
11月3日の今日は、明治大帝の御誕生日です。
さて近年になって、戦後じっと黙って戦時中のことを黙して語らずにいた方々が、すこしずつ当時の実際の状況を語ってくださる機会が増えてきました。
沖縄戦においても、多くの人に知られていない逸話が、数限りなく発掘されてきています。
以下にご紹介するのは、軍事評論家の佐藤守さんが、後輩から聞いたお話を、ご自身のブログに発表されたものです。
ご紹介します。
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【塹壕で母は生まれた】
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20101023
先日後輩から、目頭が熱くなるエピソード記事のコピーが届いた。
少し長くなるが今日はこれをご紹介しておきたいと思う。
フリーパーソナリティ、ルポライターの富永麻子さんが、沖縄の海自第5航空群で話されたものが、朝雲新聞に「塹壕で母は生まれた」という題で掲載されたものである。
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私の祖母の話です。
太平洋戦争末期の沖縄戦の最中、祖母は那覇市首里の儀保に住んでいました。
夫が兵隊に行った後、彼女は懐妊していることを知りました。
しかし、その頃(アメリカ軍の攻撃で)首里方面が危険だといわれ、逃げねばならなくなり、彼女は首里から南部へ逃げることとなりました。
日に日にお腹が大きくなり、初産であったので不安だったそうです。
首里から南部の糸満市磨文仁まで逃げたのですが、たどり着いた防空壕の中はもういっぱいで、中に入れてもらえませんでした。
懇願しても、妊婦が防空壕内で産気づき、大声でも出されたら困るということでした。
そのとき祖母は「もうだめかもしれない」と思ったそうです。
野外をさまよっているとやがて陣痛が来ました。
産気づいた祖母はその場にしゃがみこみ、「父ちゃん、ごめんね・・・」とつぶやいたそうです。
戦地にいる祖父はまだ妻のお腹の中の赤ちゃんの存在も知りません。
地面にうずくまったまま、本当に自分はお腹の赤ちゃんと一緒に死んでしまうのだと思った時、ある一人の日本兵が塹壕を開けてくれ、「ここに入りなさい」と言ってくれたそうです。
そこは兵士が隠れる塹壕で、とても狭く横たわるスペースなどはなく、立ったまま入るような状況でした。
彼女は戦争の中でも子供を生む覚悟をしていたので、自分でハサミや消毒液を持っていました。
そこで塹壕の中で立ったまま私の母を出産し、自分でハサミを使ってヘソの緒を切ったそうです。
しかし、そこは戦場です。
兵士がこもる塹壕に赤子を抱いた女がずっといられるわけはありません。
周りを見れば拳銃や弾薬もおかれたままで、「早くここを出なければ・・・」と思ったそうです。
そこで急いで自分が着ていたオーバーで赤ん坊をくるみ、外に出ました。
そこで驚いたのは、そこには武器を構えた日本兵がいて、彼女の周りを警戒していました。
その日本兵の方が祖母のいる塹壕を守ってくれていたのです。
その兵士は赤ん坊を見て、「無事に生めてよかった」と言ってくれたそうです。
続いて兵士は言いました。
「こんな戦争の状況下で、もう一生出会うことはないだろう。
だから、せめてこの子の名前を呼んでからお別れしたい。
この子に名前をつけてもらえないだろうか」
それで彼女は「この戦争が早く終わってほしいから、日本が勝って戦争が終わるように『勝子』と名づけます」と答えました。
すると兵士は首を振り、
「この戦争は確実に負ける。
『勝子』ではいけない。
この戦争からこの子が生き延びて平和な世の中で暮していけるように、平和の二文字から和を取って『和子』と名づけなさい」といってくれたそうです。
それを聞いて、彼女は泣きながら
「ありがとうございます。おっしゃるとおり『和子』と名付けます」と答えました。
日本兵は生まれたばかりの赤ん坊の頭をなでながら、
「和子ちゃん、生きなさい!」と力強く言ってくれたそうです。
それが母の誕生日、6月3日のことでした。
日本軍司令官が自決し沖縄戦が終わるのは、それからわずか20日後のことでした。
その後、彼女は米軍の捕虜となり結果として赤ん坊とともに生き延びることができたのです。
おそらく祖母を塹壕に入れてくれた日本兵がいなければ母は生まれず、私も産まれてくることはありませんでした。
沖縄では、住民が日本兵に苦しい目に遭わされたといういろいろな話が残っています。
でも、それは何より戦争が悪いのです。
いま、自分があるのは祖母を塹壕に迎え入れてくれた日本兵がいてくれたおかげだと、私は心から感謝しています。
だからこそ、私は母が戦中の塹壕で生まれた話を少しでも多くの方に伝えていきたいと思っています。
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近時の沖縄の反日扇動家たちは、とにかく「日本軍は残虐だった」「米軍は親切だった」、だから「沖縄は日本から独立しなければならない」などと宣伝しています。
しかし、ふつうの常識ある頭で、ちょっと考えれば誰にでもわかることなのです。
沖縄には、11万6400名の日本兵がいたのです。
戦時徴用された一部を除いて、多くは志願兵です。
進んでお国のために、自らの身を捧げようと志願した人たちです。
身を捧げるというのは、「死」覚悟するということです。
そして「お国」というは、親兄弟であり、親戚であり、妻であり、恋人であり、友人であり、お世話になった様々な身の回りの人たちの集合体です。
自分自身をめぐる様々な人たちを守るために、身を捧げようとした人たちです。
そういう気持というのは、人を貶めたり、扇動したりするような下卑た意識の中からは、絶対に生まれません。
むしろ、人にたいするやさしさがあるからこそ、自分から進んで命を捧げようと志願する。
そういう人たちが「残虐な人たち」となりえるのでしょうか。
沖縄からみたら、本土の人たちは「ヤマトンチュウ」と呼ばれます。
その「ヤマトンチュウ」は、今日も数多くの観光客となって沖縄を訪れています。
最近は、支那や韓国からも数多くの観光客が来ていますし、米軍の関係者もたくさんいます。
その中で「ヤマトンチュウ」は、特別残虐ですか?
非常識ですか?
身勝手ですか?
我がままですか?
沖縄戦では、日本の軍人は、10人のうち8人までが死んでいます。
おそらく、上の文の和子さんの出産を警護された兵隊さんも、親兄弟や妻子を残して、沖縄の地で散華されたことでしょう。
そういう方々を、嘘までついて貶め、辱めようとする人々の方が、ボクにはよっぽど残酷で無慈悲な人に思えるのですが、みなさんはいかがでしょうか。
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