
大東亜戦争がはじまる前のことです。
当時、インドネシアはオランダの植民地でした。
その蘭領インドネシアに単身で商用赴任した民間人がいます。
お名前を三浦襄(ゆずる)氏といいます。
彼は、インドネシアの独立のために、インドネシアの民衆のために生涯を捧げます。
その三浦襄氏について、ある方から、当時の秘話をいただきました。
ご了解をいただきましたので、ここに転載してみたいと思います。
ボクは読んで、とても感動しました。
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バリに日本陸軍が進駐したのは、太平洋戦争勃発の2ヶ月後、昭和17(1942)年2月9日のことです。
これによって、400年にわたるオランダのインドネシア植民地支配は終りを告げた。
当初インドネシアは、中国大陸から転進してきた陸軍が支配しますが、5月には次の作戦として、オーストラリア戦への展開に備えるため、飛行場確保と基地の整備目的で海軍に、統治を交替しています。
陸軍の統治は、やや荒い力の占領行政だったようです。
このため、温和なバリの民心が離れてしまった。
この状態を憂いた海軍陸戦部隊長の堀内豊秋司令は、軍律を遜守した厳しい指揮を行います。
これにより、バリ全島の治安は徐々に回復します。
≪仁政の軍神、堀内豊秋大佐≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-537.html
このとき堀内司令が、現地の人々との折衝を一切まかせたのが、現地の在留日本人、三浦襄氏です。
三浦襄(ゆずる)氏は、仙台のご出身です。
戦前から雑貨販売の販路拡張のための支社を設けるため、バリに居住していました。
彼は現地の主だった人々と、流暢な言葉と人柄で、交流を深め、信頼を築いていたのです。
海軍民生部は、軍用食料、飲料水その他資材の購入一切を三浦氏に依頼します。
そして、軍と現地の人々との信頼回復を図るために、三浦氏に、民生業務の一切を委ねます。
その三浦氏は、かつて陸軍が行った軍による現地徴発を一切禁じ、全ての購買業務をバリの人々にまかせます。
また、民生業務にひとりの日本人も採用せず、一切、報酬も受け取りませんでした。
さらに彼は、住居に、十人以上のオランダ時代の孤児を養育し、日本陸軍の軍属(朝鮮人か?)に乱暴されて自暴自棄になっていた村の娘に孤児たちの面倒を私費でみさせました。
三浦氏は日本軍への協力を取り付ける為に、宗教、習慣の異なる主だった人々を説得するために全島をかけ巡り、軍と住民の間の民生安定のための努力をします。
ところが三浦氏の努力もむなしく、終戦の詔勅が下ります。
まさに、晴天の霹靂です。
外地在住の日本人にとって、軍民を問わず衝撃は図りしれない。
情勢が一変したのです。
三浦氏は、これから数日後から、バリ島内39郡を日に夜をついで、駈け廻り出します。
行く先々で郡長、村長、その他の行政関係者、有力者に会います。
そして、終戦の止む無きに至った事情を説明し、日本としては、いまや約束をした、オランダからの独立を援助不可能となったことを謝し、自分としてはあくまでもインドネシアを愛しており、バリを愛するが故に全日本人に代わって、骨をこの地に埋めて独立を見届ける決心であること、そして在住の日本人に対し暴挙などは無意味であることを熱情をこめて説き、住民の理解と納得を求めたのです。
しかし、連合軍に降伏した軍関係者は、三浦氏も含め、全員、武装解除の上、シンガポール、チャンギー刑務所に護送されてしまいます。
三浦氏は、警備の隙をついて刑務所から脱走すると、終戦の混乱のなかのジャワ島を縦断し、数々の辛酸をなめ、やっとのことでバリに戻ります。
そして昭和20(1945)年9月6日の夕方、住まいのある首都デンパサールで、映画館を貸し切り、そこに現地人や華僑ら約600人を集め、声涙くだる演説を通訳を交えずに行います。
そして彼は、帰宅し書斎に入ると、仙台にいる夫人と、懇意の人々に4通の遺書を書き、沐浴して身を清め、真新しい衣類に着替え、屋内を汚すことを恐れて中庭の囲いの中に端坐し、右のコメカミに拳銃をあてて、一発のもとに最後を遂げました。
それは、神々しいまでに潔い最後であったといいます。
いつの間に用意したのか、三浦氏は、棺も用意し、住民墓地のなかに、ひと際目印になる老木の傍らに墓穴まで掘って用意してあったそうです。
翌日の午後、葬儀が執り行われます。
在留日本民間人の葬儀、焼香のあと、当時全バリ8つの自治領の領主たちが、ひとり残らず従者を伴って、葬儀にやってきます。
彼らはそれぞれ、2人づつの僧侶まで同道してきた。
この自治領の領主というのは、住民に対して生殺与奪の絶対的権力を代々保持している人たちです。
平民は彼らの前では常に膝行しなければならなかった。
8つの自治領の領主たちの葬儀への参列により、三浦氏の葬儀は、バリをあげての葬儀となります。
棺は日本人の黙祷に送られて出棺し、三浦氏が設立に奔走した看護学校、小中学校の生徒に先導される長い葬列、すぐ後には8人のラジャ、郡長、村長、役人、警察官、有力者、などの数百人が続き、そのあとに住民数千人が続きます。
沿道は両側とも紅白のインドネシア国旗が半旗を低く垂れていた。
この日、昭和20年9月7日、紅白のインドネシアの旗が、初めて「単独旗」として掲げられたのです。
まさにそれはバパ・バリ(バリの父)の死を悼むインドネシア住民の自発的弔旗だった。
焼きつくような炎熱の街に、戸毎に紅白旗がなびきます。
その大通りを、延々と千数百メートルに及ぶ葬列がしめやかに、静々と、粛々と進みます。
インドネシアの歴史において、いまにいたるも、この葬列に匹敵する厳粛な全島民あげての葬列をバリで受けた者は存在しないといいます。
そして将来も、共和国となったインドネシア・バリで、島中の心からの礼遇を受けるものは、出ることはないだろうさえ、いわれています。
その後、日本インドネシア間の戦後賠償による、バリ・ビーチホテル建設の折り、大成建設、鹿島建設の共同プロジェクトとして、三浦襄氏の墓は改葬されました。
三浦氏の墓は、「三浦襄はバリ人のために生き、インドネシア独立のために死んだ」との墓碑とともに、現在もデンパサール共同墓地に祀られています。
【参考文献】
「独立と革命」若きインドネシア
越野菊雄著 インドネシア経済研究所刊
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三浦襄氏は、軍人ではありません。軍属ですらない。
ですから恩給も、家族には支払われていません。
三浦氏は、いち日本人として、なんの栄誉も個人的利益も求めず、ただ祖国とインドネシアの友好のために、粉骨砕身し、最後は自らの言葉に生命をもって償ったのです。
もし皆様が、インドネシアのバリ島、デンパサール市に行かれたなら、是非、三浦氏の墓地にお参りをして頂ければと思います。
戦前の人的国際貢献といえば、インドネシアだけでなく、タイにもすごい人が行っています。
その人は、なんとタイ国王の皇族待遇まで受け、葬儀のときには、国王自らが火葬の礼をとっている・・・というお話は、また明日。
それでは。
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