
雷電爲右エ門(らいでんためえもん)のことを書いてみようと思います。
彼は、18歳で相撲部屋に入門しています。入門はちょっと遅い。
そして親方に命じられて、なんと6年間も下積み生活をしています。
で、なんと幕下を飛ばして、いきなり関脇でデビューしています。
そして初場所でいきなり優勝。
以降、幕内通算成績は、35場所で254勝10敗2分14預5無勝負。
優勝回数は27回。
大相撲史上、古今未曾有の「最強力士」と呼ばれています。
雷電爲右エ門は、江戸時代の人です。
この時代の大相撲は、年2場所制です。
いまは、年6場所制です。
年6場所制になった現在でも、優勝回数は大鵬の32回が最高ですから、雷電の年2場所で優勝27回は、これはもう驚異的です。
ちなみに大鵬の幕内勝率は83.8%です。
雷電は、勝率96.2%です。最高です。
いかに雷電が強かったが、わかります。
しかも雷電は、あまりに強すぎたために、相撲にハンデを負わされています。
「張り手」「鉄砲」「閂(かんぬき)」の禁止が、それです。
雷電だけが禁じられていた。
それでこれだけの成績です。
これはもう超人のレベルです。
それでいて雷電は、横綱にはなっていません。
彼は、生涯現役最高位の大関を貫き通したのです。
当時の横綱は、いわば名誉職だったのです。
彼は、名誉よりも相撲が好き、ただそれだけの道を選択した。
雷電の生まれは明和4(1767)年で、出身地は、長野県東御市です。
本名は、関太郎吉(せきのたろきち)です。
豪農の子で、幼い頃から体が大きくて力が強かったそうです。
それで相撲好きの隣村の庄屋さんの目にとまり、彼の私塾で相撲や読み書きなどを習っています。
雷電の、その大柄な体つきとは別の、大人しくて崩しのないキチンとした字がいまも残っています。

雷電が18歳になったとき、たまたま地元に巡業に来ていた江戸相撲の浦風は、雷電を門弟にして江戸に連れ帰ります。
この浦風親方が偉かった。
浦風親方は、当初から雷電の資質を見抜き、江戸で西大関だった谷風梶之助の付き人にします。
いくらその頃の雷電が村一番の相撲上手でも、さすがに江戸の大関には敵わない。
で、雷電は、徹底的に谷風にしごかれます。
相撲取りというのは、体が大きいのです。
大関谷風クラスになると、自分の体の大きさで、大用をたしたあと、自分で自分の肛門が拭けない。
だからお味噌を拭きとるのは、付き人の仕事です。
親方は、これを雷電にやらせた。
雷電は相撲の腕をメキメキとあげます。
もう誰も敵わない。
それでも、なぜか親方は、雷電だけは、場所に出しません。
同門の他の力士たちは、明らかに雷電より腕が劣るのに、次々と幕下デビューを飾り、出世していきます。
それでも、親方は、雷電を場所に出さない。
雷電が「強い」ことは親方にもわかっています。
親方だけじゃない。
相撲界は狭い世界です。
誰もがわかっている。
しかし親方はプロです。
そして相撲は実力社会です。
浦風親方は、ひと目で雷電の素質を見抜いたから、江戸に連れ帰っているのです。
誰よりも雷電の実力を知っています。
それでも親方は雷電を土俵に出さなかった。
なぜでしょう。
簡単に要職を手に入れた者は、弱いものです。
ついつい天狗になる。
そして自滅する。
親方は雷電を、なにものにも動じない、本物の力士に育てたかったのです。
イチロー選手もプロ入り当時、比類ない実力を認められていながら、あえて二軍に落とされた。
監督もコーチも、イチローの実力はわかっています。
知らずに二軍に落としているのではない。
知っているから二軍に落としているのです。
こうした姿を見ると最近のメディアなどは、実力があるのに二軍落とすのは、「監督に能力がないせいだ」「不審だ、何かウラがあるのではないか」、「疑惑だ、嫉妬だ」、「おかしい、問題だ」などと、騒ぎ立てます。
無責任は素人考えで、勝手な批判をし、誹謗し、中傷する。
どうやら、それが現代日本の流行のようです。
そして不審だ、疑惑だなどという曖昧な言葉だけが独り歩きし、親方やコーチが世間の非難をあびる。
しかし、こうした風潮こそ問題です。
そもそも多くのメディアには、選手や力士を「育てる」という概念がない。
日常的に選手や力士などと接しているわけでもない。
あくまでも外野です。素人です。
さらに彼らには、力士や選手に対して、なんの責任も負っていない。
最近流行った映画で「のだめカンタービレ・最終章」という映画があります。
愛する人に憧れて、ピアノの勉強にフランスに留学した「のだめ」の、天才的な才能を、音楽学校の教授は見抜きます。
教授は、彼女の才能を大事に大事に育てます。
なかなかピアノの発表会にも出してくれない。
周囲はみんな華麗なデビューを飾っています。
落ち込む「のだめ」に、別な天才指揮者が声をかけ、いきなりコンサート・デビューさせます。
世界は、彼女の才能に舌を巻く。世界中に大センセーショナルが起こります。
ところがそのために、彼女は逆に潰れてしまうのです。
もう二度と、あんなすごいピアノは弾けないと、ピアノを弾くのが怖くなってしまったのです。
教授は、彼女を何があっても負けない強い心を持ったピアニストに育てようとして、敢えて彼女をコンサートに出さなかったのです。
それを無責任な商業資本が、彼女を担ぎあげ、潰してしまった。
マイク・タイソンといえば、猛烈なハードパンチャーです。
彼は、カス・ダマトによってその才能を開花され、ボクシング・ヘビー級の王者になります。
ところがダマトの死後、タイソンの才能にドン・キングが目をつけます。
ドン・キングは、ボクサーは、ただのドル紙幣にしか見ない男です。
死んだダマトは、生前、ドン・キングだけとは、絶対に組んではいけないと言っていたけれど、俺は強いと天狗になっていたタイソンは、ドン・キングのもとに走ってしまう。
結果は、どうなったか。
タイソンは、まるで試合に勝てなくなります。
あの鮮烈な試合を見せたマイク・タイソンが、まるで試合の精彩を欠いてしまう。
勝てないタイソンは、そのストレスから、犯罪者に成り下がってしまっています。
要するに、たいへんな才能をもった者であればあるほど、ホンモノに育てるというのは、それだけとってもたいへんなことなのです。
雷電を育てた浦風親方は、雷電の素養をはじめから見抜いています。
だからこそ、彼をして本物の力士に育てるため、いつ幕内に出しても全勝間違いなしとわかっていながら、6年間も見習い力士のままに据え置き、彼を他の力士の付け人、下積みのままに据え置いたのです。
そしてただ相撲が強いだけでなく、書も達者で、人格も見事な、やさしさのある本物の力士を造り上げます。
素晴らしい親方です。
そして雷電も、親方の配慮によく耐え、我慢し、人一倍練習に励んでいます。
寛政2(1790)年11月、雷電は、江戸の興行で、いきなり西方関脇付け出しで初土俵を踏みます。
番付は、実力者で小結だった柏戸勘太夫よりも上におかれたスタートです。
普通ならありえないスタートです。
雷電の初土俵の取り組み相手は、八角という猛者です。
その猛者と、立合いざま雷電は、右手一発の張り手を繰り出します。
この一発で、大男の八角は、土俵の外まで吹っ飛ばされ、その夜、へどを吐いて絶命してしまう。
さらに雷電は、この初場所で横綱免許の小野川喜三郎とさえ、預かり相撲(引き分け)としてしまった。
初場所でいきなり8勝2預りです(当時の場所は10日間)。
負けなしです。
江戸相撲の一行が、小田原で巡業したときのことです。
小田原に大岩というならず者がいた。
この大岩が、地元で大関を張っていて、これがメチャクチャ強い。
江戸力士が挑んでも勝てないから、大岩は、江戸力士を頭から小馬鹿にしています。
そんな大岩に、かつて投げ殺された力士の遺族から、なんとしても仇討ちをと頼まれた雷電は、大群衆の見守る中で、敢然と大岩と土俵で対決します。
「時間です。待ったなし。はっけよーい、のこった!」と行司の采配を受けた両者は、互いに土俵の上で激突します。
このとき、不思議なことに雷電は、大岩にもっとも都合のよい組み手を取らせた。
これは雷電不利!と、見ている誰もが思った。
そのとき、おもむろに大岩の腕の外側から自分の腕をまわした雷電は、そのまま大岩の両腕を絞め上げます。
相撲の荒業、閂(かんぬき)です。
そしてそのまま大岩の両腕の骨を砕くと、激痛におののく大岩を土俵の外に振り飛ばした。
圧倒的な強さです。
以後大岩は不具者となってしまったという。
あまりの雷電の強さに、相撲界で雷電だけ、顔への張り手、突っ張り、閂(かんぬき)の3つが禁じ手とされてしまいます。
それでも雷電は勝ち続けた。
とにかく、生涯で負けが10番しかない。
だから「三手封印されてなお負けぬ雷電」などとも呼ばれます。
寛政3(1791)年、雷電は、第十一代将軍徳川家斉から、「天下無双」の称号を授けられます。
そして引退までに通算28回の優勝という前人未踏の大偉業を成し遂げた。
生涯の勝ち数は254勝だけれど、当時の相撲興行は、10日制です。
いまのような15日制ではない。
そう考えたら、彼こそ現代にいたるまで最多勝ち星の保有者といってよいかもしれません。
雷電は、身長197cm、体重169kgです。
身長体重からすると、ちょうどボブ・サップと同じくらいです。
当時の日本人の平均身長がいまよりはるかに低かったことを考えると、今でいったら雷電は、アンドレ・ザ・ジャイアントクラスの大男だったかもしれません。
体格もいいし、戦績もいい。実績もある。
しかも、色白でなかなかの美男子だった。
雷電が現役で、勝ち続けていた頃のことです。
雷電は、巡業の途中、千葉県の佐倉で、甘酒屋ののれんをくぐります。
雷電は大酒飲みだったと伝えられますが、それと同じくらい甘党で、饅頭や甘酒が大好物です。
その甘酒屋で、お店に出てきたのが、おはんさんという看板娘です。
お店の娘さんだった。
雷電は、この“おはん”さんにひと目惚れし、それから毎日、お店に通い詰めた。
ところが、いまの時代と違います。
なかなか「好きだ」とか「惚れた」だのと言いだせない。
ただ、毎日来ては、おはんさんと目が合うと、大男の雷電が、顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
はじめは、大柄な雷電に、恐怖を感じていたおはんさんも、雷電の好意を感じていて、どうやらお二人ともまんざらではないらしい。
もうこうなると周りがほっとかなくて、ワシが仲人を勤めるだの、いやいやそれは親方であるワシの仕事だ、だの、もうてんやわんやの騒ぎになって、ついに、甘酒屋のご主人に、嫁さんにもらいうけたいと正式にご挨拶に伺うことになった。
ふたりはめでたく結婚します。
その後、雷電爲右エ門は、現役力士のまま、出雲国松江藩の松平家のお抱え力士になります。
おはんさんは、武家の妻となって、名も「八重」と改めた。
雷電は、引退後も藩の相撲頭取に任ぜられるけれど、その後、松江藩の財政の悪化から改易となり、以降は妻の実家の佐倉市臼井台で暮らし、晩年を迎えています。
雷電は、文政8(1825)年、59歳で逝去します。
同じ年だった八重も、雷電の後を追うかのように、2年後に逝去したのだけれど、歳をとっても二人は、傍で見ていて恥ずかしくなるほどの相思相愛のご夫婦だったそうです。
雷電は、ただ強いだけの相撲取りではなく、諸国を巡業するたび、その土地の詳細は風俗を「諸国相撲控帳」に書き遺しています。
楷書で丁寧に書かれたこの「控帳」は、いまでも当時の各地の状況を知る第一級の史料となっています。
たとえば、秋田の巡業で大地震に遭遇したときは、町の復興に怪力を活かして手を貸す傍ら、当時の状況を次のように記しています。
~~~~~~~~~~~
出羽鶴ヶ岡へ向かおうと、六合から本庄塩越へ向かって歩きました。
六合のあたりから壁が壊れ、家はつぶれて、石の地蔵も壊れ、石塔も倒れています。
塩越では、家々が皆ひしゃげていて、大きな杉の木が地下へもぐっています。
喜サ形(象潟)というところでは、引き潮の時でも、ひざのあたりまで水がありました。
~~~~~~~~~~~
まるで、情景が目に浮かぶようです。
日本武道の精神は「心・技・体」です。
なにものにも負けない強い心を鍛え、そのために技を磨き、結果として体力が身につく。
西洋の格闘技は、「体・技・心」です。
体格がよくて筋力があり、技がきれて試合に勝てればそれで良い。
人柄などは一切問題にならない。
だから試合に勝つと、リングのコーナーロープに登って、ガッツポーズをして猛獣のように吼える。
それはそれで興行としてはおもしろいのかもしれません。
しかし、どんなに試合に勝ったとしても、心が貧しくて人格が歪んでいたら、それでは人間として失格です。
日本武道では、試合に勝つことよりも、己に厳しい心を涵養することが奨励されました。
だから最強の力士は、最高の人格者であることも求められる。
雷電の勝ち手は常に壮絶なものだったけれど、彼は勝って奢らず、敗者にも実に謙虚にやさしく接した。
試合というものは、いつだって勝ち負けがあるものです。
雷電だって、生涯勝ち続けたわけではなくて、すくなくとも10番は負けています。
試合に勝つことは、もちろん大事なことです。
しかし「勝つ」というのは、何も試合に勝つことだけを意味するのではない。
それ以上に、人としての強さ、優しさがあって、相手を調伏できる「心」こそ、武道において最も強く求められるものです。
最近では、相撲も興行をおもしろくするために、勝った力士がプロレスやK-1のように
ガッツポーズをとったほうがいい、などという評論家もいるようです。
でも、それは間違っているとボクは思います。
勝ってなお、三度を切って勝ちを奢らない。
自分で誇らなくたって、ちゃんとお客さんは見ててくれているのです。
それが日本流というものであろうとボクは思います。
日本という国は、支那や韓国からみると、わけのわからない国なのだそうです。
彼らが喉から手が出るほど欲しいもの、歴史、伝統、教養あふれる国民、おかみを信頼する従順な国民、安心して生活できる清潔な町、豊かで安心して食べられる食品、便利な暮らし、高い経済力等々、それらすべてを日本は持っている。
日本は、ちょっと脅かせばすぐにヘコヘコするほどおとなくて弱腰なのに、自分たちはこんなにスゴイと言い張っているのに、世界中から自分たちはつまはじきされ、日本は歓迎されている。
だから勝手な妄想で日本に対抗心を抱き、これでもかというほど日本を貶め、自分たちのすごさを誇ろうとする。
現役のプロレスラーが、体を鍛え、試合に勝って、俺はこんなに強いんだと内外にアピールしているのに、世間はいっけんヒ弱な日本に軍配をあげているようなものです。
だから彼らは、余計に意固地になって俺は強いんだ、俺はすごいんだ、とやっている。
でも勝てない。
そういう彼らの臭みそのものが、人々の心を離れさせているのに、それにさえ気付かない。
要するに、幼稚なのです。
鍛え方が足らない。
雷電が、6年間も親方から幕内出場をゆるされなかったこと。
そうすることで、雷電が逝去して200年近くたっても、彼がゆるぎない人気を保っていること。
それは決して、彼の試合での強さばかりではないのです。
戦後生まれの私たちは、スポーツを好むようにというGHQの「3R,5D,3S」政策に首までどっぷりと浸かってきました。
「3R,5D,3S」政策は↓コチラ
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-781.html
しかし、日本に古くからあるものは日本武道です。
その日本武道の心は「心・技・体」にある。
心を鍛えること。そのことを私たちは、もういちど見直してみる必要があるのではないでしょうか。
↓クリックを↓
画面向かって左の選手の中断からの打ち込みを、右の選手が鼻先1寸で見切り、すさまじい面を決めています。これが真剣ならどうなっているか。
一瞬のすごい試合です。


