃え、幾人もの生徒が命を失ってしまいます。
戦時中で物資が足らず、亡くなった子供に、棺桶ひとつ用意してあげることができない。
日を追うごとに苦しくなる学園の中で、戦時中の昭和19(1944)年1月、筆子は82歳の生涯を閉じました。
亡くなる直前、筆子は目を閉じながら、次のように言いました。
「たくさんの命が
 手のひらから
 こぼれて
 いきました。
 どうして
 守って
 あげられなかったのか。
 どうかお許し下さい」
筆子が旅立ったあと、不思議なことに、すでに息のない筆子の閉じられた両目から、止めどなく涙が流れ出たそうです。
その涙は、拭いても拭いても溢(あふ)れ出たそうです。
きっと、ずっとずっと涙をこらえて生きてきた、その心の奥底に秘めた幾多の悲しみが、肉体が滅んだとき、筆子の目から滂沱の涙となってあふれて流れ出たのでしょう。
「もう泣いていいのね」
そんな筆子の言葉が聞こえてくるような気がします。
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