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中津留達雄大尉
中津留達雄大尉

昭和20年8月15日の正午に、玉音放送が全国に流れました。
日本は、戦争を終わらせたのです。
そしてのこの日の午後、玉音放送の後に大分航空基地を飛び立った11機の特攻隊がいました。


率いたのは、第七〇一航空隊艦爆分隊長中津留達雄大尉です。
そして隊長機には、第五航空艦隊総司令長官の宇垣纏中将も座乗しました。
特攻機は、沖縄伊平屋島の米軍キャンプに向かいました。
そこには、2か月前に1万人の米軍将兵が上陸し、この日の夜は、戦勝を祝って祝賀のビアパーティーをしていた。
あたりには一面、明りが煌々と灯っています。
目標は明確です。
そこに11機の日本軍特攻機がやってくる。
呑んで酔った米軍に、対抗のための対空砲火は間にあいません。
まさにパーティ会場にめがけて、最初の一機が突撃侵入コースに入ったときです。
まっすぐに突っ込んでくる特攻機に、米軍の将兵がパニックを起こしかけたその瞬間、最初の特攻機はいきなり進路を変え、近くの海岸に激突炎上した。
続く2番機も、米軍施設を避けるように目の前でルートを変え、畑に墜落炎上した。
そして米海軍の艦隊に向かって真っすぐに突入した他の機も、まさに艦に激突するというその瞬間にルートを変え、米艦にちょうど被害の及ばないあたりの海に機体を激突させた。
11機のうち、こうして2機は米軍キャンプの直前で体当たりを回避して自爆。
6機は、米艦にまさに突入する直前に、やはり突撃を回避して自爆。
残る6機は、沖縄にたどり着く前にエンジン不調で、不時着しています。
自爆した8機には、18名が搭乗。全員がこうして散華されました。
もちろん戦果はありません。
いやむしろこのとき突撃をしていれば、それこそ歴史的大戦果となったかもしれないです。
しかし、ポツタム宣言受諾後の戦闘行為は、国際的にみたら単なるテロ行為であり犯罪にしかならないし、しかも、終戦後の講和条件が、我が国に著しく不利になった可能性すらあります。
全機、突撃に完璧に成功し、大戦果が挙げられるというその直前に、突撃の行動をとって自爆したのが、この時点でもっとも正しい判断であったろうと思います。
昭和20年8月15日午後3時ごろの大分航空基地での出来事は、その場にいた大島治和一等飛行兵曹の記憶の中に鮮明に刻まれています。
この日、兵舎前に集められた22名の特攻兵たちの前で、第五航空艦隊司令部長官である宇垣纏(うがきまとめ)中将が、訓示をしています。
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本日、わが国はポツダム宣言を受諾した。
小官は幾多 の特攻隊員を犠牲にしてきて、誠に遺憾にたえない。
これから沖縄に最後の殴り込みを掛けるから、諸君、ついて行ってくれないか」
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それは、命令口調ではなく、お願いするような訓示だったといいます。
集められた22名は、第五航艦に属する第七〇一航空隊の艦上爆撃機彗星11機に搭乗する分隊長中津留達雄大尉(なかつるたつお)氏(当時23歳)らです。
不思議なことに、この最後の特攻隊長となった中津留達雄大尉と、最初の特攻隊長である関行男大尉は、同じく昭和16年11月15日に海軍兵学校を卒業した第70期432名のなかのふたりです。
しかも二人は、ともに飛行科を志願し、飛行学生として共に学び、わずか五人に絞られた艦爆仲間でもある。
中津留達雄大尉は、大正11(1922)年大分県津久見町(現津久見市)の生まれです。父はセメント会社勤務。母は教師で、彼は一人息子です。
少年時代の中津留大尉は、水泳が得意で成績優秀、県立臼杵(うすき)中学では、テニス部の選手として、県大会にも出場しています。
そして昭和13(1938)年に、臼杵中学からただ1人、難関の海軍兵学校に合格します。
海軍兵学校の生徒というのは、当時の少年や女学生にとって、憧れの的です。
なにせ成績優秀、体力頑健、まるで絵に描いたようなとびきり優秀な若者たちです。
なかでも端整な顔立ちと長身の中津留にはファンも多くて、津久見に帰省するのを事前に察知していた女学生が、中津留の歩く後ろに列をなして何人もゾロゾロついてくるほどだったといいます。
中津留を知る当時の人は、「部下に優しく、ハンサムだし、がっちりして、まさに美丈夫という言葉がぴったりでした」と評している。
昭和16年11月、海軍兵学校を卒業した中津留は、巡洋艦「北上」、さらに駆逐艦「暁」に乗艦します。
昭和17年11月「暁」は、第3次ソロモン海戦で撃沈されてしまうのだけれど、水泳の達者な中津留は、16時間泳いで、奇跡的に命拾いしています。
その後、宇佐海軍航空隊の教官として、パイロットの養成に努める。
やさしく、親身に部下を気遣い、艦爆の急降下や、編隊、滑走の方法を微細にわたって指導し、大声を出したり、暴力を振るったりすることのない、教官だったそうです。
この宇佐の教官時代、中津留は、同じ階級の山下博大尉に殴られています。
これはしてはいけないことです。
士官が士官を殴るのは、統率上からいって、絶対にあってはならない。
殴られた士官は、部下に対して全く立場というものがなくなってしまうからです。
ところが、殴られた側の中津留は、まるで意にかいする様子もなく、ケロっとしている。
そのあまりのさわやかさに、殴った山下博大尉も、周囲の部下たちも、全員が中津留のファンになってしまったそうです。
この宇佐航空隊の時代に、基地に慰問袋が送られてきます。
たまたま中津留が受け取った慰問袋は、見れば家も近い。
義理堅い中津留は、慰問袋の提供者の元へお礼に出かけます。
なんとその提供者は、実に麗しい女性だった。
中津留は、その女性に一目惚れし、求婚する。それが妻の保子さんです。
中津留は、結婚後、鳥取県の美保基地に転勤になるのだけれど、故郷の大分では、長女が生まれています。
中津留の上官だった江間保(えまたもつ)少佐は、昭和20年8月初旬に、中津留を大分基地に転勤させてくれます。
それは、戦況厳しい中で、初めての子の顔を一目見させようとの、江間少佐の思いやりであったといいます。
その江間少佐は、昭和62年に病死するまで、中津留の死命を決する大分基地勤務を、悔やみに悔やみ続けたそうです。
自分が良かれと思ってしたことが、かえって中津留を死なせることになった。
江間少佐にしたら、さぞかし辛かったことだろうと思います。
しかし、もし、中津留大尉の死亡が、運命だったとするならば、彼は江間少佐のおかげで、大分で我が子と初の対面をすることができたのです。
それは、親子にとって最後の対面になったけれど、もし、対面もできずに亡くなっていたらと思えば、会えたのは、江間少佐のおかげです。
中津留大尉も、きっと江間少佐に心から感謝していると思う。
玉音放送の前日の14日に、連合艦隊司令長官小澤治三郎中将は、全国の海軍将兵に対して、「対ソ及対沖縄積極攻撃中止」の命令を発しています。
もちろん、その命令を大分の第五航空艦隊も受けます。
そして8月15日、朝からラジオは、正午に天皇から重大放送があると、繰り返し伝えます。
またこの日、大分基地で受信していた英語のサンフランシスコ放送(当時の海軍士官というのは、ほとんど全員が英語も堪能だった)でも、日本がポツダム宣言を正式に受諾し、戦争が終わったことを繰り返し報じています。
そして終戦を報じた玉音放送のあと、午後3時に、宇垣中将は、中津留大尉を呼び、艦爆機「彗星」5機10人で沖縄攻撃を行うことを命じ、自らも特攻機に同乗すると伝えます。
命令を受けた中津留は、自分を含む10人を指名する。
ところが、選に漏れた者たちは、誰も承知しません。
「なぜ私を外すんですか」
「全員連れてってください」
激しい突き上げに中津留は、それではと、可動の11機全部を出すことにし、編成も22人に増 やします。
それでも選に漏れた十数人の残留隊員は、「私も連れてって下さい」と納得しない。
中津留はこのとき、「お前たちはしばらく待機していろ」と、やっとなだめたといいます。
いよいよ出発のとき、中津留は、整備中の自機のエンジンの異常音を聞きます。
隊長機には、決死の宇垣長官も同乗されます。
死を決意した宇垣長官の本懐を遂げさせるためにも、万が一にも不時着するようなことがあってはならない。
中津留は、隊長機を別な他機に乗り換えます。
乗り換えなければ、中津留の運命もまた変わっていたかもしれません。
案の定、中津留の愛機は、エンジントラブルで出撃後、途中で不時着してしまっています。
宇垣長官は、山本五十六連合艦隊司令長官の元参謀長です。
そしていま、沖縄への特攻作戦の司令部長官にある。
宇垣長官は、故山本五十六長官の形見の短刀を持ち、飛行服を着けずに、中津留隊長の機に乗り込みます。
8月15日午後5時、宇垣長官を乗せた特攻機11機は、大分飛行場を飛び立ちます。
沖縄に到達する前、機上から宇垣纏中将はが最期の電文を送信しています。

第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将と最後の特攻機「彗星」33型
第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将と最後の特攻機「彗星」33型

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過去半歳にわたる麾下各部隊の奮戦にかかわらず、
驕敵を撃砕し神州護持の大任を果すこと能わざりしは、
本職不敏の致すところなり。
本職は皇国無窮と天航空部隊特攻精神の昂揚を確信し、
部隊隊員が桜花と散りし沖縄に進攻、
皇国武人の本領を発揮し驕敵米艦に突入撃沈す。
指揮下各部隊は本職の意を体し、
来るべき凡ゆる苦難を克服し、
精強なる国軍を再建し、
皇国を万世無窮ならしめよ。
天皇陛下万歳
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その日の夜、特攻機は沖縄・伊平屋島(いへやじま)の米軍基地に到達します。
洋上には無数の米軍艦。
そして陸には、日本の無条件降伏で米軍の勝利が確定した米軍が、煌々と明かりを灯して戦勝のビア・パーティを開いています。
戦争は終わったのです。
米軍は、完全に対空防備を解いている。
11機の特攻機は、敵上空に達しながら、まったく対空砲火を受けていません。
上空からは、赤々と明りを灯した米軍のパーティ会場の様子がくっきりと見て取れる。
その様子を見た機上の23名は、そのときいったい何を感じたのでしょうか。
パーティ会場に向かって、まっすぐに突っ込んでくる機影に、パーティ中の米兵が気が付きます。
敵襲です。
慌てふためく米兵たちの前に、日本の特攻機は、まっすぐに突っ込んできます。
慌てて高射砲に走る者、銃を取りに行く者、避難する者。
特攻機の姿が、米軍の対空照明にくっきりと浮かび上がります。
一万人の将兵が集まる米軍のパーティ会場は騒然となる。
サーチライトに照らされた日本の特攻機は、まっすぐに突っ込んでくる。
最早、対空砲火は間にあいません。
そのとき、ふいに特攻機は、翼をひるがえして、機体の方向を転じます。
地上にいる米兵の目に、あざやかな日の丸が焼きつく。
そして機は、近くの海岸に激突炎上した。
続く2番機も、米軍重火器施設をあわや直撃と思われたその瞬間、機を反転させて近くの畑に墜落炎上した。
海上では、米海軍の艦隊に向かって真っすぐに突入した他の機が、やはり、まさに艦に激突するというその瞬間にルートを変え、米艦にちょうど被害の及ばないあたりの海に機体を激突させた。
そうして最後の特攻に出撃した11機23人は、隊長機を含む八機が激突、戦死。
三機がエンジ不調で着水して、6人中ひとりが死亡、五人が救助されます。
翌8月16日早朝 沖縄・伊平屋島の岩礁に突っ込んでいる特攻機を米軍が調査し、機体から3人の遺体を収容しています。
その中に、飛行服を身に着けていない遺体があり、所持品の中から短刀が発見された。
この日、中津留大尉は享年23歳、大分には、新婚1年4か月の妻と、3週間前に生まれたばかりの愛娘(まなむすめ)がいました。
この最後の特攻については、宇垣長官が特攻を命じたのに、中津留大尉が、機上でこれを破り、反転して機体を地面に激突させたのだとか、宇垣長官の行為は、自決に部下を道連れにしただけだとか、後年、いろいろな「説」が語られています。
ボクは、どれも間違いだろうと思う。
特攻激突の直前に、隊長機の中だけで長官と中津留隊長が揉めただけというなら、事情を知らない他の機まで、突撃の直前で機体をひるがえして、全機、敵との衝突を避けたということはあり得ないからです。
特攻機に搭乗した全員が、これが終戦後の特別攻撃であるということを知っていた。
それでも特攻したのは、まさに宇垣長官の電文の通りです。
過去半年にわたって、部下が奮戦し、命を的(まと)にして特攻攻撃に殉じた。
そして、Chinaを含むアジアの平和と繁栄を願う帝国に対し、Chinaの暴徒達に武器弾薬兵糧を渡して大国Chinaを内乱状態に陥れ、漁夫の利としてのChina大陸支配を目論む米英に対して、日本は戦いを挑んだ。
しかし、衆寡敵せず、軍人として群がる敵を撃砕し、神州護持の大任を果すことができなかった。
俺たちは、これからの日本の繁栄と発展を願い、桜と散ろう。
しかし、もはや戦争は終わっている。
だから、突撃寸前で、矛先を留め、機体を激突させて俺たちは死ぬ。
日本が、来るべきあらゆる苦難を克服し、精強なる国軍を再建し、皇国を万世無窮ならしめる日が必ず来ると信じて。
宇垣長官、中津留大尉を含む、この日散華された18名は、等しくその思いを胸に、散って行かれたのではないか。
そして、大東亜戦争を通じての彼ら軍人さんたちの勇猛果敢な戦いのおかげで、終戦後の日本は、国体を完全に解体されることを免れ、東亜を含むアジア諸国も独立を保つことができた。
いま、私たちがこうして生きて繁栄を享受することができ、戦時中のいろいろな情報に接することができるのも、彼らが最後まで戦うことをあきらめず、このまま本土決戦に持ち込んだら、どれだけの損害を発生させることになるのか想像もつかないというメッセージを、連合国側に与えたからだと、ボクは思っています。
おかげで、日本は、戦前の記憶を完全には失わずに済んだ。
私たちはもう一度、日本という国の原点に帰り、あらゆる苦難を克服して、精強な国軍を再建し、皇国を万世無窮ならしめる日をむかえるために、立ち上がるのです。
戦後65年を経由して、いまようやくその時が来たのだと、ボクは思います。
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