
パラオ・ロックアイランド
パラオと聞けば、上の写真が有名です。
観光ガイドなどでご覧になった方も多いのではないかと思います。
日本からだと、成田を出て、グアム経由で、だいたい8時間くらいかかる南洋の島です。

最近の遺跡などの調査で、この島には約4000年前から人が住んでいたことがわかっています。
そのパラオは、明治18(1885)年にスペインの植民地となりました。
スペイン人によってもたらされた天然痘や、略奪、殺戮の結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれています。
明治32(1899)年、スペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却します。
この中に、パラオも含まれた。
大正3(1914)年に第一次世界大戦が開始されると、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領します。
大正8(1919)年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の“委任統治領”になります。
当時のパラオの人口(パラオ先住民の人口)は、約6000人でした。
スペインによって植民地にされる前の人口は、約6万人だったともいいますから、いかに西欧の植民地政策がすさまじいものだったかが、推してわかろうというものです。
(ちなみに2005年のパラオの人口は20323人です)
日本は、この島に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、稲作、なす、きゅうり、さとうきび、パイナップルなど野菜や果実の栽培を持ちこんでいます。
また、缶詰やビールなどの工場を建設し、道路を造り、舗装し、橋を架け、電話をひき、学校、病院をつくるなど、各種インフラの整備を行なっています。
さらに日本は、パラオの住民すべてにたいして、無料で数種類の疾病に対する予防接種をうけさせています。

1920年代のパラオの町並み
上の写真は、大正から昭和初期頃に撮影されたとみられるパラオの町並みの写真です。
画面の右側にハングル文字が映っているのがおわかりになりますでしょうか。
最近の在日朝鮮人などは、日本が彼らの言語を奪ったなどとわけのわからないことを言いますが、日本人とともにパラオに来ている彼ら朝鮮人のために、ちゃんと彼らの文化を尊重したお店があり、ハングル文字の看板も出ている。
日本は、民族の共生と共和を図っていたということが、この一枚の写真からもわかろうというものです。
そのパラオでは、当時はまだパラオの言語を顕すための文字がありませんでした。
そこで日本は、パラオに尋常小学校を立て、文字をもたないパラオの人々のために、日本語教科書を用いて、日本語教育を行っています。
中島敦という作家をご存知でしょうか?
「李陵」「弟子」「名人伝」など、格調高い文芸作品を残した方ですが、彼は、このパラオ南洋庁の、国語教科書編集書記だった人です。
彼の作った格調高い教科書で学んだパラオの老人たちは、いまでも美しい日本語を話すことができます。
ちなみに中島敦の「山月記」は、彼のパラオ在任中に著わされたものです。
パラオの人々は優秀で、小学校1年生ですら掛け算九九を暗証できたといいます。
当時日本が統治した国々からの代表選手が一堂に会して競う算数の学力大会では、なんとパラオの小学生が優勝しています。
そしてそのことを、当時の日本人は、たいへん喜んだ。
昭和16(1941)年、大
東亜戦争が始まりました。
日本は、同年、パラオ南部のペリリュー島に、1200メートルの滑走路2本の飛行場を完成させています。
パラオは、日本軍にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の絶対的防衛圏上の、重要な拠点だったのです。
ところが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、フィリピン戦の背後をとるパラオ・ペリリュー島の日本軍基地は、まさに目の上のたんこぶです。
米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画する。
昭和18(1943)年の時点で、ペリリュー島には、899名のパラオの村人がいました。
刻一刻と迫る米軍。
村人たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。
日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は、仲間たちと話し合ったそうです。
そして彼らは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おうと決めます。
ちなみにパラオは、こうした議会には、村人が全員参加します。
そして誰かひとりでも反対者がいると、全員が了承するまで何日でも、議場に籠り続けて、みんなの意思を固める。
この習慣は、いまでもなお続くパラオの人々の伝統です。
全員一致で、日本軍とともに戦うと決めた彼らは、代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男(なかがわくにお)大佐のもとを訪れます。
平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの頼み・・・一緒に戦う・・・を聞いてくれるに違いない。
そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出ます。
彼らの訴えをじっと黙って聞いていた中川隊長は、ひとりひとりの目をじっと見つめると、瞬間、驚くような大声をあげた。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。
村人たちは、ただ茫然とするほかなかった。
驚いた。
日本人は仲間だと信じていたのに、
・・・みせかけだったのか。。。。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流します。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきます。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。
村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。
そして、汽笛が鳴る。
船が岸辺を離れた。。。。
次の瞬間、
ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきました。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。

中川州男大佐
明治31(1898)年1月23日生まれ
昭和19(1944)年11月24日戦死
享年47才
そのとき、船上にあった村人たちは、わかったのです。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
涙が出た。
岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。
誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。
昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたは切られます。
島に立てこもる日本軍10500名。
対する米軍総員48740名。
そして航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を行う米軍は、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を投下します。
最初に米軍は、は艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払った。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊した。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28000名が島に上陸します。
対する日本軍は地中深くに穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていた。
米軍の上陸用舟艇が、続々とやってきます。
島はじっと沈黙している。
米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らし始めます。
そのときです。
突然の集中砲火が、米軍を襲います。
満を持した日本軍の反撃です。
水際での戦闘は凄惨を極めます。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却するという場面もあった。
この戦闘によって米軍の血で海岸が赤く染まったのです。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。

オレンジビーチ
10月30日には米軍第1海兵師団が全滅します。
海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続されていたのです。
しかし、日本軍には、補給が一切ありません。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ、米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。
さらに食料や水もない。
夜陰に紛れて、仲間のために水を汲みに行って米軍の猛火に遭う。
このため、水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていたといいます。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が割腹自決を遂げる。

その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られます。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による最後の突撃攻撃が行われた。
こうして11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たします。
米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過してのことです。
中川隊長の異例の奮闘に対しては、昭和天皇より嘉賞11度、感状3度が与えられています。
また中川隊長は死後に2階級特進し陸軍中将となった。
なお、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦の2年後まで戦い続け、昭和22(1947)年に投降しています。
【ペリリュー島の戦い】
日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
米 軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
村人
死者 0名
負傷者 0名
1981年、パラオ共和国が誕生したとき、パラオの人々は、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌をつくりました。

【ペリリュー島守備隊を讃える歌】
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわものたちはみな散って
ペ島はすべて墓(はか)となる
二 小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾射ち尽くし食糧もない
三 ヘいしは桜を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四 日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日は散る
ペ島の”桜"は散り散りに
玉砕れども勲功はとこしえに
五 今もののふの姿なく
残りし洞窟の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂守る
六 平和と自由の尊さを
身をこなにしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七 どうぞ再びペリリューヘ
時なしさくらの花びらは
椰子の木陰で待ちわびし
あつい涙がこみあげる
平成6(1994)年、パラオはアメリカから独立をはたしました。
独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間からデザインを一般公募した結果、日の丸をもじった今のデザインが採用となりました。

パラオ共和国・国旗
周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわします。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと,わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。
~~~~~~~~~~~~
みなさまへ
11月17日から27日まで、入院のためブログの更新ができません。
そこで期間中、過去のエントリーの中の昔のオススメ記事を、すこし編集して再掲しています。
本日の記事は、↓の記事をもとに、若干の加筆修正をして再掲しています。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-525.html
~~~~~~~~~~~~
↓クリックを↓

