
昨日の名越二荒之助(なごしふたらのすけ)先生の記事の中で、吉松喜三大佐のお話が出てきました。
そこで今日は、吉松大佐のお話をしてみようかと思います。
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「緑の聯隊長」と呼ばれた方がいます。お名前を吉松喜三氏といいます。大正四(一九一五)年、佐賀県のお生まれで、終戦時の階級は陸軍大佐でした。
吉松氏は、大正六(一九一七)年に陸軍士官学校を第二九期で卒業されています。開戦に先立つ昭和十六(一九四一)年10月に大佐となり、昭和十八(一九四三)年四月からは、帝国陸軍機動歩兵第三聯隊長として活躍されています。昭和二二(一九四七)年にChinaから復員され、昭和六〇(一九八五)年に九〇歳でお亡くなりになりました。
開戦間近い昭和十五(一九四〇)年のことです。吉松大佐は戦闘中に腹部に重傷を負ってしまいました。そして後方の野戦病院に送られ、療養をされたのですが、そのとき、ひとつのひらめきを得ます。
療養中のベッドからふと窓の外を見たとき、隣接する洋館の中庭で、賛美歌を歌いながら緑の木立の中を散策する修道女達の姿が目に飛び込んできたのです。
昭和十八年、機動歩兵第三聯隊長に就任した吉松大佐は、そのひらめきを、聯隊の仲間たちに話します。
「Chinaは、際限のない砂と黄土の大地だ。その大地を、戦争はさらに破壊する。けれど自分たちは、興亜を願う皇軍兵士だ。日本軍の通ったあとに、草木も枯れるなどと言われるようなことはあってはならないのではないか。そうだ。緑だ。緑の木こそ人の心を安らかにする。みんなで植樹をしよう。自分は、植樹によって荒んだ兵隊達の心に安らぎを与えたい。そして散華した敵味方の将兵の御霊を弔いたいのだ。樹木の少ないChinaの地に、沢山の苗木を植えて繁らせて、住民を喜ばせようではないか。」
各大隊ごとの目標も決まりました。「各大隊ごとに50万本の植樹をする」というものです。いち大隊がおよそ一〇〇〇人ですから、ひとりあたり500本の植樹をする、というとほうもない話です。
軍の命令にいちいち説明はありません。「何だい? 今度の聯隊長は植木屋のせがれかい?」兵たちの中には、最初、そんな文句を言う者もいたそうです。
実際、ひとくちに植樹といっても、そんな簡単なものではないのです。そもそもChina大陸は、風土が日本よりはるかに厳しい。樹一本植えるにも、各大隊ごとに営庭などに挿し木の畑を作り、朝晩、水をやって苗木を作らなきゃならないし、苗木には毎日水をやってちゃんと育て、植樹したあとも、根付かせるまで、毎日世話をやかなきゃならない。たいへんな労力のいることなのです。
しかし吉松大佐の信念はゆるぎません。兵たちからしたら、不承不承だったかもしれないけれど、命令は実行された。そしてある朝、明るい陽ざしのなかに小さな若葉が苗木からふくのを見たとき、隊員たちから、自然と万歳の声があがります。
こうなるとみんなの気持ちに弾みがつく。
第三聯隊は、サラチ郊外の駅近くで、早々に50万本植樹を達成しました。
第一大隊は、これを記念して、ここに「興亜植樹の森記念の石碑」を建てます。
モンゴルに近い包頭(ほうとう)市では、現地のChineseのために、聯隊で興亜植樹公園を築きました。そこには、内地の桜と、ポプラの苗木を1万本植えた。小さな富士山も作った。池もめぐらし、兵隊や現地の人たちが釣りまでも楽しめるようにします。さらに子供たちのために、小さな動物園も作ってあげた。
第三聯隊は、植樹を意義づけようと、「興亜植樹の歌」が作られました。吉松隊長は喜び、これを部隊歌とした。そしてみんなで軍歌と共に歌いました。聯隊の団結と興亜への願いをこの歌に託したのです。
♪雪に嵐に打ち勝ちて
四方にひろがる深緑
西風いかにすさぶとも
われに平和の木陰あり
木々の緑は、乾いた黄土のなかに埋もれてしまう将兵たちの心や、地域の住民たちの心に、新鮮でやわらかい心を呼び覚ましたそうです。敵軍との小ぜりあいは毎日続いたけれど、砂漠の乾燥した風景が、いつしか緑豊かな大地に変わって行く。そこに感動がある。
第三聯隊の戦闘は、連日続きました。連戦連勝です。そして聯隊が通りすぎた後には、必ず木が植えられました。その木々が、花を咲かせ、木陰をつくる。吉松大佐の部隊は戦闘を休むことはあっても、植樹を休んだことは、一日もなかったそうです。
昭和十九年の春のことです。吉松大佐の第三聯隊は河南作戦に転進しました。みんなで大きな声で歌うのは、もちろん部隊歌の「興亜植樹の歌」です。洛陽攻略戦は壮絶をきわめました。多くの戦友の命が失われた。その中で、第四中隊長であった西宮中尉は、「ああ、安北の灯がみえる」と呟いて息絶えました。安北は、包頭地区警備の最前線にある街です。聯隊がもっとも長く駐屯した砂漠の町であり、聯隊の隊員たちが、住民らと協力あって、緑の街づくりに励んだ町でもあった。安北は、ほどなくして緑の町となり、夕暮れ時には、ここが戦場かと思われるほど緑豊かで、明るく静かな灯りに飾られる町になっていたのです。西宮中尉は、その安北の明かりが見えると言って、こときれた。
西宮中尉の最後の言葉は、全軍に広がりました。
「そうだ。俺たちは、あの安北の緑をChina全土に広げるんだ」
「そうだ、俺たちは、平和な町を建設するために戦っているんだ」
西宮中尉の言葉は、全軍の将兵を元気づけます。
洛陽の攻略戦は終わりました。戦闘集団は、その日から植樹の軍団に変わります。鉄砲をシャベルに、銃剣を鍬に持ち替え、「興亜植樹の歌」を合唱しながら、せっせと水をまき、種をまいた。
そのことは、何よりも将兵たちの心の救いになったそうです。荒涼とした大地の中で、彼らは懸命に自分たちの心の泉を築いたのです。
第三聯隊は連戦連勝でした。ですから昭和二〇年八月十五日がきた時、吉松聯隊長も、全隊員も、「降伏」ということをどうしても信じることができなかったそうです。
戦争が終わったあと、第三聯隊も、全員捕虜となりました。そして最初のうちは道路修復工事をさせられていた。ところが昭和二一年二月、中共軍から喜ばしいニュースが届けられます。もと敵将の劉峙(りゅうじ)上将から直接、吉松聯隊長指名で、「植樹隊」の編成を命じてきたのです。
「ざまあみろ、敵の大将も、やっぱりオレたちのこと知ってたんだ!」
なにが「ざまあみろ」なのかわからないけれど、隊長を中心に隊員たちはこれを聞いて抱き合って喜んだそうです。そしてなぜか、彼らは互いに照れるほど涙を流した。
植樹がはじまりました。戦火で荒れた大地に小さな緑の芽が、そっと芽吹きます。道路工夫から植木屋に変わった彼らは、敗残の日本軍を代表するつもりで植樹をつづけました。
まもなく感謝状が吉松聯隊長に届けられました。終戦で戦犯になった元将校の多い中で、敵将から「感謝状」をもらったのは、おそらく第三聯隊の吉松喜三大佐ただひとりです。
この感謝状を届けてきたChineseの将校は、次のように言いました。
「実は、勲章を贈る話も出たのです。ほとんど決まりかけていたのですが、日中国交の回復していない時に勲章は考えものだということになって、残念ながらとりやめになったのです。」
この話が部下に伝わったとき、部隊のみんなが言ったそうです。
「いらねえよ。金ピカの勲章なんかいらねえよ。隊長さんの勲章はこれだよ。この可愛らしく、ちょっと芽をだした柳の緑さ。これ以上の勲章があるもんか。」
不敗の第三聯隊の隊員たちにとって、それがなによりの心の勲章でした。
日本に帰国するとき、中共軍は、先の「感謝状」の他に、建国の父「孫文の肖像画」と、吉松隊長以下、全員が無事に日本に帰国できるようにと、専用の通行手形まで出してくれました。おかげで吉松聯隊長とその部下たちは、途中でトラブルに遭うこともなく、全員無事に日本に帰国することができました。
こうして昭和二二年暮れ、吉松喜三氏は日本の土を踏みました。けれど、ようやく日本に帰国した吉松氏を迎えたのは「公職追放」の四文字です。苦しい生活が続きます。けれどこの頃の吉松氏は、「死んだ部下の遺族と連絡を取り、いつか必ず慰霊祭を行いたい。そのために生き抜くんだ」とそれだけを思って日々を耐え忍んだといいます。
そして、旧部下の消息の把握のためや、遺族扶助料問題や遺族の調査など、吉松氏は日夜、地道な活動をつづけました。吉松氏が、公職追放を解かれたのは、ようやく昭和三〇年の春になってのことです。そしてやっとのことで、念願の慰霊祭を靖国神社で催せたのが、昭和三四年のことです。
その日、吉松隊長は、集まった戦友らとともに、靖国神社境内の隅に記念に桜の木を二本植えたそうです。
その桜は、吉松氏が最初の鍬を入れました。境内の固く踏みしめられた土を掘り起こそうとしたとき、突然、吉松氏の心の中に、Chinaの包頭(ほうとう)の町の姿と、宣昌の野戦病院で見た修道女たちの歌声がよみがえったそうです。
そして自分の内部に、何かが萌え出てくるのを感じた。それは吉松隊長が長いこと忘れていたものです。
吉松氏は、はっと気がつきました。
「そうだ、戦没者をなぐさめるために、靖国神社の境内にある樹々の実から苗木を育て、それを遺族に送ろう」
さっそく吉松隊長は神社の庶務課長と相談しました。とりあえず参道にある銀杏の実でやってみようということになった。銀杏は靖国の主木です。樹齢も二百年を越すほど長い。参道の両脇にたくさん植わっています。銀杏は天空にそびえる大樹となる。吉松元聯隊長は、神社当局の好意で、境内の一角の瓦礫の空地を借りることができました。さっそく整地にとりかかった。そこに銀杏の実を植え、苗を育てるのです。
彼は、たったひとりで靖国神社の銀杏の実を拾い集めました。けれど、やってみると、以外にこれがたいへんなことだった。参道に落ちている銀杏の実を拾う。それだのことが、そのころはたいへんだった。なぜかというと、当時の日本はまだ貧しく、神社の銀杏の実を拾って、食べ物のギンナンの実として売る人たちがいたのです。日中になると、銀杏の実はひとつ残らず持っていかれてしまう。
吉松氏は、実を拾い集めるために毎朝、中野から午前四時七分発の一番電車で靖国に出かけました。そしてまだ暗い中を、懐中電灯を頼りに、合計1400個の実を拾い集めました。
当時を振り返って吉松隊長は語ります。
「ひとりぼっちで玉砂利を踏んで拾っていると、ふと、ひとつひとつの実が、国のために死んだ人たちの魂が宿っているような気がしましてね。この実を育てて大木にしたら、その木にその人たちの魂が戻ってきて、宿ってくれるのではないだろうかって。
そう思うと、もしやこの銀杏の実や苗を、ふるさとの土地で育ててもらったら、これこそ遺骨の奉還になるのではないか。どんなに戦が惨列をきわめても、部下の遺骨を拾って遺族にお渡しするのは、指揮官としての私の義務ではないか。
こんな風に考えてまいりますと、不意に希望と光明がどこからともなく湧いてきましてね・・・」
そう語る老隊長の眼には、涙が浮かんでいたそうです。戦時中、外地で亡くなられた兵隊さんたちの遺骨は、遺族のもとに渡されました。しかしその遺骨の中味は「英霊」と書いた紙一枚というのがほとんどだったのです。
吉松氏の靖国神社での銀杏の実拾いと苗木の育成は、その日からずっと日課になりました。くる日もくる日も。そしてくる年もくる年も。
やがて慰霊植樹は、日本国内から、当時まだ米国領だった沖縄、ベトナムのサイゴン、懐かしの地である中国の安北、包頭付近までひろがり、苗木たちは大切に保護されて送られていきました。
昭和三七年の春、「沖縄の忠霊塔のそばにまいた銀杏の実が、十個のうち七個まで芽を出し、今では15センチ以上に伸びています」という嬉しい便りが、吉松氏のもとに届けられました。そしてこれと前後して、吉松氏のもとにChinaの内蒙古安北県の人民委員会から公文書が届きました。
「あなたの植えた木が6メートルほどに伸び、並木となって青々と茂っています。私たちの友好が幾山河を越え心と心がつながり、世界平和が実現されますように。」
吉松氏には、その並木の木々の一本一本に、思い出があります。
苗をみんなで育てたときのこと。
接ぎ木したときのこと。
植樹したときのこと。
仲間たちの笑顔。
掛け声。明るい笑い声。
みんなで歌った「興亜植樹の歌」の歌声。
ひとりひとりの戦友たちの顔が浮かびます。
仲間たちの思いが、いまも生きて、並木となっているのです。
「貴様たちに会う時の、いい土産話ができたよ」吉松隊長は、その手紙を握りしめ、ひとり男泣きに泣いたそうです。
また、吉松氏のもとには、戦争未亡人からの礼状も届けられました。
「先日、靖国神社で初めてお会いしましたあなた様より、いちょうの鉢植えをいただきまして、まことにありがとうございました。子供たちと話しましたところ、長く大切に育てるため「父の木」と命名いたし、この樹を父と思い、大切に大切にいたすことといたしました。これもみな、あなた様のお導きの賜物でございます。」
吉松氏は言います。
「苦しいことばかりでした。経済的にまいりかけたこともたびたびあります。正直いって一銭にもならないのに・・・そう思って気分的に滅入ってしまいまして・・・でも、歯を食いしばって、続けてきました。
それでよかった。銀杏だけだったのが、今は桜やとち、楓、すっかり園芸家になってしまいました。最近は神社のご好意で、一般の人にもお分けできるようにしていただきましたし。
今ですか?
苗木一本につき百円の志をいただいております。
亡くなった方の霊をお慰めするつもりになっていただいて、百円だしていただくわけなのです。こうして昨年は百万円近い金額が集まりました。その二割を靖国神社にお納めして、後は人件費、肥料、用意などに使いました。人件費というのは、私の給料、というか生活費。ハイ、やっと月に四万円ほどいただく身分になりました。
つい先日のことですがね。
「靖国」、つまり国を平和に安らかにする、そうするにはどうすればいいか、そんなこと考えながら、じっと「靖国」という字を見ていたんです。そしたら、思わず笑ってしまいました。
「青を立てる・・これが靖国なんですね。なんだ、自分のしてきたことでよかったのだ。笑いながら久しぶりに涙をこぼしました。」
昭和四四年七月一四日、志を立ててから、三〇年目の記念日の、老隊長の言葉です。そしてその年は、戦後に慰霊植樹を始めてから満十年を迎える年でもありました。
毎年訪れる八月十五日の終戦記念日には、多くの遺族が靖国の境内を埋めます。その人たちに、この銀杏を、桜の苗を残らず差し上げる。そして空になった苗田に、また今年の秋の実をまく。二〇年もすれば、それらはの苗は、立派な銀杏の木となって、日本中を平和な緑で飾る。
「もっとも私も74歳になりましたからね。その日まではとても生きてはいられないですが」」と老隊長は、にっこりと微笑んだそうです。
昭和六〇年、緑の聯隊長こと吉松喜三元陸軍大佐は、九〇歳で永眠されました。
靖国神社の境内の左側には、いまも参拝記念樹の頒布所があります。そこで配布されている苗木は、すべて靖国神社の境内の木の実を採って苗に育てたものです。
吉松隊長の心は、いまでもずっと息づいているのです。
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