
先日行われた海保による尖閣領域での中国漁船逮捕に関することです。
マスコミが全然報道しないので、多くの人は、たまたま1隻の中国漁船が領海に侵入してきたのだろう、くらいに思っています。
ところがこの日、実際に尖閣領域に侵入してきた中国漁船は、数十隻です。
最近になってこの海域には、多数の中国漁船が入り込んでいますが、多い時はなんと270隻という大船団で侵入してきた。
対する海保は、1隻です。
以前は、臨検のために乗り込んだら、日本人の海保官は、武器を用いないと向こうが知っている。
乗り込んだ海保の担当官が、逆に手足を縛られて海に投げ込まれたという事件も起こっています。
もちろん、海保の船は、海に投げ捨てられた同僚を助けなきゃなんない。
そうこうしているうちに、中国漁船はさっさと逃げてしまった。
相手はたかが漁船です。
こちらは高速の哨戒艇です。
追いかければいいじゃないかと思うかもしれない。
ところが、中国漁船は、漁船とは名ばかりで、実はエンジンをパワーアップした超高速艇です。
要するに漁船を偽装した人民解放軍の高速艇なのです。
そういうところで、今回も、数十隻の中国船が尖閣領域にやってきた。
海保は、中国語で「ここは日本の領海です。すみやかに引き返しなさい!」とスピーカーで彼らに警告します。
それに対し、向こうが示した行動は、なんと日本語で、「パラカロー!ここ、中国の海た!」とスピーカーで怒鳴り返してくる。
そうこうしているうちに、数十の中国漁船の中の一隻が、いきなり海保の船に衝突してきた。
あきらかに故意による衝突です。
海保は、やむなくこれを拿捕します。
そして中国船の船員たちを逮捕し、海保の船に引き揚げた。
これは、犯罪行為に対する緊急逮捕という側面だけでなく、人道上もやむをえぬ措置です。
なぜなら、中国漁船は衝突で大きく破損しているわけであり、そのような船に乗っている乗組員たちは、危険極まりない。
まして現場海域は、大型の人食いサメがウヨウヨいるエリアです。
通常では、海保の調査船が一隻哨戒任務にあたり、また海上自衛隊の飛行機が領海の監視をしています。
で、拿捕した。
しかし、ことは外国船との衝突です。
国際問題を懸念した海保本部は、対応について政府の判断を仰ぎます。
ところが、その政府は、民主党代表選のまっただなかです。
いくら照会しても、なんの回答もない。
結局、中国船を拿捕した海保の船は、多数の中国漁船に囲まれ、一触即発。何をされるかわからない状況です。
その危険な状況の中で、海保の船は、12時間もの長い間、現場海域で放置された。
海保の船が、よくぞご無事でいたものです。
このまま放置したら、たいへんなことになる。
そしてようやく出てきた民主党政府の回答は、とりあえず、曳航を認めるというもの。
やっと石垣島に着いた船は、調査をすれば、中共政府の指示によって大挙して押し寄せてきたという証拠が次々に出てきたかもしれない。
ところが、政府から漁船内部の立ち入り調査の許可が出ない。
結果、民主党政府から出てきたことは、中国船乗組員14人の本国への送還と拿捕した船の返還です。
いま、この瞬間にも、尖閣領域には、多数の中国船舶が横行しているのだそうです。
にもかかわらず、政府はそれを公表せず、マスコミもまったくそうした事実を報道しない。
いったいこの国は、どうなってしまったのかと言いたくなります。
日本は「資源の乏しい国」といわれています。
現状ではエネルギーの50%は石油に頼っているし、その90%は原油であり、原油は99%以上を輸入に頼っています。
ところが、ここにひとつの報告書があります。
国連のアジア極東経済委員会(ECAFE)が行った
東シナ海海底の調査報告書です。
調査期間は、昭和43(1968)年10月12日~同年11月29日まで。
この調査をもとに、翌昭和44年5月に公刊された答申です。
そこには、次のような文章があります。
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台湾と日本との間に横たわる浅海底は、
将来、世界的な産油地域となるであろうと期待される
~~~~~~~~~~~~
そしてこの海域における昭和44(1969)年~昭和45年の日本側調査によると、そこに眠る石油の埋蔵量は、1095億バレルです。
1980年代初めの中国側の調査結果では、700億~1600億バレルです。
ちなみに、世界第二の産油国といえばイラクですが、イラクの推定埋蔵量は1125億バレル。
イランのアザデガン油田の埋蔵量は260億バレルです。
このときの調査報告で、日本は、実は、イラクに次ぐ世界有数の大油田を保有しているとされているのです。
さらに近年の調査では、尖閣領域だけで、なんと原油が1000億バレル以上($39.40/バレル)、天然ガス2000億m3($6.68/mmBTU-100万英熱量単位)が埋蔵されていることが確認されています。
実は、中東の石油の枯渇が問題となってきているいま、世界が眼をつけているのが、この日本の東シナ海の海底の大油田なのです。
やっかいなことに、この尖閣領域の海底資源は、中国領海と、台湾の領海に、すこしばかり広がっています。
ここの資源に関しては、国境の問題もあるので、とりあえず30年間は日中台で、放置しておこうと、いうきまりになっています。
ところが、中国は、その条約を破り、すでに盗掘を始めています。
しかもご丁寧に、地下で日本側に深くパイプを伸ばし、まずは天然ガスからガンガン汲みあげている。
そしてここへきて、彼らががぜん、狙っているのが沖縄です。
尖閣領海は、日本が主権を回復する際、明らかに日本固有の領土として世界的にも承認されているエリアです。
中共も戦後すぐのころは、これを認めていた。
しかし、その地下に豊富な地下資源があるとわかるや、中共は露骨に尖閣領域は支那の領海であると主張をはじめています。
そしてこれを合法的に奪うために、いま、沖縄を琉球共和国として日本から独立させようと画策している。
次にこのことをのべてみようと思います。
戦後の反日教育によって、すでに国家観を喪失した日本人は、何も考えず、沖縄が独立するなら、それもいいんじゃん、くらいに軽く考えているようです。
ところが、中共の肝いりで誕生する琉球共和国のために書かれた琉球国臨時憲法の第九条には、次のように書いてある。
~~~~~~~~~~~~~~
琉球共和国の国防と歴史の教育は緩めてはなりません。
過去、琉球は戦争のため敵に占領されてしまいました。
政府は琉球の国防を十分に完備し、強化に努めなければならない。
琉球共和国の兵役は、公民から募集される志願制度です。
国防の義務を持ちます。
国家の安全・防衛の義務を持ちます。
琉球共和国の政府は国防の教育の職責を導く宣言があります。
国家の安全を十分に完備する義務があります。
政府は国家の和平性の記念日を行うことがあります。
政府は国民に対する歴史教育の職責を負います。
~~~~~~~~~~~~~~
要するに、沖縄のいわゆる「平和主義者」や「九条の会」の人たちのいう「基地のない平和な島」の先にあるのは、インチキの捏造史観に基づく嘘八百の軍事独裁国家に占領されて、沖縄の民が奴隷化され、収奪され、民族浄化と称して無理やり漢族の子を孕ませられる無法地帯としての沖縄です。
彼らは奇しくも書いています。
「国防と歴史の教育は緩めてはなりません」
いまの多くの日本人は、軍隊も正しい歴史認識もまるで違法行為扱いです。
しかし、軍や歴史を失った先にあるのは、他国による支配と収奪です。
人の命が大切にされるのは、ここが日本だからです。
世界は必ずしもそうではない。
とりわけ中共は、約5千万人の同国人を殺害してきた国です。
5千万人といえば、日本の人口の半分です。
それだけの人を殺した先に、いまの中共がある。
というわけで、イスラエルのお話をすこししてみたいと思います。
イスラエルが建国されたのは、昭和23(1948)年のことです。
この年の5月14日、イスラエルは独立宣言を行っています。
周辺国は、すべて敵です。
その中を、イスラエルは、これまでに7つの戦争を勝ちぬき、自国の独立を保っている。
そのイスラエル軍は、新兵の入隊式をマサダというところで行っています。
マサダの上で、右手に自動小銃を握り、左手に旧約聖書を持ち、
「マサダは二度と陥ちない」と誓います。

マサダというのは、いまから2000年前に、イスラエルがローマ帝国によって滅ぼされた際に、最後まで抵抗戦をした砦のあったところです。
すこし歴史を追ってみます。
古代ユダヤ王国が誕生したのは、いまから3000年前、紀元前11世紀頃のことです。
ところがこの古代ユダヤ王国は、他国につけこまれて、紀元前922年に、内乱が起こり、南北に分裂してしまいます。
北が、イスラエル王国。南がユダ王国です。
およそ古来、敵を倒すには、敵を分断し、バラバラにして各個撃破するというのが常套手段です。
分断されたイスラエルは、紀元前721年には北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、紀元前612年には、南のユダ王国も新バビロニアに滅ぼされてしまいます。
イスラエルの民(ユダヤ人)は、自分たちの民族の国家を失ってしまったのです。
国家を失うということはどういうことか。
それは、民族としてのアイデンティティも風俗習慣も、先祖を祀る歴史も、個人の私有財産も、すべて奪われ、奴隷として収奪されるということです。
そんなものは何千年も昔の話だよ、と思うかもしれません。
しかし違います。
今も昔も何ら変わらない。
現に、いまもアフリカの国々では、政権が変わるたびに通貨が変わっています。
昔あった満洲国はなくなりました。
シベリアに抑留された日本の将兵たちは、紙が支給されないので、満洲のお札をトイレットペーパー変わりに使ったという逸話があります。
いま、自分はン億円の資産があるから、なにがあっても大丈夫。孫や子の生活も安泰だ、とお考えの人もいるかもしれない。
しかし、その土地も財産も、日本国あってのものです。
国がなくなったら、預金はパア、お札は紙切れ、土地や建物は押収され、女子は性的奴隷にされる。
現に、今日こんにち、ウイグル族やチベットでは、中共によって、それが現実のものとなっています。
民族の国家を取り戻したい。
イスラエルの民の、そうした願いは、ついに、紀元前143年、ユダヤ人たちによる独立運動に発展します。
これが、マカバイ戦争です。
マカバイ戦争に勝ち抜いたユダヤ民族は、いったんはイスラエルの地の独立を勝ち取ります。
ところが、せっかく作った国家も、内紛につけこまれ、政治的にローマ帝国の属州にされてしまう。
これを不服としたユダヤ人が、再度立ち上がったのが、100年後の西暦66年です。
これが第一次ユダヤ戦争です。
彼らはなんとか独立を勝ち取るのですが、これを不快に思ったローマ帝国は、軍を派遣して、西暦70年、首都エルサレムを陥落させます。
このとき、最後まで抵抗したのが、エルアザル・ベン・ヤイル率いるユダヤ人967人です。
彼らは、「マサダ砦」に立てこもり、最後まで抵抗戦を行った。
マサダ砦を包囲する敵(ローマ軍)は、15000人の大軍です。
マサダ砦の967人は、勇敢に戦い、なんと3年近くもこの砦を守り通します。
しかし衆寡敵せず。
西暦73年には、ついに砦は攻め落とされます。
陥落直前にユダヤ人たちは、投降してローマの奴隷となるよりは死をと、2人の女性と5人の子供を残して、全員が集団自決しています。
自決に際して、エルアザル・ベン・ヤイールは、次の通り演説した(ヨセフスの「ユダヤ戦記」より)。
「高邁なる友よ、我々はずっと以前から、人類の唯一なる真にして義である主なる神以外には、ローマ人であれ、何人であれ、奴隷にならないと決心してきた。
そしてこの決意を実行に移して眞なるものとすべき時が今や到来した。・・・
我々が自由な状態で勇敢に死ねることは、神が我々に与えたもうた恵であると、私は思わずにはおれない。・・・
我々にはまだ、最愛なる同志とともに栄光ある死を選ぶこともできる。・・・
我々の妻たちが辱めを受ける前に、子供たちが奴隷を経験する前に、死なせてあげようではないか。
・・・自由を保持してゆこうではないか。・・・
糧食のほかは何も残さずにおこう。
何故なら、我々が死んだときの証として、我々が制圧されたのは必需品が不足していたからではなく、最初からの決意に従って我々は奴隷よりも死を選んだことを示してくれるだろうから」
男たちは自らの手で最愛の者達(妻と子)を殺します。
そして彼ら(男たち)の中から籤で十人を選び、残りの者達は首を差し出した。
選ばれた十人は恐れることなく使命を果たした後、再び籤で一人を選び、殺されていった。
最後に残った一人は、宮殿に火を付け、自らの剣を体に刺し貫いた。
マサダ砦は、この戦いのあと、ローマ軍によって徹底して破壊されます。
そしてイスラエルの民は、私有財産を剥奪され、女を辱められ、ローマの奴隷となった。
ローマは、イスラエルの歴史を徹底して消し去ります。
60年後の西暦132年、ユダヤ人バル・コクバは、ローマに対してふたたび独立戦争を挑みます。
これが第二次ユダヤ戦争と呼ばれるものです。
バル・コクバは、一時イスラエルを奪還し、政権を奪うのですが、翌135年、ローマ帝国に鎮圧され、滅ぼされます。
そしてイスラエルの民は、各地に離散し、現代イスラエル国が誕生するまで長い離散生活が始ります。
この離散生活者のことを、「ディアスポラ(διασπορά、英:Diaspora, diaspora)」といいます。
ディアスポラとは、植物の種などの「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉です。
難民(refugee)ではありません。
難民は、元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、ディアスポラは離散先での永住と定着を示唆している言葉です。
なぜかディアスポラには、邦訳語がないのですが、ディアスポラのよく知られる例としては、ギリシャ人、フェニキア人、アルメニア人、華人などの本国外に居住する該当集団をディアスポラと呼ぶことがあり、また、近代奴隷制によって新大陸に連れてこられたアフリカ人の子孫をディアスポラと呼ぶこともあります。
最近では、混乱によって国外に亡命したツチ族ルワンダ人や、ソマリアを逃れたソマリ人集団などについても用いられます。
要するに、イスラエルの民は、第二次ユダヤ戦争のあと、約二千年にわたって、ディアスポラとなった。
そしてマサダの戦いは、伝説となり、マサダ砦のあった場所すらもわからなくなってしまいます。
マサダ砦の跡地が発見されたのは、1838年になってからのことです。
ドイツ人研究者によって発見され、伝説の戦いが実際に起こったものであることが立証された。
マサダの山頂の発掘から、この籤で選ばれた十人が、それぞれ自らの名を署名した陶片が見つかったのです。

イスラエルは、昭和23(1948)年に、ふたたび独立を果たします。
その後、四方を敵国に囲まれたイスラエルは、わずか60年の間に、七度もの戦争を勝ち抜かなければならなかった。
しかし、そのイスラエル建国ですら、一朝一夕にしてできたものではありません。
ここにも、イスラエルの民の長く苦しい戦いがあったのです。
そしてこのイスラエルの独立に、日本が実は深く関与しています。
イスラエルの建国の英雄に、左腕を元から失った片腕の英雄、ヨセフ・トランペルトールがいます。
トランペルトールは、帝政ロシアに住んでいました。
そして徴兵され、日露戦争のとき、ロシア軍の一員として、旅順要塞に立て篭もります。
彼は日本軍の砲撃で左腕を根元から失います。
それでも残った一本の右手で、拳銃を撃ち、最後まで戦った。
本来、ユダヤ人であれば、役職をもらえないのだけれど、彼はその勇敢さゆえに、伍長に抜擢されています。
しかし旅順要塞は開城し、彼は、他のロシア人捕虜約一万人と共に、大阪府堺の浜寺ロシア兵捕虜収容所に連れてこられます。
当時の日本は、まだまだ貧しかったけれど、国際法に準拠し、捕虜たちには、最大限の待遇を与えます。
新鮮な肉や野菜やパンをふんだんに支給し、将校には当時のお金で月額で三円、兵には五〇銭の給料も支給した。
また収容所では、捕虜の宗教によって建物を分けたため、約500人のユダヤ兵たちは同じ建物で暮らすことができました。
トランペルドールは、日本人の所長にかけあって、収容所の中に学校をつくる許可を求めます。
そして捕虜たちにロシア語の読み書きや、算術、地理、歴史を教えた。
また、トランペルドールがユダヤ人のために収容所内で、過越の祭をしたいと言うと、所長は横浜のユダヤ人社会と連絡をとってくれて、ユダヤ人捕虜のために種なしパンの粉と、パンを焼くためのカマドを取り寄せてくれた。
そんなことから、トランペルドールは、日本はなんと文明国なのだろう、と考えるようになります。
敵の捕虜たちに対してさえ、これほどに親切に接してくれる。
しかし、あたりをみれば、周辺の民家には夜、灯りがともっていない。
つまり、電気がきていない。
電気もない貧しい小国が、なぜ大国ロシアを相手に勝つことができたのだろか。
トランペルドールは、一生懸命に日本語を習得し、なぜ小国日本が大国ロシアに打ち勝ったのか、その秘密を探求しようとします。
答えは、意外と身近なところに転がっていた。
警備をしているひとりの日本兵が言ったのです。
それは、
「国の為に死ぬほど名誉なことはない」
という言葉だった。
この言葉は、トランベルドールに、衝撃を与えます。
ユダヤ人であるトランペルドールにとって祖国はロシアではありません。
しかし、彼の祖国はその時存在しなかったのです。
ユダヤ人である彼にとって、ユダヤ人の国家の建設は、ユダヤ二千年の夢です。
しかしユダヤ人の国家を樹立するとはいっても、その国家は、どのような国家でなければならないか。
夢を現実にするためには、その具体的な青写真ができなければ、ユダヤ人の同志を巻き込み、新国家樹立の動きをなすことはできません。
そんななかで、トランペルドールは、やがて、新しく生まれるユダヤ国家は、日本のような国家でなければならないと、心に誓うようになります。
明治38(1905)年の日露講和によってロシアに帰還したトランペルドールは、やがてパレスチナに渡ります。
当時パレスチナはまだ、オスマン・トルコ帝国の領土です。
そこで彼は、イスラエル建国運動の中心的なリーダーになる。
そして、彼が夢見たのが、
「イスラエルの地に、日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」
ということです。
これは彼自身の言葉です。
大正9(1920)年、トランペルドールは、パレストナのガリラヤ地方でアラブ人の武装集団の銃撃を受けます。
ここでトランペルドールは、撃たれて息を引き取る。
最期の息を引き取るとき、トランペルドールがヘブル語で言った言葉が、
「アイン・ダバル! トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ」です。
意訳すると、
「俺に構うな! 国のために死ぬほどの名誉はない」です。
そうです。大阪の浜寺で、彼が日本人の一兵士から教えられた「国のために死ぬほどの名誉はない」という言葉です。
今日、イスラエルのトランペルドールの記念館にある像には、この「国のために死ぬほどの名誉はない」という言葉が刻印されています。
また、展示されている彼の遺品には、
「新しく生まれるユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」
と書かれています。
「しかし、この精神は、単に明治の日本やイスラエルだけのものではなく普遍的なものです。
およそ危機に直面した国民国家の存亡の分岐点となるのは、この精神の有無である。
では、この「国のために死ぬのが名誉である」というトランペルドールや彼にこの言葉を伝えた日本軍兵士の精神の前提には、如何なる思いがあるのかというと、既に明らかであろう。
それは「祖国への愛」なのだ。
誰が、祖国への愛なくして、国のために死ぬのが名誉と思うであろうか。
現在の一見平和に見えて危機感を喪失した日本に生きる我々は、日露戦争を戦い抜いた日本軍兵士からイスラエル建国の英雄に語られ、今我が国にイスラエルから戻ってきた「国のために死ぬほどの名誉はない」という言葉の意味をもう一度よく噛みしめる必要がある。
そうすれば、「祖国への愛」を教育で教えることを重視するか否かは、実は国家存亡に関わる課題であることが分かるのである。」
これは西村眞悟先生の言葉です。
「祖国への愛」と、「国のために死ぬほどの名誉」を失った国民の未来を待つのは、自由も正義も、私有財産も認められない、収奪国家であるという事実を忘れてはなりません。
そしてまた、かつてのイスラエルの民のように、日本が日本でなくなったとき、日本人は、ディアスポラとなって、世界を流浪しなければならなくなるかもしれない。
国を守るということは、妻や子、孫を守るということです。
祖国への愛は、家族への愛でもあります。
日本は、先の大戦で勇敢に戦い、玉砕した先人たちを、英雄として讃えることができる国家にならなければ、このままでは、日本人はすべてを失う。
そうはいっても、テレビを見ると、最近の中国は景気がよく、経済も成長し、人々の教育もキチンとされているではないか、と思う人もいるかもしれない。
しかし、よく考えてみてください。
景気良く発展した高層ビルが林立し、高架された高速道路が走る中国で何が起こっているか。
手抜き工事によるビルの倒壊。高速道路の落下。大連では2か月前、石油のパイプラインが破損し、原油が河川に流出し、大連の生態系を完膚なきまでに破壊しつくしています。
四川の地震も、日本では、数十名の死者としか報道されないけれど、一説によれば、数十万人が被災し、飢え、死亡している。
安い人件費を求めて中国に進出した企業は、工員たちの手抜き仕事に悩まされ、賃上げ闘争をされて結果として、日本とさして変わらないコストに悩まされている。
支那に旅行すると、あちこちで目に付くのは、ブランド品の模造品です。
模造品とはいっても、ブランドマークを付けてないというだけだから品質には問題ないなどと、いい加減なことを言われて騙されて買ってきた時計は、一ヶ月もしないうちに動かなくなる。
バックは縫製がほころびるし、スーツケースは空港に着いた途端に壊れてしまう。
こうなると「やっぱり高くても本物が一番」となるのが当然で、すでにアメリカでは、中国産品といえば、安物の代名詞となっています。
食品や医薬品に至っては、いったい何がはいっているのか危険このうえもない。
アメリカでも、商店の入り口に「チャイナ・フリー(中国製は扱っていません)」の看板が目立つようになってきているといいます。
「自分さえよければ」というのが支那人の基本姿勢とするならば、日本人は「公のために役立つこと」に美意識を持つ国です。
そしてそういう仲間を誇りに思い、自分も切磋琢磨して立派に生きようとするのが本来の日本人です。
日本人は、日本を取り戻す、ただそれだけで、世界に誇れる立派な日本人となれる。
そのためには、日本は教育から国家を取り戻さなくてはならないと思うのですが、みなさんは、いかがでしょうか。
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※本日のお話は、9月16日、雑誌正論の「正論の会」主催の西村眞悟先生の講演をもとに書きあげたものです。


