
今年の夏は、猛烈な暑さだったのですが、お盆を過ぎたら、急に寒くなってきました。
まだ季節はちょっと早いのですが、寒い季節に定番なのが、コタツにみかん。
ボクは食事をおもいきり食べる分、間食は全然しない性質(たち)で、果物はあまりいただかないのですが、どういうわけか、みかんだけは好きで、冬になると爪が黄色く染まるくらいたくさん食べてしまいます。
みかんは、、早生みかん(まだ青いみかん)の収穫がはじめるのが、9月から10月、橙色に染まったみかんの出荷が11月下旬くらいからになります。
なんだか待ち遠しいです^^
みかんといえば、四国は愛媛県の伊予柑などが有名ですが、その愛媛県大洲市の出身者に、政尾藤吉(まさおとうきち)という人がいます。
明治の人ですが、すごい人なのでご紹介してみたいと思います。
明治維新当時、アジアで独立国といえば、タイと日本だけでした。
そんな中で、日本とタイは、明治20(1887)年には、日タイ修好宣言を採択し、両国は正式に国交を開きました。
タイも、日本と同じで各国との不平等条約に泣かされていたのです。

「王様と私」という映画をご存知でしょうか。
昭和31(1956)年のハリウッド映画で、タイの国王ラーマ4世をユル・ブリンナー、家庭教師の役をデボラ・カーが演じた映画です(上の写真)
世界的大ヒット映画となり、その後何度もリメイクされ、ディズニーアニメになったり、最近では平成11(1999)年にジョディー・フォスター主演で「アンナと王様」という題で映画化もされています。
もっともこの映画は、タイでは、国辱映画として、上映は禁止になっている。
どこかの国と違い、タイは誇りを失っていないのです。
「誇りを持つ」ということは、とても窮屈なことなのかもしれません。
しかし、誇りを持つことは、人や国が生きて行くうえで欠かせないものだと、あらためて思ったりします。
さて、映画に出てくるタイの王様のモデルは、タイのラーマ4世です。
ラーマ4世は、嘉永4(1851)年にタイ国王に即位しました。
この翌年には、ヨーロッパではナポレオンが皇帝に即位し、さらにその翌年には日本にペリー提督の乗った「黒船」が来航しています。
欧米列強が本格的に東亜の植民地化に乗り出していた時代です。
タイにも欧米列強が迫り、ラーマ4世に開国をせまりました。
ラーマ4世は、このままでは国が滅ぼされる。
西洋文明を取り入れて近代化しなければ独立は危ういと、大勢の外国人を雇いいれます。
しかしその一方で、列強は通商条約を迫る。
それは、タイにとって不利益な内容のものばかりです。
そして明治元(1868)年、ラーマ4世は長年の苦労とマラリアで急死してしまいます。
「王様と私」の映画の中に、家庭教師のアンナに教えられる国王の子供が出てきます。
その子供が、ラーマ4世の跡をついで国王に即位したラーマ5世です。
ラーマ5世は、タイの独立を保ち、不平等条約を改正し、タイの近代化と国内制度の整備を図った人物です。
ラーマ5世は、海外から多数の専門家を顧問として招きいれ、同時に欧米諸国へ多数の留学生を派遣しました。
そして、明治16(1883)年には郵便事業を開始し、明治27(1894)年には市電を導入、大正3(1914)年には初の水道設備建設など、数々の文明開化を行っています。
そのラーマ5世が、治世中にもっとも力を注いだのが、法制度の充実強化です。
このため国王は欧米各国から、20数名の法律顧問を招いたのですが、実は、その法律顧問団の首席を務めたのが、今日ご紹介する日本人の政尾藤吉です。
政尾藤吉は、明治3(1870)年、愛媛県の大洲で、藩の御用商人の長男として生まれています。
御用商人というのは、藩の食糧の手当などを一元的に扱う商人で、藤吉が生まれた頃は、たいそう裕福な家庭だったそうです。
ところが明治維新後に行われた廃藩置県によって、肝心の大洲藩がなくなってしまう。
当然、家業は衰退し、家は倒産してしまいます。
父は家業をやめて、山崎小学校の教員をはじめたけれど、多額の負債を抱えています。
藤吉が16歳のとき、両親はついに離婚してしまう。
父は、教員の仕事を辞め、藤吉と姉を連れて、田舎に帰ります。
そして郵便局で、郵便配達員として働き始めます。
「父ちゃん、俺も一緒に働くよ」
毎日、ぐったりと疲れて帰宅する父に、藤吉はそう言うと、父の働く郵便局で、父と一緒に郵便配達の仕事をするようになります。
そして家に帰ると、一生懸命勉強した。
たまたま、近所に、キリスト教系の青年たちが通っている英語塾がありました。
「これからは英語の時代だ」
そう確信した藤吉は、日中、郵便局員として働きながら、夜は、英語塾に通います。
明治17(1886)年、藤吉が17歳になったとき、心労と過労が重なったのでしょう。
父が他界してしまいます。
藤吉は、父が大洲に残したわずかばかりの資産を売り払い、東京に出ます。
そしてやはり苦学して早稲田専門学校(現・早稲田大学英文科)を卒業したあと、明治22(1889)年、もっと学問を究めたいと願って、この年の9月、単身、アメリカに留学します。
アメリカで、バンダビルト大学に入学した藤吉は、3年後にはバージニア大学に転校します。
そして同校在学中に、現役でバージニア州の弁護士資格をとります。
さらに藤吉は、明治28年(1895)年9月に念願の名門エール大学に進学。
翌、明治29(1896)年6月には、卒業し、エール大学の助教授になり、その間に超難関中の難関であるアメリカ全土に適用する連邦政府弁護士免許を獲得してしまいます。
さらに同大学の最高法学科を1年後に卒業し、ドクトル、オブ、シビルローの学位まで受けてしまいます。
とにかくめちゃめちゃ頭が良かったのですね。
ここまでくると、アメリカ国内で、もはや成功を約束されたようなものです。
有名な法律事務所に勤務すれば、破格の高額報酬を得て、VIPの仲間入りができる・・・はずだった。
ところが、人生というのは、とんでもない落とし穴があるものです。
ちょうどこの頃、アメリカ国内で激しい排日運動が起こるのです。
日本人であるというだけで、差別に遭い、それだけじゃなく、殺されかねない状況になった。
やむなく明治30(1897)年、28歳で、彼は日本に帰国します。
ここで普通なら、「それまで必死で勉強してきながら、米国内で就職の機会さえ閉ざされた藤吉は、失意の中で、日本に帰国した」と書くところです。
ところがどっこい、政尾藤吉は男でござる。
日本に帰ると、すぐに彼は英字新聞・ジャパンタイムズ社に編集顧問として就職するとともに、その経歴から政財界に人脈を広げて行きます。
ちょうどその頃、タイのラーマ5世は、タイ国の法制度の充実強化のため、有能な人材を外交ルートを通じて、日本に求めてきていました。
時の外務大臣大隈重信は、自身の創立した早稲田大学の卒業生の政尾藤吉に白羽の矢を立てます。
なにせ政尾藤吉は、アメリカのエール大学を卒業し、全米の連邦弁護士の資格まで持っているのです。
まさに適任者は彼しかいない。
大隈重信は、政尾藤吉を呼びだすと、彼に直接「タイ王国政府の法律顧問にならないか」と、誘います。
当時の藤吉には、タイ語はまるでわかりません。
しかも当時のタイは、国王であるラーマ5世の不退転の決意でかろうじて独立を保ってるとはいえ、まだまだ国力は弱い。
クーデターでも起これば、命の保証は何もありません。
しかし藤吉は、「やります!」と即答します。
人生意気に感ずです。
外務大臣から直接名指しで指名されたのです。
やらないわけにいかない。
こうして政尾藤吉は、満々たる闘志を秘めて、タイに向かいます。
当時のタイでは、すでにベルギー人の法律顧問を雇い入れ、法典の編さんに取りかかっていました。
藤吉は総顧問ローランスの補佐となり、その仕事を助けて、刑法、社会法の草案を作ります。
タイに滞在して、わずか二カ月でこれを仕上げてしまったのです。
これはすごい奴が来た、ということになって、藤吉はタイ王室によって、主任顧問に抜擢されます。
そして明治38(1905)年には、在任わずか5年の実績で、タイの白象三等勲章を授与され、さらに長老司法顧問の地位についてしまいます。
明治41(1908)年になると、今度は王冠第二等勲章を受け、日本からも勲四等旭日小綬章が授与される。
藤吉は、その後タイの大審院(いまでいう最高裁判所)判事を3年勤め、大正元(1912)年には、タイ国王から欽賜名(プラヤー・マヒトーンマヌーパコン・コーソンクン)を下賜され、タイの皇族待遇を受けます。
翌年、日本に帰国した藤吉は、大隈重信の薦めもあって政友会に入党し、大正4(1915)年には愛媛県から衆議院議員に出馬し、45歳の若さで当選しています。
大正6(1917)年には、衆議院議員として二期目の選挙に出馬し、これも当選。
さらに大正8(1919)年には、日本の国会議員の台湾・南支・南洋諸島・タイへの視察団の団長を務めています。
大正9(1920)年、正五位に叙せられた藤吉は、タイ駐在の特別全権大使に任ぜられ、ふたたびタイに赴任します。
そして滞在わずか1年たらずの大正10年8月11日バンコックの公使官邸で、脳溢血のため、逝去します。享年52歳でした。
藤吉の死に対し、日本政府は従四位を追贈します。
藤吉の悲報を知ったタイの日本人は、タイ各地から次々と大使官邸にかけつけ、彼の通夜は2週間も続いた。
タイの王室と、タイ国政府は、藤吉の葬儀に際して、葬儀・柩車・行列・火葬にいたるまで、すべて皇族と同じ待遇で行ないます。
とくに火葬に際しては、特別儀礼によってワッサケ火葬殿で盛大に執行し、その式にはラーマ5世自らが参列して、火葬爐に点火し、その死を惜しんだといいます。
いまでも、タイの教科書には「タイ近代法の父」として、政尾藤吉の名が掲載されています。
愛媛みかんから、とんでもないところまでお話が発展してしまいましたが、明治から大正にかけての日本は、国際貢献が叫ばれている現代日本よりも、はるかにスケールの大きな人的貢献をしていたのです。
ところが、これだけの貢献をしていた日本が、藤吉の死の翌年の大正10(1921)年に、ある大きな外交上の失敗をしてしまいます。
そして日本は、一気に国際社会の中で孤立し、転落をしてゆく。
お話の続きは、また明日。
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