
駅のホームや歩道などに、上の写真にあるような黄色いデコボコのついたブロックが設置されています。
この正式名称が「視覚障害者誘導用ブロック」で、通称は「点字ブロック」です。
盲人や、光は感じれるけれどあまりよく見えない弱視者などの視覚障害者が、安全に歩行できるように敷設されています。
このブロックには、まるいポチポチのついた「点状ブロック」と、突起が平行線になっている「誘導ブロック」の2種類があります。
前者は注意を喚起するためのブロック、後者は進行方向を示すためのもので、相互に組み合わせて使われます。
点字ブロックは、いまでは駅のホームだけでなく、歩道や公共施設の中や、商店の出入口付近、横断歩道、車道の横断歩道部分など、幅広く敷設されています。
そこで皆様に質問です。
この「点字ブロックは」どこの国の発明なのでしょうか。

答えは「日本」です。
発明したのは、三宅精一(みやけせいいち)さんといって、昭和2(1926)年生まれで、岡山県倉敷市のご出身の方です。
実家はもともと果物屋さんで、精一さんは三男四女の長男だったのですが、17歳のとき父親が急逝して、一家8人の生活が、精一さんにすべてのしかかったのだそうです。
これが昭和19年のことで、翌年には終戦が重なります。
当時は、物資が極端に窮乏した時代です。
売りたくても物資がない。
一家の生活は、どん底まで追い詰められてしまったそうです。
なんとかしようと三宅さんは、果物屋を廃業して、岡山市に移り、そこで旅館を始めます。
そして、すこしでも家計の助けになればと、旅館業のかたわらで様々な発明を手掛けました。
なんにもない。
けれど頭はある。
だったら工夫努力して、多くの人に喜こんでいただけるものを考案しよう。
そうすれば、すこしでも暮らしの助けになるかもしれない、と考えたのです。
成功の保証なんてありません。
けれど三宅さんは必死に努力して、100種類もの発明を手がけました。
その頃の三宅さんが発明したもののなかに、「ナンバープレート融雪(ゆうせつ)装置」というものがあります。
冬に、雪が自動車のナンバープレートにこびりつくと、ナンバーが読み取れません。
そこで温水を循環させて、ナンバープレートの雪を溶かそうという装置です。
そんな三宅さんの生活も、昭和30年代の後半になると、だいぶ安定してきました。
動物好きだった三宅さんは、当時、非常に珍しかったセントバーナード犬を、オス、メスのつがいで飼いはじめました。

仔犬が生まれました。
昭和38(1963)年のことです。
仔犬のの引き取り手を探している三宅さんのもとに、岩橋英行さんという方が現れました。
岩橋さんは、視覚障害者への支援事業を行う社会福祉法人「日本ライトハウス」の理事をされている方でした。
はじめて会った岩橋さんに、三宅さんは、日本ライトハウスという法人のこと、日本の盲人のこと、世界の盲人のことなどを、繰り返し詳しく尋ねました。
岩橋さんは、すこし前までは健常者だった人です。
けれど数年前に目に変調をきたし、医者から失明の宣告を受けていました。
二人は、盲導犬や盲人の交通安全などについても語り合いました。
話の内容は、盲人のもつ足の感触や、目の代わりをする耳や、触感などの代償機能のための感覚訓練にまで及んだそうです。
三宅さんは岩橋さん話を聞きながら、目をつぶって、いちいち話の内容を確認しながら、うなずきました。
そして岩橋さんの話を聞きながら、この人のために、あるいは日本の、あるいは世界の盲人のために、自分に何かできることはないだろうかと考えました。
この頃の日本は、マイカーが普及し始めていた時代です。
自動車の交通量も一気に増えていました。
一方でこの時代は、戦災などで視力を失った方が非常に多かった時代でもありました。
ある日、三宅さんは街に出て目をつぶって道路脇に立ち、もし自分が盲人だったらと考えていました。
そのとき、白い杖を持った盲人が、三宅さんのすぐ目の前で道を横切ろうとして、危うくタクシーに接触しそうになって、大きな音でクラクションを鳴らされました。
盲人は、怖くてその場にうずくまっていました。
それはまさに、死の恐怖の瞬間でした。
「なんとかしなくては。このままではいけない」と思う三宅さんの脳裏に、岩橋さんの言葉が浮かびました。
「眼の見えない者は、苔(こけ)と土の境が靴を通して分かる・・・。」
「これだっ!」と三宅さんは、直感したそうです。「歩道と車道の境を、足の裏を通してわかるようにすれば、盲人の危険が減るに違いない!」
三宅さんは、さっそく研究にとりかかりました。
歩道のコンクリートブロックに突起物を付けて危険を知らせる、というアイディアは、わりと早い段階で固まりました。
問題はどういう形にするかです。
突起の形状は三角形がいいのか?
四角がいいのか?
丸がいいのか?
突起の高さはどのくらいが良いのか。
突起と突起の間の間隔はどうするか。
ブロック全体の大きさサイズは、どうするか。
突起は、高ければわかりやすくなりますが、つまづきやすくもなります。
低すぎれば足裏に感覚が伝わりにくくなります。
日中は、旅館の仕事があります。
研究は、もっぱら夜の作業でした。
物置き小屋で、たこやきの鉄板のような木枠を作りました。
そこにコンクリートを流し込んで、実物を作りました。
そして感触を確かめました。
作っては壊しが繰り返されました。
睡眠時間を削って、ようやく完成形となったのは、30センチ四方のコンクリートブロックに、高さ6ミリの丸い突起を、49個(7×7)配列するというものでした。現在の形です。
完成までに2年の歳月が流れました。
点字文字は、盲人にとってはいわば「目」です。
その点字を踏みつけることには、多少の抵抗感もあったそうです。
けれど、これが盲人のためのものであることを健常者に知らせる意味も込めて、名称は、あえて「点字ブロック」としました。
ブロックの色は、黄色にしました。
これは岩橋さんのアイデアでした。
黄色なら、弱視や色弱の方でも、見分けやすいからです。
昭和42(1967)年3月18日、岡山市内の岡山県立盲学校に近い国道2号線の横断歩道に、世界初の「点字ブロック」が敷設されました。
このとき三宅さんは、まるでわが子を社会に送り出すような気持ちだったそうです。
寒い日でした。
制作に協力してくれた弟と一緒に、工場に行き、230枚の「点字ブロック」を受取って、二人で一枚一枚、冷たい真水で丁寧にタワシで洗って磨きました。
一枚の重さは12キロです。
洗い終えたブロックを、兄弟で軽トラックの荷台に乗せ、歩道まで運びました。
そして工事の人たちに歩道に並べてもらいました。
このときの点字ブロックは、ブロック製造費も、敷設のための人夫代も、全部、三宅さんの自腹でした。
どこからも費用なんて出ないのです。
道路改修の許可をもらうだけでもたいへんでした。
けれど、これが世界で初めての「視覚障害者誘導用ブロック」の敷設でした。
当時は、誰からも理解してもらえませんでした。
三宅さんは、盲人の保護のためにと、この「点字ブロック」を全国の県や市に寄贈していきました。
当時は、全国に約4000の市町村があったのですが、そのひとつひとつに手紙を添えて、点字ブロックのサンプルを送り続けました。
しかし注文はひとつも来ませんでした。
問い合わせの電話すらありませんでした。
それどころか、役所の福祉課を訪問すると、押し売りと間違われて追い返されました。
ようやく担当者と話ができても、
「こんなものが役に立つとは思えない」
「白杖があれば十分なのではないか」と、まるでとりあってもらえませんでした。
三宅さんのもとには、盲人の歩行訓練の指導者たちからもクレームが寄せられました。
「いくら点字ブロックが便利でも、道路のすべてに敷設されているわけではない。」
「それなら結局は、あるがままの町を歩く訓練をしなければ、生きていけない」
なんとか普及しようと、盲人学校などに足を運ぶと、
「盲人を金儲けに利用しようとするとは何事か!」と逆に怒鳴られる始末でした。
それでも三宅さんは、全国の役場や盲人用施設にサンプルを送り続けました。
売り込みのための役所訪問もしていきました。
費用は、湯水のように出て行きました。
いくら旅館を経営しているといっても、建物は戦後間もない頃のものです。
この頃には老朽化して、客室にまでひどい雨漏りがする状態でした。
けれど点字ブロックのサンプル作りや訪問活動のためにお金が飛んでしまい、三宅さんの手元には、建物を治すためのまとまったお金すらありませんでした。
それでも三宅さんは、点字ブロックの普及をやめようとは思いませんでした。
経済的にも追い詰められていたし、自分が間違っていたのかもしれないという不安もありました。
けれど、おおやけのために自分にできることをする。
正しいと決めたら、こうと決めたら何があっても、石にかじりついてでもやりぬく。
それが三宅さんが受けてきた教育でした。
親戚からも、友人からも、弟からさえも、「もうあきらめようよ」と言われました。
世の中は、3C(カー、クーラー、カラーテレビ)が夢の消費財とされた時代です。
大阪万博の開催が決定され、国産初の旅客機YS-11が就航し、エメロンシャンプーが発売されて、テレビマンガの「鉄腕アトム」が大ヒットしていた時代でした。
華やかに高度成長していった時代です。
インフレの時代でもあります。
物価はどんどんあがっていきました。
けれど三宅さんは、貧乏のどん底暮らしのなかにあって、それでも世の中のためにと戦っていました。
そんな三宅さんのもとに、最初のうれしい知らせが飛び込んできたのは昭和43(1968)年9月のことでした。

栃木県宇都宮市が、点字ブロックを敷設したいので、ブロック250枚を購入したいと言ってきたのです。
これが、初めて行政が点字ブロックの価値を認めてくれた瞬間でした。
実はこの年、アメリカで全米の公共施設を車いす障害者の移動ができやすように改良を命じる連邦法が成立していました。
これがきっかけとなって、日本でも厚生省が音頭を取って「福祉の町つくり」を全国規模で展開すると決めていたのです。
その影響で宇都宮市が、視覚障害者の移動に先鞭をつけたのです。
ところが、話はこれっきりでした。
次の注文がこないのです。
点字ブロックという重量物を扱い、しかもその販促が徒労に終わり続ける。
もともと丈夫だった三宅さんの身体は、過労と心労でむしばまれ、ついに肝臓を患ってしまいました。
病院通いを続ける三宅さんのもとに、次の報せがきたのは、それから2年も経った昭和45(1970)年のことでした。
報せの主は東京都道路局安全施設課でした。
東京の高田馬場駅の東側一帯に、点字図書館や盲人福祉センター、東京へレンケラー協会などの視覚障害関係の施設が集中しているのだけれど、この一帯に点字ブロックを採用したいというのです。
ブロック一万枚でも予算計上可能という報せでした。
三つ目の注文は、それから3年後の昭和48(1973)年のことでした。
厚生省が障害者福祉モデル都市事業を制定し、首都東京で大々的に「点字ブロック」の敷設を決めてくれたのです。
これがモデルケースとなりました。
そして地方自治体も「点字ブロック」を次々に採用していきました。
鉄道のホームや公共施設内などにも、視覚障害者の転落事故防止等のためにと「点字ブロック」が採用されはじめました。
ところが、こうなると類似品が大量に出回るようになります。
おかげで、施設ごとにブロックの形も色もバラバラになってしまいました。
そもそも点字ブロックに、統一規格がないのです。
当然、安ければよいというだけの、いい加減なブロックも出回ります。
実は国際的には、昭和42(1967)年4月に行われたWCWB委員会で、ブロックの点の配列は、足に対する感覚が常に平均している点の平行配列がよく、千鳥配列では不安になることが、各国の実際の試験歩行の中で確認されています。
つまり、三宅さんの点字ブロックが、世界で承認されていたのです。
それでも国は、類似品を放置したままでした。
市町村ごとの条例もまちまちでした。
この時期、市町村によっては、「エレベーターには設置しなければいけないけれど、エスカレーターには設置しなくてよい」などと意味不明の条例が登場したりもしています。
しかし、せっかく「点字ブロック」を採用しても、その仕様がバラバラでは、混乱を招くだけです。
盲人は目が見えないのです。
これでは何のための「点字ブロック」かわからない。
だから三宅さんと岩橋さんは、私財をはたいて、必死に全国の行政機関を説いて回りました。
三宅さんは、ただでさえ肝臓を患っているのです。
身体はだるいし、体調不良は意欲を削ぎます。
けれど、それでも三宅さんは、入退院を繰り返しながら、全国の行政機関を説いてまわりました。
そして昭和57年に、ついに三宅さんは帰らぬ人となってしまいました。
享年57歳でした。
三宅さんの人生は、視覚障害者のために、私財をはたいて必死に開発し、必死に売り込んだ人生でした。
全部、つぎ込みました。
一文無し状態でした。
贅沢などとは程遠い、美味しいものを食べるなんていうことも縁遠い人生でした。
ただ、お国のためにできること。おおやけのために自分のできることをしようとし、志を立てたら絶対にくじけないと決めた、そういう人生でした。
良いことなんてない人生でした。
けれど、三宅さんの志は、三宅さんの死後も生き続けました。
岩橋さんや、三宅さんの弟さんの努力もあり、バラバラだったブロックの規格も、平成13(2001)年にはJIS規格によって、統一されました。
そして、いま、全国の歩道や駅のホーム、公共施設には、かならずといっていいほど、点字ブロックが導入される時代となりました。
そして三宅さんの生んだ点字ブロックは、いまや世界中に普及し、視覚障害者の安全を守っています。
いまの日本で、「三宅精一」という名を知る人はほとんどいません。
しかし彼が発明した「点字ブロック」の心は、いまや世界中に広がっています。
そしてそのブロックが視聴覚障害者のためのものであることを、世界中の誰もが知っています。
三宅さんの心が、世界に広がったのです。
ちなみに「点字ブロック」の上に、ものが置かれたり、障害物があったりしたら、意味をなしません。
下の写真は、支那の南昌市の写真です。
↓ここから拝借してきた写真です。
http://www.jx.xinhuanet.com/tsxw/2005-05/16/content_4235285.htm
意味もなく形だけを取り入れた模造だと、こういうことが起こるという見本です。

よろしかったら下の動画もご覧ください。
2010年に行われた、岡山の「幸せの黄色い道」の除幕式の模様です。
歌は、点字ブロックの歌です。
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