
上の写真は、グランド整地用のローラーです。
これ、通称を「コンダラ」と言います。
生徒たちが3~5人くらいで引っ張って運動場を均すのだけれど、とにかく重い。
体力バカのボクなんかでも、ひとりで引っ張ると、さすがに息があがる。
すこし盛土になっているところなどは、そこへひっぱりあげるのは、ほんとうに手間で、みんなでいっせいに、「セ~ノ!」なんで言って、引き上げた。
ところがこのコンダラ、最近ではあまり見なくなったと思ったら、なんと最近ではグラウンドの整地も、機械で行うのだそうです。
運動会の前日などに業者さんがはいって、機械で一気にグラウンドを整地する。
グラウンドの土のほぐし、ならし、転圧、ブラッシングが、ひとつの機械で、あっというまにできてしまうのだそうで、こういうことで便利になったと喜ぶのが、現代日本の風潮というものといえるようです。
ところで下の写真は、満洲国で使われていた牽引式スクレーパと呼ばれる、大型重機です。

これも、運動会の整地業者さんのようなもので、満洲の広大な荒れ地を、機械で一気に整地するための重機です。
写真に写っているスクレーパはオランダ製で、これをキャタピラ式のブルドーザーのようなもので牽引して用います。
これさえあれば、少数の人手で、荒れ地を一瞬で耕したり、均したりすることができるというわけです。
ところがこの機械、たいへん便利だということで、試験的に導入されながら、まったく満洲では普及しなかったし、満州だけでなく、日本統治領だったすべての地域において、ほとんど使われなかった。
たいへん便利な機械なのに、です。
加えて、同様の製品が、日本で生まれることもなかった。
代わって盛んに行われたのが、人海戦術による荒れ地の開墾作業です。
まさに、冒頭でご紹介したようなコンダラが、満洲の大地で大活躍した。
ちなみに、満洲の大地は、学校のグラウンドのように、整地されて平になっているところではありません。デコボコです。
そのデコボコの土地を、みんなで地ならしし、みんなで平らにし、みんなで掃いてきれいにした。
ちなみに満洲で使用されたコンダラは、重量もグラウンド用よりもかなり重くて、7~8人で引っ張って用いたようです。
さらにそうした開墾のやり方は、南方の戦地で飛行場の建設をするときにも応用されました。
そして後年、米軍のように重機を使わなかったことが、戦地で後れをとった一因になっています。
ではどうして、大型重機を使えば簡単にできてしまう土地の開墾作業を、あえて人手で行ったのかというと、それには理由があります。
常に「雇用」を優先させたのです。
日本は、ご存知のように国土が狭く、ひとつの土地がダメになったからといって、他の土地に行ってしまうなんてことができません。
人はその土地で、なんとかして生きていかなければならないし、その生きるというのは、自分の世代だけでなく、子々孫々に至るまで、つまり、代々の長いつながりまでも視野に入れて、そこで生きて行く。
ですから「合理的であること」よりも、「共生すること」を常に優先してきた。
満洲の大地は広大です。
その広大な荒れ地を、機械を使っていっきに整地すれば、人手もかからない。合理的です。
さらにいえば、機械を使ってひとりで耕せば、土地はひとりで独占できる。
当然、土地から生まれる収益も、独占できる。
開墾に必要な工作機械は、レンタルすれば安くあがります。
そのための初期投資費用は銀行から借りればよい。
借りた資金の返済は、その後に開墾した土地からの収益で支払えばよいし、借入金の支払いのためには、その後の農場の運営も、できるだけ合理化を促進して、利益を極大化させることがのぞましい。
雇用は、固定の終身雇用ではなく、必要なときにその都度雇う臨時雇用の方が望ましいし、仮に終身雇用を前提として雇用したとしても、高齢や病で「使い物にならなくなった労働力」は、即時切り捨てたほうが「儲かる」。
これが昨今の日本人のだれもが信奉する、経営の方程式です。
ところが、よくよく考えてみると、これには大きな矛盾があります。
利益をあげるために雇用を減らすと、なるほど、当初は固定費が減った分だけ、企業の利益はあがったように見えます。
なるほど、人件費が年8億円かかっていたものを、雇用をカットして6億円にすれば、その年の利益は2億円アップする。
ところが、雇用が減るということは、就業者が減る、ということです。
就業者が減るということは、失業者が増大し、多くの人々が収入をなくする、ということです。
当然、消費が減ります。
要するにモノが売れなくなる。
結局、リストラして雇用を減らし、企業が利益を独占しようとすることが、消費を減らし、購買力を低下させ、企業の売上を減らし、利益も減少させる。
実際、バブル後の日本経済が、まさにその渦中に呑みこまれています。
多くの企業がリストラし、その結果、消費が沈滞化して、モノが売れない、売上が伸びない。
そのためによけいにリストラし、雇用を減らす。
ついには先輩たちが守り通してきた終身雇用制度まで崩壊させ、実力主義と称して、年寄りや高齢社員の給料を大幅にカットした。
その結果、多くの人々が自衛のために消費を減らし、国内消費が低調になり、ますますモノが売れなくなって、企業収益はますます落ち込んだ。
国全体が不況ムード一色になり、株価もあがらず、雇用も拡大せず、人々の収入も増えず、政府は税収が上がらないからと、公務員の人事の削減まで図りだす。
おかげで終身雇用や年功序列給与を前提に住宅ローンを組んだ多くの消費者が自己破産に追い込まれ、手放した都心のマンションや一戸建て住宅には、なぜか日本国政府から円建てでカネをもらった支那人達が、これをキャッシュで買い漁る。
それがいまの日本です。
一方、戦前や戦後の高度成長を支えた日本にあった共通の価値観というものは、もちろん会社であれば売上を伸ばし、収益をあげることを大事にしたけれど、それ以上に、社員は家族であり、終身雇用、年功序列を前提とし、合理化よりも社員やお客様との共生を常に大事にする経営を行ってきた。
人手でできることは人を使う。
それによって、ひとりでも多くの雇用を確保しようとしたし、だから集団就職なんてのもあったし、企業の青田買いなんていうのも、あたりまえのことだった。
たとえ不合理であっても、人を大切にすることは、合理的であることよりもはるかに大切なこととする風潮があった。
もともと、狭い国土で、互いに共同しなければ生きていけなかったのが日本です。
だからどんなときでも、雇用を優先して考える。
人がなんのために働くのかといえば、生きるためです。
ならば、人手でできることは人手でして、生まれる収益は、みんなでわかちあおう、というのが、もともとの日本流の考え方です。
いまだって、中小企業の多くの社長さんたちは、自分が給料をとらなくたって、社員には給料を払っているし、ボクの知り合いの社長さんなどは、雇用を維持するために、自分は、他の会社にアルバイトに行っている。
そうまでしても「人や雇用を大事にする」というのが、日本流の考え方だったわけです。
その日本的やり方を仮に「人海戦術型共生主義経済」と呼んでみます。
一方現代日本のやり方は「リストラ型合理主義経済」です。
戦後の、それもこの20年間の主流となっている「リストラ型合理主義経済」は、なるほどバブル崩壊後の収益減に悩んだ多くの企業に歓迎され、企業は終身雇用をやめ、社員をリストラして、会社経営を合理化し、収益の確保を図ったけれど、その結果、多くの人々が雇用を失い、あるいは給料の大幅カットにあい、生活が苦しくなって、日本全体の消費が大きく縮小させています。
モノが売れなくなり、企業の売上は減少し、さらにリストラを促進した結果、ますます企業の売上は減り、利益は減少し、毎年多くの会社が倒産の憂き目に遭うという事態を招いています。
結果、なにひとつ良い結果を生んでいません。
一方、戦前ならびに、戦後の高度成長を支えた日本型経営は、終身雇用を前提とし、毎年季節になれば、集団就職を募集するほど、人の確保に積極的な経営です。
なにせ、機械でできることまで、人手を使うのです。
不合理だけれど、そのことは多くの人に就業の機会を与えた。
さらに終身雇用は、将来の安定収入を保障した結果、人々は、将来の収入をあてこんだ長期ローンによって、住宅や家電、自動車などの高額耐久消費財を購入し、さらにローンの長期化によって、人々は「高くても質の良いもの」を好んで購入した。
そしてそのことが、結果として日本製品の品質を向上させ、日本企業の収益を増大させ、人々の雇用機会をいっそう、拡大した。
そう考えてみると、戦後の私たち、それもとくに平成に入ってからの私たち日本人は、なにか「大きな間違い」をしてきてはいないだろうか、という気がしてきます。
貧しくてもいいとまではいわないけれど、ひとりでも多くの社員が食えることを優先した経営(ここでいう経営というのは、企業の経営から国家の経営までをも含みます)というのが、もともとの日本人の、共通した考え方であり、意思であったのなら、結局のところ、その原点に立ち返ることが、日本という国の発展につながるし、企業の発展、成長にもつながるのではないか、と思うのです。
自分さえよければいいという偏狭な価値観ではなくて、公に奉ずる広い心を取り戻すこと。
そのことが結果として、国家や企業の繁栄を支える原動力となる、そういうことではないかと思うのです。
要するに、いまでは、業者を呼んで、機械でグラウンドの整地作業が行われるようになったけれど、それが私たちの選択として、ほんとうに良いことといえるのか、ということです。
昔みたいに、夕日が陰りだした運動場で、部活の仲間たちと一緒に、重たいグラウンドローラーを引っぱった。
それは、いろいろなリスクもあったかもしれないけれど、自分たちのグラウンドなのだから、自分たちで大切に使おうという意識も生んだし、そういう意識が、朝礼のあとの全校生徒での一斉でのグラウンドの石拾いなんかでも、誰一人、さぼったりしないで、みんなであたりまえのように、石拾いをする風潮を生んでいた。
そういう人としての原点というか、みんなでする、という原点のようなものを、私たち日本人は、もういちどよく考えてみる必要があるのではないかと思うのです。
もちろん、冒頭に書いたように、そうした日本型人海戦術という成功体験への埋没が、戦時中の南方戦線で、飛行場を作ったりするときにまで人海戦術をさせた(一方のアメリカは、巨大重機で、一気に工事をした)という弊害を生んだことも事実です。
しかし、弊害があったから、全部がダメということではなくて、弊害は弊害と認めながら、良い点は見直し、活かしていくのが本来の筋道というものです。
仕事というのは、人のためにあるのです。
仕事のために人があるのではない。
そういうことを、もういちどみんなで見直してみる必要があるのではないかとボクは思います。
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