
ある方からメッセージをいただいたのですが、最近「龍馬伝」というテレビ番組をやっていて、そこではなぜか岩崎弥太郎が腰抜けの狂言回しの役で登場しているのだそうです。
その方は、これは意図的に日本を貶めるものだと、お怒りです。
ボクも同感です。
岩崎弥太郎は、三菱財閥の創始者であり、日本経済の発展に大きく寄与した、ちょっと人並み外れた豪胆さを持つ偉人です。
ちなみにいまの日本では、サラリーマンはボーナスをもらいますが、日本で最初にボーナスを支給したのも、岩崎弥太郎がです。
もし、弥太郎がいなければ、勤め人がボーナスをもらうという制度は、なかったかもしれない。
弥太郎は、社員の奮闘に少しでも報いようと、我が国で最初のボーナスを支給したのです。
その岩崎弥太郎を、腰ぬけの狂言回し扱いし、それが制作側の意図的なものであるとすれば非常にタチが悪い。
そこで今日は、岩崎弥太郎について書いてみたいと思います。
岩崎弥太郎は、幕末の激動の中を駈け抜け、武士から実業家に転身して、一代で三菱を創始した男です。
弥太郎は、天保5(1834)年、土佐藩の地下浪人だった岩崎弥次郎と妻・美和の長男として井ノ口村(現・安芸市)で生まれています。
岩崎家というのは、山祇氏の末裔で、山祇氏というのは、甲斐源氏の棟梁職を現す「御旗」「楯無鎧」を八代にわたって相伝した家です。
日本古来の原住民の家系です。
そういわれてみれば、岩崎弥太郎の顔立ち(角ばった顔にどんぐり眼)って、縄文系の骨格そのものかもです。
岩崎家が土佐にやってきたのは、おそらく戦国時代よりも前といわれています。
その頃の土佐の大名は、長宗我部家です。
長宗我部家というのは、平安から鎌倉時代の初期に土佐に渡ってきた「宗我部氏」が開祖で、たまたま土佐には、別に「宗我部」という家があったため、住んでいた長岡郡の「長」の字をとって「長宗我部」と名乗ったといわれています。
ちなみに「宗我部」の「宗我」が、「蘇我氏」と音が似ていることから、奈良時代に登場する蘇我氏の末裔であるという説もあるそうです。
長宗我部家は、戦国時代におおいに発展し、四国全土をほぼ制圧してします。
その長宗我部家の強さの秘密ですが、それは「一領具足」と呼ばれる半農半兵の家臣団にあるといわれています。
「一領具足」というのは、半農半兵の長宗我部軍団で、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を持ち、いつでも直ちに召集できるように、農作業をしているときも、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたために、一領具足と呼ばれるようになった。
土佐物語には「死生知らずの野武士なり」と書かれています。
農業で鍛えた体に、命知らずの戦士というわけです。
ところが慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で、長宗我部家が石田光成側、つまり西軍に付いていたために、改易されてしまう。
後任は山内一豊です。
一豊は、長宗我部家の元家来だった一領具足と呼ばれる在地の武士たちを土佐藩士として採用します。
しかし、彼らは容易になびきません。
山内家に猛烈に抵抗し反乱を繰り返した。
そりゃそうです。
飛鳥朝時代に連なる蘇我氏の家系の誇り高き長宗我部の家人です。
流浪の民から身を起して信長の家臣団になり、秀吉に仕えて細君のド根性で出世した一豊のようなナリアガリとは家格が違う。
山内家は、対抗上やむなく藩内の要衝を身内の重臣で固め、さらに山内家の家臣団に重点的に藩の役職を配置します。
そして山内家ゆかりの家臣団を「上士」。
長宗我部から山内家で召し抱えた武士を「郷士」と呼んで、身分上も差別した。
「上士」は、家老、中老、馬廻り、小姓組、留守居組などの要職に就きます。
「郷士」は、用人、徒士、足軽などの身分の下級武士です。
弥太郎の家は、長宗我部の一党ですから、もちろん「郷士」です。
家は古く、由緒もある。
しかし江戸三百年の太平は、かつての誇り高き一領具足の生活を圧迫し、ついに曾祖父の岩崎弥次右衛門の代に郷士の「株」を売ってしまいます。
ちなみに江戸時代で「株」といえば、権利のことです。
「郷士」には郷土の「株」というのがあります。
「株」のおかげで、士分としての名字帯刀が許される。
土佐藩では、藩の財政が悪化した江戸中期から、臨時収入源として、郷士の「株」の売買を奨励します。
「郷士」が町人に「株」を売れば、抵抗勢力がひとつ減るし、藩の懐も豊かになる、というわけです。
商家などで、小金を貯め込んだ家は、喜んでこの「郷士株」を買った。
買った商家は、江戸の身分制度の士農工商のいちばん下の身分から、士分の名誉を得て、苗字帯刀を許される、最上級の士分となる。
江戸中期に、この「郷士株」を買ったのが、龍馬の坂本家です。
坂本家は、もともとは豪商です。
先祖が明和7(1770)年に郷土株を買って武士になった。
家は商業も続けているし、農業も経営していて豊かです。
加えて郷士株を買い取ることで、武家の身分も手に入れたわけです。
一方、岩崎家は、本来は郷士株を売ったので士分ではありません。
ところが、40年以上「郷士」だった家は、株売却後も、苗字帯刀と武家の家格は維持できた。
そのかわり、山内家からの棒碌はありません。
「地下浪人」と呼ばれる最下級の浪人者で、足軽以下の武士で一番下の身分です。
いってみれば、下級公務員だったけれど、その地位を売って、失業者になったわけです。
一時金は手に入るけれど、それを使い果たしたら、苗字帯刀こそ許されているものの、もうカネはありません。
おかげで、岩崎弥太郎は、子供の頃、極貧の中で育ちます。
極貧の中で育った弥太郎ですが、実は母親の美和が、安芸浦西ノ浜の医者の娘だったことから、弥太郎は、幼少の頃から土佐藩随一の儒学者である岡本寧浦に学ぶなどして学問環境にだけは恵まれた。
このあたり、昔の人は偉いです。
どんなに生活が苦しくても、子供の未来を第一に考えた。
だいたい子供に子供手当だけ出せばいいってもんじゃありません。
肝心の教育が日教組教育じゃあ、しゃれにもならない。
カネはなくても、どんなに貧乏だろうと、どんなに生活が苦しかろうと、未来を担う子供たちには、立派な教育を授ける。
これがオトナのすることです。
戦前の陸海軍の学校などは、まさにこの典型です。
授業料は無料で、全寮制。親の経済的負担はなし。
そのかわり、そこではとびきり優秀な英才教育が行われた。
話が脱線しましたが、弥太郎は、幼ない頃からとびっきり頭脳が明敏だったようです。
12歳ときには儒者小牧米山に弟子入りし、さらに小牧氏の紹介で、土佐藩随一の学者である吉田東洋の門下生となっている。

頭脳明晰、体格優良。この時代の武家は、いかに秀才であっても武芸がダメなら、ダメ男です。
弥太郎は、文武両道に秀で、14歳になると、藩主山内豊照の前で漢詩を披露し、さらに書も講じて褒美をもらうほどになっています。
安政元(1854)年、21歳になった弥太郎は、江戸詰めになった土佐藩士奥宮周二郎の従者として江戸へ行き、あちこちの塾の戸を叩きます。
そして翌年、千代田区神田駿河台にあった安積艮斉(あさかごんさい)の見山塾に入門した。
ここでも弥太郎は、頭脳明晰な逸材として、すぐに頭角を顕します。
この江戸遊学では、岩崎家では、先祖伝来の山林を売って遊学費を捻出したそうです。
このあたりも非常におもしろいところで、家格の古い岩崎家は、フローの収入はまるでなくて、超がつく極貧家庭だったけれど、先祖伝来の資産はたっぷり持っていた。
ルーマニアというのは古代ローマ帝国の末裔の国で、だからRomâniaです。
旧東欧圏だったから、国も民間も貧しくて公務員の年収が日本円で7万円ほどなのだけれど、どこも旧家で、中世からの遺品などをたっぷりと持っている。
ストックでみたら、ものすごいお金持ちの国です。
要するに富には、フローの富とストックの富がある。
いまの日本は、経済大国とはいっても、フローばかりです。ストックがない。
江戸で勉強に励む弥太郎ですが、安政2(1855)年、弥太郎の父・弥次郎が、酒席での喧嘩により投獄されてしまいます。
知らせを受けた弥太郎は、馬を使った早飛脚ですら14日かかる江戸~高知の道のりを、なんと雪の箱根をひた走り、大阪からは船で甲浦へ渡り、わずか16日目の12月29日の夜には井ノ口村に着いてしまう。
鍛え上げたすさまじい体力あってのことです。
土佐に戻った弥太郎は、父の喧嘩の様子を短期間に把握し、父の喧嘩が、実は冤罪であった事実をつかみます。
で、郡奉行に、しつこく赦免を迫った。
当時のしつこいというのは、単にメールやインタネットの掲示板で、ごちゃごちゃと匿名で悪口を書くというようなナマヌルイものではありません。
弥太郎は士分ですから、刀にかけて赦免を迫る。
これがあまりに激しかったことから、郡奉行は恐怖して、逆に弥太郎を世間を騒がす不逞の輩として投獄してしまいます。
ところが、転んでもただでは起きないのが弥太郎です。
獄中の同房だった商人から、算術や商学を学びます。
これは弥太郎にとっては、たいへんな知的収穫だった。
武家社会というのは、算盤勘定を忌み嫌う、という特徴があります。
武士道というのは、道徳概念であり規範で、「かくあらねばならぬ」というのが最優先の道です。「損得勘定」とは対極にある。
ですから幼少の頃から儒学を通じて武士道一筋に学んできた弥太郎にとって、牢獄の中で出会った商人から教わる算術や商学は、アナタノシラナイセカイです。
実に刺激的だった。
もともと頭がいい男だから、上達も理解も早い。
獄中の弥太郎は、商学と算盤に熱中しています。
ついでにまたちょっと脱線しますが、江戸時代の牢屋についてです。
日本における江戸時代の牢屋というのは、おそらくこの時代のどの国の牢屋よりも近代的だったといえそうです。
たとえ犯罪者でも、人はちゃんと人としての待遇を与えられた。
要するに封建時代の牢屋というのは、どこの国でも狭い空間に大勢の人を閉じ込め、風呂も使わせず飯も残飯程度の支給だった。
天井が低くて立てない牢屋や、横になって寝るだけの空間がとれない、満員電車のような牢屋も多かった。
お隣の朝鮮などでは、牢屋の不潔と残酷さは眼をおおうばかりで、食事はおかずなしの雑穀のみ、当然、風呂はなし。さらに監獄内は狭く、そこに多数の囚人を送り込むから、囚人たちは体を伸ばして寝ることすらできない。
囚人が増えると、牢屋の人滅らしのために、獄吏が好き勝手に囚人を殺害して「処理」していた。
ところが同じ時代の日本では、牢屋には風呂もあったし、食事もそれなりのものが出た。
江戸日本の牢屋は、世界で一番近代的だったのです。
さて、牢屋で算術と商学を学んだ弥太郎は、約7ヶ月で、牢屋を出されます。
ただし、苗字帯刀剥奪、井ノ口村追放となった。
弥太郎は、江戸勉学を断念し、神田村(現在の高知市鴨田)に引っ越して、そこで漢学塾を開きます。
もとより学問に秀でて、教え上手でもあった弥太郎の塾は大繁盛し、塾開設の2年後には、追放も赦免となり、家名も回復します。
学問への夢を捨てきれない弥太郎は、安政5(1858)年、吉田東洋のもとに入門します。
この当時、吉田東洋も蟄居中の身で、少林塾(鶴田塾)を開いていたのです。
そしてその少林塾には、後の明治政府で逓信大臣や農商務大臣を歴任する後藤象二郎や、自由民権運動で有名な板垣退助なども通っていた。
ちなみに後藤象二郎は、吉田東洋の甥(おい)にあたります。
そしてこの頃の後藤象二郎は、当時、現職の幡多郡奉行だった。
こういう高官と、学問の場で一緒に修行できるというのも、当時の日本の特徴です。

ある日のことです。
吉田東洋は、後藤象二郎に宿題を与えます。
提出された答案をみた吉田東洋、いささか驚いた。
実に素晴らしい出来です。
これだけの答案は、象二郎のものではあるまいと、吉田東洋は後藤象二郎を呼び出し、本人に直接問いただした。
ウソは、武士道の恥です。
象二郎は、「ハイ、岩崎弥太郎にやってもらいました」と、あっさりすっきり素直に答えた。
「そうか、アノ藩侯の御前で、講義をしたあの岩崎弥太郎がいるのか」
少林塾の門弟の数は多いです。
門弟たちには、学問の状態によって上下があり、吉田東洋の講義を直接聞けるのは、高弟たちだけです。
しかしこの事件がきっかけで、吉田東洋は数多くの門人のなかで岩崎弥太郎を一目置き、高弟に準じる扱いに格上げしています。
同じ頃江戸では、幕府大老の井伊直弼が、勅許を待たずに日米修好条約に調印をします。さらに「安政の大獄」を断行した。
幕末風雲急を告げる時代です。
藩は藩政を改革し、できる者を積極的に登用しなければならなくなった。
土佐藩は、吉田東洋を赦免し、藩政に復帰させます。
そもそも吉田東洋の思想は、富国強兵論に基づく門閥政治打破、流通機構の統制強化。洋式兵器の採用という現実主義です。
まさに時を得た。
もともと吉田東洋の蟄居というのも、藩主容堂の親戚などを呼んだ酒宴の席で、座が乱れて、松下嘉兵衛という男が東洋の頭に手をかけたのを、
東洋が、「武士の頭に手をかけるとは何事か」と、松下を殴った、というものです。
それで謹慎となっていた。
要するに太平の世の中では、たとえ高官の武士であっても、素手で暴力を振るったらそれだけで職を解かれ、蟄居を命ぜられた。
ところが黒船が来航し、国内が騒然となると、なんとしても藩の財政を立て直し、洋式の軍備を整えて藩を抜本的に改革しなければならない。
そのためには、少々問題があろうがなかろうが、有能な人材の登用が不可欠です。
藩政に復帰した吉田東洋は、さっそく藩の財政危機の救済策として、藩内の産業育成と海外貿易(武器や軍艦を買わなくちゃならない)開始のために、長崎に市場調査団を派遣します。
そしてこの調査団の一員に、東洋は24歳の岩崎弥太郎を抜擢する。
弥太郎は、翌年(安政6年)8月には藩の下級役人である下横目役(郷廻)として登用されますが、これも吉田東洋の推挙によるものです。
下横目役としての弥太郎の役割は、藩の過激派である土佐勤王党の監視や脱藩浪士の探索などです。
ちなみにこの頃の坂本竜馬は、まだ千葉道場で剣術の稽古をしていた頃で、危険人物としてのチェック対象にはいっていません。
弥太郎は、下横目の役割をこなしながら、市場調査団として派遣された長崎に、この頃たびたび出かけています。
そうして弥太郎は、海外事情を学び、外国人との交流も図った。
兵器は外国人から買うのです。
買う金は、土佐の物産を外国人に売って賄うのです。
外国人との交流は当然です。
ところがこの時代、長崎には全国の藩から人が集まり、外国人との取引を図ろうとしています。
ものすごい競争率です。
そこで、外国人との交流を深めるため、諸藩は外人を料亭に招いて接待した。
藩の輸出入を担当する弥太郎も、当然、これをやりますが、それには多額な金が必要です。
弥太郎は、藩から与えられた接待費を使い果たし、さらに費用がたりないからと金策のため土佐に戻ります。
これがいけなかった。
ある程度開明的な人には理解できる弥太郎の行動も、古くからの因習だけしかわからない頭の固い藩の年寄りたちには、まるでわからない。
そもそも地下浪人出身の身分いやしき者が、下級役人の分際で想像を絶するような多額の藩費を浪費し、しかも許可も得ずに勝手に土佐に戻ってきた、とんでもない、というわけです。
おかげで弥太郎は、万延元(1860)年に、解職され、謹慎処分となる。
無職となった弥太郎は、郷里に帰ろうとしますが、下横目として藩内の過激派の事情に通じ、頭が良く行動力も臍力もある弥太郎を、奉行所は手放しません。
また長崎の交易を担当する武士たちも、弥太郎がいないと話が前にすすまずにコマル。
弥太郎は、無役ながら、そのまま高知城下の姉夫婦の家に居候し、それまでの職の手伝いを行います。
手伝いといっても、ある程度の謝礼は入ります。
おかげですこしばかりフトコロ具合が良くなった弥太郎は、借財をして郷士株を買い戻し、文久2(1862)年2月1日には17歳の高芝喜勢と結婚した。弥太郎29歳です。なんと12歳も年下の女房です。
といっても、当時はこれが普通だったようです。
商家などでは、番頭さんは40歳を過ぎてから独立し、のれん分けして店を持ち妻帯します。
嫁さんになるのは、17~20歳くらいの女性ですから、なんと20歳以上歳も離れている。
さて、同じ年の4月8日のことです。
土佐藩では、藩政を揺るがす大事件が起こります。
吉田東洋が下城途中、帯屋町の自宅近くで、暗殺されたのです。
土佐勤王党の監視や脱藩士の探索の手伝いだった弥太郎は、正式に元の職に復帰し、東洋暗殺の犯人の探索を命じられます。
そして犯人逮捕のため、同僚の井上佐一郎と共に、大坂に向かう。
京・大阪で探索にあたる弥太郎と井上でしたが、突然、弥太郎だけが帰国を命ぜられます。必要な届出に不備があったのです。
役人というのはやっかいなものですね。
でも、これが、運命の分かれ道となります。
一緒に大阪に探索に行った井上佐一郎は、弥太郎が帰国した直後に、岡田以蔵らによって暗殺されてしまう。
国に戻った弥太郎は、京・大阪の実情から、むしろこれからは勤王党の時代かもしれないと、下横目の仕事を辞し、わずかな手持ち資金で材木商を始めます。
戦乱を予測し、郷里の山林を伐採して売れば儲かると踏んだのです。
ところが、当時の材木商は、藩の組合によって完全に牛耳られ、新参者の介入できる余地はなかった。
弥太郎の材木商は、またたくまに失敗し、彼はふたたび一文無しになってしまいます。
失意の弥太郎は、女房を連れて郷里に帰り、農作業の手伝いをして糊口をしのぎます。
ちょうど弥太郎が失意の中で農作業の手伝いをしている頃、郷里に帰っていた坂本竜馬が第一回の脱藩をしています。元治元(1864)年、のことです。
年が明けて慶應元(1865)年9月、坂本龍馬は、西郷隆盛の支援を受けて、長崎で浪士結社、貿易結社、商社である海運会社「亀山社中」を結成します。

一方、吉田東洋亡きあとの藩内で実力をつけた後藤象二郎は、翌、慶應2(1866)年2月、殖産興業や西洋風の科学教育振興のために、総合施設「開成館」を創設し、その貨殖局に岩崎弥太郎を勤務させます。
後藤象二郎は、当初、開成館主導で土佐の物産を、江戸や大阪、長崎で売って、そのカネを持って土佐の富国強兵を図ろうとしたのです。
ところが、武家のにわか商売では、なかなかうまくいかない。
そこで後藤象二郎は、商売の経験もある(とっても材木商をやってあっという間に失敗した男ですが)弥太郎に白羽の矢を立てて藩職に復帰させ、翌年には弥太郎を、土佐藩の商務組織・土佐商会の主任兼長崎留守居役に大抜擢した。
なんと弥太郎は、長崎に駐在して藩貿易の一切の責任を負う立場になったのです。長崎留守居役です。
これは身分としてはれっきとした土佐藩上士です。
水を得た魚のように、弥太郎は開成館の長崎商会で、外人たちと軍艦や武器の買い付けや、土佐物産の輸出の商取引を次々と成功させます。
その長崎には、やはり土佐藩出身の坂本竜馬がいます。
慶応3(1867)年4月、弥太郎の働きかけで、後藤象二郎は、竜馬の「亀山社中」の経営を、まるごと土佐藩で引きとる。
同時に坂本竜馬の脱藩も許します。
この時点で、坂本竜馬の「亀山社中」は、土佐藩の商務組織である土佐商会の下位機構となったわけです。
要するにどういうことかというと、竜馬の「亀山社中」は、外国人商人をはじめ薩長など、幅広い人脈があり人手もあって営業力はあるけれど、カネと社会的信用がない。
一方、土佐藩直営の長崎商会は、資金と藩をバックにした社会的信用はあるけれど、人脈と営業力がない。
竜馬にしてみれば、伊予大洲藩から船を借りて揚々と海運業をしたいけれど、その資金と船を借りるだけの社会的信用がないわけです。なにせ竜馬は脱藩浪人であり、脱藩前も身分は一介の郷士にすぎない。
そこへ、土佐藩が長崎商会を作って乗り出してきた。
両者が手を握れば、双方にとてもメリットがあるわけです。
さらに竜馬は、剣術の腕前は北辰一刀流免許皆伝の腕前だけれど、勉強はまるでダメ。成績も悪かった。
亀山社中は、竜馬を慕って人はたくさん集まっているけれど、人を囲う以上、竜馬は彼らに飯を食わせなきゃならない。
ところが、このとき竜馬についてきていたお竜さんは、色気があって三味線はうまかったけれど、炊事洗濯は、まるでダメです。
竜馬の亀山社中は、設立と同時に資金繰りに悩まされていたというのは、まあ、あたりまえといえばあたりまえの話です。
さらに経営には、豪胆さだけでなく、智慧と緻密な計算が要求されます。
そこへ土佐藩が進出してきた。藩の長崎商会は、土佐の物品を売らなきゃならないし、外国人から兵器も買いつけなきゃならないけど、なにせ人脈がナイ。
しかもそこにいる岩崎弥太郎は、子供の頃からの知己であり、頭もよく、算術にも通じている。
両者が手を握るのは、あるいみ当然の流れでもあったわけです。
で、亀山社中は、土佐藩のものとなった。
経営は、土佐藩長崎奉行の岩崎弥太郎がみます。
竜馬たちは、土佐藩長崎商会の営業部隊として海援隊を名乗る。
状況が整うと、竜馬は早速土佐藩の信用で、伊予大洲藩から「いろは丸」を借り受け、この船で意気揚々と、海援隊の隊士たちを乗せて、長崎から大阪に向けて出航します。
ところが、この「いろは丸」が沈没してしまう。。
「いろは丸」という船は、45馬力、160トンといいますから、外洋船舶としては、ほんの小さな船です。
ようやく瀬戸内海に入って、静かな波の中を航行中、紀州藩船の明光丸(150馬力、887トン)と衝突してしまう。
船の大きさの違いを考えたら、大型トラックと原チャリの事故のようなものです。
「いろは丸」は、あっという間に沈没してしまった。
衝突事故の非は、明らかに紀州藩の明光丸にあります。
しかし、相手は徳川御三家の紀州藩です。
竜馬は賠償請求の交渉出向くにあたり、「紀州藩と一戦交える覚悟ゆえ、万が一の時は妻をよろしく」と手紙に書いています。
家格の違う交渉事は、それほどの難事だったのです。
ところが、竜馬の必死の交渉が、なかなか進まない。
そもそも家柄を重んじる紀州藩です。
たかが郷士の浪人者風情に膝を屈するわけにはいかない。
だいたい普通に考えて、この手の緻密交渉事に、竜馬のような大風呂敷タイプは、やや不向きです。
これでは話にならないと、竜馬に代わって弥太郎が交渉役を交代します。
なんと弥太郎は、この難しい交渉を、もちまえの剛腕で、またたく間に紀州藩に非を認めさせてしまった。
このあたりの状況を考えると、弥太郎が実に学力が高かったこと、土佐藩をバックに交渉できたこと、当時の武士にしてはめずらしいほど、算盤勘定が巧みだったことなどがあげられるかもしれません。
あとは紀州藩の支払うべき賠償金の額を決める交渉だけです。
弥太郎は、続けて紀州藩と、詳細の調整に入ります。
同じ頃、長崎に帰った竜馬は、もちまえの大風呂敷を発揮して、後藤象二郎に会って、政権を朝廷に返す案である「船中八策」を披露します。
こういう政治的というか、大風呂敷は竜馬の得意な世界です。
案を聞いた後藤象二郎は、すぐにこの案の凄みを理解した。
幕府が政権を朝廷に返納することで、将軍家は一大名となっても新政府内での発言力を温存できる。
さらに薩長の討幕の理由もなくなる。国内の治安を復活させることができる。
欧米の軍事力(海軍力)に対抗するには、何より国内での戦費の流出を防ぎ、諸藩が一致して新政府を打ち立て、列強国に対抗しなければならない。
竜馬の船中八策は、まさに一石が二鳥にも三鳥にもなる妙案だったのです。
後藤象二郎は、すぐにこの案を土佐藩の前藩主である山内容堂に進言します。
上洛した容堂は、10月3日には、この案を将軍に大政奉還の建白書として提出。
同月15日には、そのまま大政奉還が実現した。
こう書くと、船中八策が、そのまま大政奉還を企図したもののように聞こえますが、船中八策の前文は、以下のものです。
~~~~~~~~~~~~~~
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新たに至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。
~~~~~~~~~~~~~~
要するにこの竜馬案は、ある意味、竜馬の新時代向けての大風呂敷、青写真です。
これを後藤象二郎やは、将軍家ご安泰のための妙案として活用したわけです。
別に竜馬を否定するわけでもなんでもありませんが、当時、薩長と徳川の争いは、下手をすれば世をふたたび戦国時代のような群雄割拠の時代に逆行させてしまう危険さえあり、刀を抜いた刃傷沙汰も日々あちこちで繰り返され、外からは欧米列強に狙われるという、非常にややこしい状態にあったわけです。
そうした中にあって、施政者たちの最大の関心は、「万機口論に決すべし」などという理想論ではなくて、いかにして国内の安定化を図るかにあった。
その問題意識に対して、船中八策の「天下の政権を朝廷に奉還せしめ」が、まさに「これだっ!」となったわけです。
決して竜馬が大政奉還を実現したわけではない。
このあたり、司馬遼太郎の「竜馬がいく」では、主役の竜馬をひきたてるために、やや竜馬の貢献を、特別扱いしていますが、事実は、竜馬の大ホラの中に、まさに天下の太平を願う施政者たちの心を動かすものが、含まれていた、ということです。
一方、いろは丸沈没事件の方ですが、弥太郎の交渉によって、12月、紀州藩はついに賠償金の支払いに応じます。その額なんと7万両です。
その報告が土佐藩にもたらされたとき、京にいた竜馬は、この知らせを知らないまま、近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいます。
この頃になると、長崎よりも天下の台所に近い神戸の港が、外国との商取引の中心地となります。
竜馬を失った長崎の海援隊はそのまま分裂解散し、翌、明治元(1868)年4月には、土佐商会の長崎支店も、閉鎖されます。
この稿は、弥太郎の物語なので、竜馬のことはほどほどにしておきたいのですが、ついでですので、竜馬暗殺についてのボクの私見を書いておきます。
真実はわかりません。
ただ、竜馬暗殺については、時期を考えると、下手人は紀州藩の人、もしくはその関係者だった可能性が高いのではないかと、ボクは見ています。
犯人は見廻組だとか、新撰組だとか、いろいろな説があるけれど、もし、治安を取り締まる見廻組や新撰組がやったなら、彼らは、たからかに竜馬のお命頂戴つかまつったと、宣言するか、あるいはちゃんと竜馬殺害を自分たちの「手柄」として記録したはずだと思うのです。
また尊王攘夷派にとって、開国を図ろうとする竜馬が邪魔だったという説も、この時点でなぜ竜馬なのかの理由にならない。
唯一、この時点で竜馬を殺害しておかしくない位置にあったのが、紀州藩なのではないかと思うのです。
なにせ、竜馬のあやつるオンボロ船を沈没させたくらいのことで、紀州藩は7万両もふんだくられたのです。
紀州藩士にしてみれば、たかが浪士風情があやつる小舟ひとつで、藩を追い込むなど不届き千万です。これは憤懣やるかたない。
しかし、オフィシャルな席で藩のお偉方と交渉している岩崎弥太郎は殺すわけにいきません。
そんなことをしたら、藩対藩のいくさになってしまいます。
ところが、実際に船をぶつけた張本人の坂本竜馬が、不用意にも京にいる。
この時点で、紀州藩の若者たちにしてみれば、竜馬斬るべし!となったとしても、なんら不思議はないし、もしそうであれば、竜馬の暗殺者がいったい誰なのか、いまだにまるでわからないということも、納得できます。
まあ、これはあくまでも、ボクの思いです。
さて、話を戻しますが、紀州藩との難しい交渉事を終わらせた岩崎弥太郎は、この頃になると、外国人商人たちとの交渉窓口も、長崎よりも神戸の港の方が、中心地になっていたころから、長崎の土佐商会をたたんで、大阪の土佐商会に移ります。
そして土佐藩の収入源となる貿易の管理を取り仕切り、格式馬廻役に昇進。
さらに明治3(1870)年には、土佐藩の少参事に昇格して、大阪藩邸の責任者になっています。
少参事というのは、藩の中老格です。
地下浪人の身分から異例の出世を果たしたのです。
翌年、明治新政府は、各藩が発行していた藩札を廃止して、全国共通の通貨である円の発行の検討にはいります。
要するに藩札という諸藩が発行していた通貨が、ただの紙切れになるわけです。
このウワサは、またたく間に広がり、土佐藩でも藩札が大暴落をはじめる。
ところが、このとき弥太郎は、10万両の資金を調達して、信用のなくなった藩札を安く大量に購入します。
そして、明治4(1871)年7月、廃藩置県令と同時に藩札廃止令が発せられ、藩札は明治新政府が当時の実勢相場で買い取ると宣言した。
安く買い叩いて仕入れた藩札です。
この藩札を時価で政府に買い取らせることで、弥太郎は巨万の富を手に入れます。
さらに廃藩置県にともない、各藩がそれぞれ即時にやっていた商取引会社は、事実上解散を命ぜられます。
弥太郎は、手にした富で、個人商店、九十九商会(つくもしょうかい)を設立し、土佐藩の借金を肩代わりするカタチで、藩所有の船3隻を買い受け、高知~神戸航路のほか、東京~大阪間の海上輸送業をはじめます。
ちなみに九十九(つくも)というのは、土佐湾の別名です。
当時の海運業最大手は日本国郵便汽船会社です。
これに対し弥太郎の九十九商会は、新興海運会社でしかありません。
しかし、ただ乗せてやると威張っている郵便汽船に対し、弥太郎は店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で応対することを心がけた。
店員で武士の意識が抜けずに笑顔の出来ない者には、弥太郎は小判の絵を描いた扇子を渡し 「お客を小判と思え」と指導したそうです。
こうして営業を順調に伸ばした弥太郎は、明治5年は九十九商会の称号を、三川商会に改称。これは経営幹部である川田、石川、中川の「川」の字にちなんで付けた名前です。
そして三川商会の「三」を意匠してマークにしようと、土佐藩主であった山内家の三葉柏と、岩崎家の三階菱の家紋を合わせて、三菱のマークを作ります。
そして明治6年3月には、社名も三菱と改称した。

明治10(1877)年、西南戦争が起こると、もともと西日本に強い三菱は、軍用船需要を独り占めにし、ここでなんと1300万円という巨額の運送料収入を得ます。
更に戦後の軍需品処分でも大きく儲ける。
明治18(1885)年2月、弥太郎は50歳でその生涯を閉じます。
そして、極貧から学問ひとつで身を起こし、度重なる試練に全力であたった剛腕実業家岩崎弥太郎の子供たちである三菱は、とにもかくにも「お客様を第一にする」という哲学をもって、明治、大正、昭和と大発展を遂げます。
そしていまや三菱商事、三菱重工、三菱東京UFJ銀行の御三家と、他に三菱化学、三菱地所、三菱電機、三菱自動車、菱食など、グループ49社の日本を代表する名門企業グループとなった。
たとえば菱食は、三菱グループの中では小さな会社ですが、なんと国内の食品流通VANのネットワークを押さえています。
さらに日本が輸入する食品原材料については、なんと7割のシェアを持っている。
三菱重工の作る自動車は、巷間、いろいろ言われるけれど、乗ったらわかるけど、とてつもなく性能が良い。
東京駅の皇居側、丸の内界隈というのは、俗に「三菱村」と呼ばれていて、ここの土地・建物はほぼぜんぶ三菱がオーナーです。
ちなみに東京駅のすぐ前には三菱商事の本社ビルがあります。
この建物がすでに老朽化し、手狭になっているからと、実は、ずいぶん前に三菱商事は本社を品川に、立派なビルを作って移転した。
そしたら、クレームがついたのです。
もともと三菱の本社が東京駅のスグ前にあることで、地方の有力者やお金持ちが上京したときに、駅を降りて、あるいは帰り際に、ちょこっと三菱商事に顔だしすることができた。
それが三菱商事の本社が品川に引っ越したら、いままでなら東京駅から電車に乗る前に、ちょこっと三菱商事に立ちよれたのに、今度はいちいち品川まで行かなくちゃならないから面倒くさいと、あまりお客様が訪ねて来なくなってしまったというのです。
新たに作った本社ビルは大事にしたいし、さりとてお客様はもっと大事です。
そこで、三菱商事が何をしたかというと、新幹線の駅を品川に作った。
新幹線を品川に停めちゃったのです。
いま新幹線が品川に停まるのは、実はそういう背景です。
さすがは天下の三菱商事です。
こういうことを横暴だとか言わないでください。
それだけの資金力と社会的影響力を持つ企業体を国家が持たないことのほうがもっと問題です。
GHQは、戦後、財閥を解体しましたが、国家を基礎とする企業が政治的に大きな力を持つというのは、実は国民にとって、非常に良いことです。
なぜかといえば、国家の発展と会社の発展がそのままイコールだからです。
すくなくとも、外国の言いなりになって、国益よりも外国の利益に手を貸すような企業より、これははるかにましなことです。
財閥があるということは、実は国家にとってはたいへんなメリットです。
だからこそ「復讐の意図」をもって「日本を解体」しようとしたGHQは、財閥解体を命じたのです。
戦後左翼は「軍と結びついた財閥があったから戦争が起こった」いうけれど、これは明らかな「まやかし」です。
少し考えればわかることです。
国が負ければ、いちばん被害を被るのは財閥です。
さて三菱ですが、品川の本社ビルのまん前に新幹線の駅を作ったものの、やはり上京したお金持ちさんたちにとっては、そこでいちいち降りるのは面倒くさい。
とまあ、勝手なものですが、それでどうなったかというと、三菱商事は、もとの東京駅前の本社ビルを復活させてしまいました。
つまり、本社の主要機能を、もとの東京駅前のビルに戻したのです。
天下の三菱商事ですら、そこまでしてお客様を大切にする。
この姿勢は、見習うべき点だと思います。
そういえば、ボクが社会人なりたてのころ上司から、お客様のことを「キャク」と呼ぶことをきつくたしなめられたことがあります。
「キャクじゃない。お客様と呼べ」というのです。
単に言葉だけの問題じゃないのですね。姿勢の問題なのです。
いまにして思えば、とても良いことを教わったと感謝しています。
それにしても、これだけの立志伝中の人物である岩崎弥太郎を、テレビ番組で貶め辱めるというのは、なにやら日本を解体しようとする支那の陰謀くさくて、嫌ですね。
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そういえば「竜馬伝」で岩崎弥太郎役をやっている香川照之という役者、支那で制作した売国映画「南京!南京!」に酷薄無情な日本軍人の役などやっていましたね。。。


