
以下のお話は、ちょうど一年前の同じ日にご紹介したお話です。
どうしても好きな話で、この時期になると誰かれ構わず話してしまう(笑)
なので、ほんのちょっぴり、文面も修正して、今年もまたやりたいと思います。
~~~~~~~~~~~
12月14日といえば、赤穂浪士討入の日です。
赤穂浪士の物語というのは、本編(内匠頭と上野介の確執、切腹から討入まで)のお話だけではなくて、四十七士その他登場人物のひとりひとりに、それぞれの細かなエピソードがたくさん語られています。
ここまでくると、もう、どれが実話で、どれが脚色なのか、さっぱりわからない(笑)
ただ、それらのエピソードの中で、ボクが大好きな物語が、「矢頭右衛門七(やとうえもしち)」のお話です。
矢頭右衛門七は、討ち入りのとき、わずか17歳でした。
大石主税(おおいしちから、内蔵助の息子)につぐ若さです。
当時は「数え年」ですから、いまで言ったら、16歳。それも栄養事情がいまよりはるかに悪かった時代ですから、見た目はいまの13~4歳くらいだったかもしれない。
それでもやはり武士は武士なんですね。
はじめ大石内蔵助は、右衛門七(えもしち)を同志に加えることを許さなかったそうです。
あまりに若かったからです。
しかし、同志に加えなければ切腹もしかねないという右衛門七の真剣な姿に、内蔵助もついに折れ、父・矢頭長助の代わりとして、同志に加えています。
この右衛門七(えもしち)ですが、討ち入り後に「赤穂浪士には 女が混じっている」と噂されたほどの美男子でもあった・・・と言われています。
時は元禄15年、秋のことです。
上京した右衛門七(えもしち)は、大石瀬左衛門とともに浅草の花川戸の裏店に住んでいました。
ちかくには、浅草山の聖天宮があります。
ここは紅葉の名所なんですね。
まだまだ隅田川の水も、透明できれいな水であった頃のことです。
透き通った青空に、ぽっかり浮かんだ白雲のもと、墨田の川面に浅草山の真っ赤に燃えた紅葉が、見事に映えていた、そんなある日。
右衛門七(えもしち)は、ひとり紅葉見物に歩いていると、浅草山の崖の上から、紅色の扇子が落ちてきます。
「はて? 紅葉のように美しい扇子(せんす)だが、誰が落としたものか・・・」
右衛門七(えもしち)は、落ちてきた扇子を拾い、持ち主に届けようと、坂道を登ります。
すると、そこに同じくらいの年頃の、美しい少女がいた。
時は元禄です。
世は、まさに好景気にわいた頃です。
その少女は実に美しい着物を着ていた。
右衛門七(えもしち)が、「もしやこの扇子は、あなたのものでは?」、と声をかけると、その少女は、顔を真っ赤にして、「よけいなことをしないで!」と、走り去ってしまいます。
近くにいた町方のおじさんが、右衛門七(えもしち)に声をかける。
「そこなお武家さん、野暮なことをしちゃぁ、いけませんよ。
これは紅葉供養って言ってね、
年頃の娘さんが、良い人(夫)が見つかりますようにって、願いをこめて、
ここから下の紅葉の中に紅扇を捨てるんですよ。
それを拾うってなぁ、雰囲気ぶちこわし、ってことでさぁ」
知らなかったとはいいながら、ささやかな乙女の願いを邪魔してしまったことを深く恥た右衛門七(えもしち)は、こんど見かけたら、ひとこと謝ろうと、何日か浅草山に出向きます。
2~3日経ったある日、右衛門七(えもしち)は、ようやく少女を見つけます。
少女は、紅葉の枝を取ろうと、背伸びをして手を伸ばしていた。
「どきなさい。私がとってあげる。」
抜く手も見せぬ早業で、剣を抜いて一瞬で鞘におさめて枝を斬り落とした右衛門七(えもしち)に、少女は目をまるくします。
「まぁ、なんということをっ!
私は願い事を書いた短冊を枝に結び付けようとしていたのです!
それを切り落とすなんて!」
田舎から出てきたばかりの武骨者の右衛門七(えもしち)には、花のお江戸の若い女性の習慣など、知るすべもありません。
親切にと思ったことが、またまた裏目に出てしまった。
こういうの、ボクなどはすごくよくわかるなあ。
まあ私事ですが、よかれと思って女性にしたことが、ひんしゅくのオンパレードになって、「デリカシーがない」などと逆に叱られてしまう。
十代の昔からそうです。
って、50過ぎたオヤジのことなんか聞きたくないって?w
うるせぃ!、俺にだって十代の頃はあったんだいっ!(笑)
顔を真っ赤にして、素直に詫びる右衛門七(えもしち)に、少女も、いつしか心をときめかせます。
それから何日か経ったある日のことです。
右衛門七(えもしち)が歩いていると、川端でたたずんでいる少女がいる。
あの少女です。
見ると川面には、なにやら荷物のようなものがプカリプカリと浮いている。
こんどは間違っちゃイケナイと思った右衛門七(えもしち)、行動を起こす前に、ちょっと慎重になって、先に声をかけます。
「なにを流しておいでなのですか? これも何かの風習ですか?」
すると少女は、
「ちがうのよ。
大事なお届けもののお荷物を川に落としてしまったの。
お願い、拾って!!」
ええっ!とばかりびっくりした右衛門七(えもしち)は、おもわず初冬の隅田川に飛び込んでしまった。
荷物は無事に拾い上げたけれど、全身、水浸しです。
さ、寒い!
こうなったら、もはや走るしか体を温める方法はありません。
右衛門七(えもしち)は、近くにあった茣蓙(ゴザ)で身を覆うと、後ろで何か言っている少女をさしおいて、いちもくさんに家に向かって駆け出した。
この少女は、浅草駒形の茶問屋、喜千屋嘉兵衛の娘で、お千といいます。
茶問屋さんというのは、江戸時代はどこも大店(大金持ち)です。
いくら若い男女とはいえ、娘がお武家さまを、冬の川に飛び込ませたとあっては一大事です。
親御さんは、とにかくお礼をしなくてはと、家にあった反物(たんもの)を使って、お千に、若侍さんの着物を縫わせます。
何日かかかって、右衛門七(えもしち)の居所をようやく見つけた家の者は、右衛門七(えもしち)をお千の家に招待した。
そしてお千が縫った着物を右衛門七(えもしち)に渡そうとする。
けれども右衛門七(えもしち)は、
「そのようなお気づかいは、ご無用に」と、受け取らない。
「せっかく心をこめて縫ったのに、受け取らないなんて!」
お千ちゃんは泣いて、奥に引っ込んでしまいます。
そこに、ばあやが出てくる。
聞けば、お千は、不治の病で、もういくばくの命もないという。
そして、お千の家の茶問屋では、宇治茶を「吉良家」にしばしば届けていると。。。。
「これは!」
吉良家の動静を知る上で、重要な手掛かりになるかもしれない。
右衛門七(えもしち)は、お千の縫った着物を受取り、またの来訪を約束します。
若い二人です。
美しい大店の娘と、女と見まごうほどの色男の右衛門七(えもしち)。
二人には恋心が芽生えます。
しかし、右衛門七(えもしち)は、討入したら、死ぬ身です。
いくらお千さんのことが好きでも、自分には彼女を幸せにすることはできません。
そうとわかっていながら、お千が吉良家に出入りしていると知って、自分はお千に近づいている。お千ちゃんを「利用」しようと、している。
こんなことでいいのだろうか・・・・
しかし、お千ちゃんの命は、聞けばあと半年ともいう。
お千ちゃんも自分も、実るはずのない命。
せめてその短い間だけでも・・・
いや、しかし・・・
右衛門七(えもしち)の心は、千路に乱れます。
それでも、
あいたい、会いたい、逢いたい・・・
12月14日、朝からしんしんと雪が降る日、屋敷にいた右衛門七(えもしち)のもとに、お千ちゃんがやってきます。
ひどい高熱だった。
お千は、今夜、吉良家で茶会が開かれる・・・吉良上野介が在宅している・・・ことを右衛門七(えもしち)に告げます。
右衛門七(えもしち)は、高熱に侵されているお千を、籠屋を呼んで家に帰すと、すぐさま討入の仲間に、「今夜」と報告をします。
討入の当夜、もともと体の弱かったお千は、雪の中を無理をして右衛門七(えもしち)に報告に走ったことがたたって、床に伏せたままになってしまう。
・・・・
そして、討入り。
・・・・
翌朝、お千のばあやが、血相を変えて、お千の部屋に飛び込んできます。
今朝早くに、深川へお茶を届けに行くと、たいへんな騒ぎで、なんでも赤穂の浪士が吉良邸に討入ったとか。
そこへ引揚の赤穂の浪士がやってきた。
「右衛門七(えもしち)さんも、いましたか?」
「いましたよ、いましたとも!」
ばあやを見つけた、右衛門七(えもしち)は、隊列を抜け、ひとこと、
「ばあや、昨夜はお千さんのもとにお見舞いにいけませんでした。
お千さんに、すまぬと、お詫びしてください」
「すまぬ」とひとこと。。。。
討入のあと、赤穂の浪士たちは、細川、松平、毛利、水野の4家に、別々に預けられます。
矢頭右衛門七は、水野家にお預けです。
年が明けます。
梅の花が咲く。
ようやく床から起き上がれるようになったお千が、水野家を訪ねます。
面会謝絶です。
水野家では、追い返そうとしたけれど、見れば、お千は、病いで、苦しそうな様子。
ひとめ右衛門七(えもしち)に会いたいというお千だけれど、浪士への面会は、幕府によって固く禁じられています。
たまたまその様子を眼にした水野のお殿様は、お千に、
「梅が見たいのなら、小庭をまわって、見られたらよかろう」と話した。
「えっ?!」
「ただし、けっしてお声をお出しなさるな。
梅を見るだけじゃぞ」
そうか! 右衛門七(えもしち)様に会わせてくださるんだ!
お千は、涙を流します。
いっしょにいたばあやは、あの勝気だったお千が、こんなにもいじらくと、また涙を流した。
水野は、その足で、浪士たちがいる部屋に向かいます。
そして右衛門七(えもしち)を見つけると、
「矢頭殿、庭に梅が咲いております。庭に降りてご覧になったら、いかがかと」
「? ここからでも、梅は見えますが」
「そういわずと、さぁさぁ、庭にお出なされ。
ただし、どんなに美しくても、決して声は出してはなりませぬぞ」
おかしな老人だと思いながらも、右衛門七(えもしち)は、水野の勧めにしたがって、庭に出ます。
すると、庭の境の垣根の向こうに、
お千が、 いた。
二人は互いの目と眼を、じっと見つめあいます。
しかし声を出すことは禁じられている。
「右衛門七様、たったひとことでいい。いつわりの恋ではなかったと、お聞きしたかった」
「お千殿、あなたへの心は、真実と、伝えたかった」
二人は声に出さずに、眼と眼だけで、そう会話すると、
右衛門七は、懐(ふところ)から、紅扇を取り出した。
そうです。
それは最初に二人が出会ったときに、お千が投げた、あの扇子です。
右衛門七(えもしち)は、梅の小枝を一枝手折ると、その小枝を紅扇に乗せて、小川に流します。
扇子は、庭の小川をゆっくりと流れ、お千のもとへと流れつく。
ひとことも語ることは許されなかった。
けれど、語る必要はなかった。
二人の心と心が、百万の言葉を費やすより雄弁に、強く互いの心を知りあてた。
そして紅扇に乗せた、梅の花が、すべてを伝えてくれた。
まもなく右衛門七(えもしち)は水野の家人から、お千の死を知らされます。
お千どのは、おそらく右衛門七(えもしち)殿の心を知りたくて、弱り切った体で無理をしてやってきたのだろうと。
その年、元禄16年2月4日、赤穂四十七士に、切腹のお沙汰が下ります。
水野邸においては、右衛門七(えもしち)が、先んじて短い命を絶った。
矢頭右衛門七(やとうえもしち)
切腹。介錯人杉源介 享年18歳。
矢頭右衛門七(えもしち)というのは、母妹の世話に苦難したことで有名な赤穂浪士なんですね。
父は、赤穂藩家臣の勘定方、矢頭長助。
母は、姫路松平家の家臣の娘です。
元禄14年3月の浅野内匠頭の殿中松の廊下での刃傷のあと、4月19日には、早々と赤穂城が開城され、引き渡しになっていますが、このとき、大石内蔵助のもとで、藩の財務の残務処理を最後まで行ったのが、右衛門七(えもしち)の父の長助です。
ところが心労がたたった父・長助は、元禄15年8月15日に、病死してしまう。
右衛門七(えもしち)は、義挙に加わらねばならない身の上ながら、母と妹三人をどこかに預けようと、母の実家のある奥州白河藩(松平家がここに転封されていた)へ向かうのだけれど、荒井関所で女人通行手形不携行として通してもらえず、大阪へ帰るなどしています。
そして同年9月には、討入のために上京。
翌元禄16年切腹となりますが、浪士の義挙によって、事件後右衛門七(えもしち)の家族の苦難が知られるようになり、母と妹三人は、奥州白河へ行くことができます。
そして長女は、多賀谷致泰(奥州白河藩松平家家臣)
次女は、多賀谷勝盛(奥州白河藩松平家家臣・致泰の息子)
三女は、柳沢家の家臣山村氏にそれぞれ嫁ぎ、母も娘達の嫁ぎ先の多賀谷家で暮らします。
今日の物語のお千ちゃんというのは、創作で、水野家にやってきて対面したのは右衛門七(えもしち)の妹で、母の縫った襦袢を持ってきたときのエピソードだという話もあります(女たちの忠臣蔵)。
まあ、どれが本当の話しかはわからない。
けれども、恋に不器用な男子と、忠義をとるか恋をとるかの板挟み、そして見事、討入を果たし、水野のお殿様の配慮で、再会したときも、ちゃんと約束事を守って眼だけで会話した、ルールを遵守する日本人の気質。
そうしたいろいろな要素が、この右衛門七(えもしち)とお千の物語には入っているような気がして、だから、このお話はとっても大好きです。
ちなみに、右衛門七(えもしち)は、実は東海道四谷怪談にも登場します。
四谷怪談で、お岩さんにひどいことをした民谷伊右衛門を、ラストシーンでバッサリ斬って一件落着させるお岩さんの妹の旦那、佐藤与茂七が、矢頭右衛門七をモデルにしたキャラクターとして描かれています。
昨日今日と、赤穂浪士談義で、政治とはなんの関係もないじゃないかと思われるかもしれません。
でもね、私たちが取り戻そうとしている日本という国は、卿の物語にあるように、上も下も約束事はちゃんと守る、そういう国だったのです。
いまのような国民との約束事を守らないことがまるで当然とするような政権では、日本は完全に壊れてしまう。
みんなの力で、日本を取り戻しましょう!!
↓よろしかったらクリックを↓

