
政治やら反日やら、このところロクな話がないので、暑いし、たまに息抜きにすこし方の力を抜いたことを書こうかと思います。
なんの話かというと、ボーイスカウト(英語:the Boy Scouts)の話です。
ボーイスカウトは、みなさんよくご存知の世界的な青少年団体です。
ちなみにボーイスカウトの「スカウト」は、女性の穿くスカートのことではなくて、Scout=斥候(せつこう)とか偵察兵の意です。
どうして斥候が青少年育成につながったかというと、その創設時のいきさつがそこにあります。
ボーイスカウトの創設者は、イギリスの退役軍人のロバート・ベーデン=パウエル(Robert Stephenson Smyth Baden-Powell)卿という人です。
バウエル卿という人は、安政4(1857)年の生まれです。
彼は18歳(明治9(1876)年)でイギリス陸軍に入隊します。
そして、軽騎兵隊の偵察と斥候術の専門家として、アフリカで歴戦した。
そして敵情を詳細に把握し、絶対に失敗しない追跡力におそれをなした敵のズールー族やアシャンティ族らは、彼のことを、「インペーサ」と呼んだ。
「インペーサ」というのは、「眠らないオオカミ」という意味なのだそうです。
それほど彼の斥候術は素晴らしいものだった。
パウエル卿は、こうした自身の斥候と、その育成体験をもとに、明治32(1899)年、「Aids to Scouting for N.-C.Os and Men」という軍人向けの斥候手引き書を作成します。
この本に書かれた斥候の「心構え」がとても素晴らしいものだったことから、彼の手引書は(軍人向けに書かれたものでありながら)全英の青少年向けの教材として活用されます。
そして軍を退役したパウエル卿は、多方面からもっと青少年の育成向けに内容を精緻にしてもらえないかとリクエストを受け、明治40(1907)年に、イギリスのブラウンシー島に20名の少年を集めて青少年育成のための実験キャンプを行います。
キャンプは大成功します。
そして彼は翌年「少年のための斥候術(原題:Scouting for Boys)」という本を出版する。
この本がきっかけとなって、本を読んだ少年たちが、英国内で、自発的にパトロール組織を形成するようになります。
パトロールだけでなく、互いに力を合わせて善行を始めた。
これがきっかけで、全英でボーイスカウト運動が引き起こされます。
実は、このバウエル卿に、乃木希典大将が会っています。
当時陸軍大将だった乃木希典大将は、明治44(1911)年、イギリス国王となったジョージ五世の戴冠式に、明治天皇、皇后のご名代として派遣された東伏見宮依仁親王ご夫妻に随行して英国に渡っています。
そして乃木大将は、英国でボーイスカウトの訓練を視察した。
そのときの案内役が、パウエル卿だった。
乃木大将は、「このようなよい制度をどのようにして創られたのですか」とパウエル卿に尋ねたそうです。
するとパウエル卿は、「あなたのお国の薩摩における≪郷中教育≫の制度を研究し、そのよい点を採り入れ組織したのです」と答えた。
この事実は、乃木大将の当日の日記に記されています。
郷中というのは、薩摩藩主島津義弘によって創設された、薩摩の青少年の若衆組です。
すでに約400年の歴史がある伝統的青少年教育方法です。
郷中は、町を4~500メートル四方の単位で区切り(これを方限(ほうぎり)といいます)、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を、4つに区分します。
6~10歳 小稚児(こちご)
11~15歳 長稚児(おせちご)
15~25歳 二才(にせ)
妻帯した先輩 長老(おせんし)
それぞれのグループには、「頭(かしら)」がいます。
頭は郷中での生活の一切を監督します。
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり、そこで勉学、武芸、山坂達者(体育)を学びます。
指導には先輩があたる。
先輩が後輩を指導することによって、心身ともに力強い武士を育成します。
郷中教育の骨子は、つぎの8つです。
1 武士道の義を実践せよ
2 心身を鍛錬せよ
3 嘘を言うな
4 負けるな
5 弱いものいじめをするな
6 質実剛健たれ
7 たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
8 金銭利欲にかんする観念をもっとも卑しむ
ちなみに、ボーイスカウトにも、三つのちかい (Scout Promise) と八つのおきて (Scout Law) というものがあります。
○スカウトのちかい
1 神と国とに誠を尽くし、掟を守ります。
2 いつも他の人々をたすけます。
3 からだを強くし心をすこやかに徳を養います。
○スカウトの掟(おきて)
1 スカウトは誠実である
2 スカウトは友情にあつい
3 スカウトは礼儀正しい
4 スカウトは親切である
5 スカウトは快活である
6 スカウトは質素である
7 スカウトは勇敢である
8 スカウトは感謝の心を持つ
このスカウトの掟(おきて)は、現代版です。
もともとは、12項目あった。
その12項目の掟は、米国スカウト連盟 (Boy Scouts of America)では、いまでも使用されています。
1 誠実である
2 忠節を尽くす
3 人の力になる
4 友誼に厚い
5 礼儀正しい
6 親切である
7 従順である
8 快活である
9 質素である
10 勇敢である
11 純潔である
12 つつしみ深い
の12項目です。
言葉は違うけれど、郷中の教育に近いものがあります。
実は、イギリスと薩摩藩は、深い関係があります。
文久2(1862)年、横浜市鶴見区生麦付近で江戸から京都に向かう途中であった島津久光の行列が生麦村に差し掛かったところで、前方を横浜在住のイギリス人水兵4人が乗馬のまま横切った。
これは無礼な振舞です。
大名行列の前を、馬上で横切るなど、不届き千万。
奈良原喜左衛門ら薩摩藩の行列の警護の藩士が、たちまちこの4人に斬りかかり1人が即死、重体後死亡が2人、1名に重傷を負わせた。
イギリスはこれに厳重抗議をします。
江戸幕府は、英国の抗議に震え上がり、即時謝罪と賠償金の要求を受け入れ、翌文久3年には、賠償金11万ポンドを支払っています。
しかしこれで収まらないのが当時の欧米列強です。
英国は、賠償金を受け取りながら、さらに薩摩藩に向け、当時、七つの海を制した世界最強の大英帝国海軍の軍艦7隻を、薩摩藩に差し向けます。
そして薩摩藩に対し、犯人の逮捕処罰、ならびに被害者と遺族への賠償金合計2万5000ポンドを払えと要求した。
要求を呑まないなら、軍艦で攻撃をするぞ、という脅し付きです。
あくどい真似を、などといわないでください。
「平和的に解決しましょう。それがお嫌なら、皆殺しにするぞ」というのが、古来外交のセオリーです。
魏の曹操が、呉の孫権を攻めた赤壁の戦いも同じです。
文書を送り付け、要求を飲まないなら、大軍を持って攻め込むぞ、とやった。
三国志の時代は、紀元1世紀の出来事。
生麦事件は、19世紀の出来事です。
いまも昔も、外交というものは、さほど変わりはない。
つい最近でも、アメリカがイラクに攻め込んだのは、核施設への査察要求からです。
生麦事件に関しては、非は明らかに英国水兵側にあります。
当然です。郷に入ったら郷に従うのが筋というものです。
薩摩は、英国の理不尽な要求を退けます。
で、英国艦隊は薩摩の薩摩の錦江湾(きんこうわん)に攻め込んだ。
世界最強の7隻の常勝艦隊です。
どうみても薩摩側に勝ち目がない戦いです。
ところが薩摩藩は、藩単独でこれを迎え討ち、英国艦隊に大損害を与えてしまう。
教科書には英国勝利などと簡単に書いているけれど、薩摩藩は、英国軍の旗艦ユリアラス号を大破させ、旗艦の艦長は死亡、死者は英国63名に対して薩摩はわずか17名です。
戦闘の内容的には、どうみても薩摩側の勝利です。
これは、当時としては、まさに驚天動地の世界がびっくり仰天した大事件です。
なにせ、英国艦隊が、東亜の一地方貴族に破られた。
いまでいったら、米国の太平洋艦隊を、南方の小さな島国がコテンパンに打ち破ってしまったようなものです。
世界が驚かないはずがない。
ちなみに、この戦いのあと、賠償交渉がうまく運んだことに感謝した薩摩藩が、ご挨拶のしるしとして英国側に「みかん」を英国側に進呈しています。
お正月などに、コタツで食べる、アノみかんです。
このことがきっかけで、イギリスでは、「みかん」のことを、なんと「satuma」と言います。
日本では、おイモの代名詞のサツマが、英国ではみかんを指すなんて、ちょっとおもしろいです。
もっというと、日本の学校では、英語で日本型みかんのことをMandarin Orangeと教えるけれど、たとえば、英語版ハリー・ポッターシリーズの「Harry Potter & the Half-Blood Prince」を見ると、主人公のロンのお父さんがsatsumaの皮をむいているシーンがあって、そこには、
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'"Do you remember, Arthur?" Mphf?’
said Mr Weasley, whose head had been nodding over the satsuma he was peeling.
「君は覚えてるか?」
ウィーズリー氏は、satuma(みかん)を剥きかけたまま居眠りしていたのだった。
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などという記述が出てきます。
ここでいう「satuma」が、みかんです。
要するに、童話にさえsatumaと書かれるほど、satumaという単語は一般化している。
話が脱線してしまいましたが、このとき、世界を征服してきた大英帝国の大艦隊が、薩摩に敗れた事実から、英国は、通訳のジョン万次郎を通じて、「なぜ薩摩は強いのか」という原因を探り当てます。
それが、薩摩藩の郷中(ごじゅう)だった。
「郷中」というのは、徹底した教育手法でもあります。
日常守るべき規範は、それこそ各自が命がけで守りぬく。
違反した者は、即刻処罰するという厳しいものです。
初代台湾総督の樺山資紀(かばやますけのり)も、この郷中の出身者です。
この樺山資紀のことを、孫にあたる白洲次郎氏の妻、白洲正子夫人が自伝に書いているので、ちょっと引用します。
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「お前が一番焼香じゃ。さきィ拝め」
ただならぬ気配に、前田は恐る恐る進み出て焼香し、指宿の死体の上にうなだれた。
その時、橋口は腰刀をぬき、一刀のもとに首を斬った。
首はひとたまりもなく棺の中に落ちた。
「これでよか。蓋をせい」
何とも野蛮な話である。
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問答無用の絶対の規範。
一見野蛮ともみえるこの教育制度ですが、ところがこういう教育制度のもとで、はじめて人は鍛えられ、人として強くなる。
どうみても日教組教育の真反対です。
現代教育では、自由だの子供の権利だの個性化だのといいながら、結果として自由は子供たちの我がままを助長し、子供の権利は過保護を、個性化といいながら自分勝手で思いやりのない子供を社会に送り出しています。
先輩と書いてゲンコツと読む、問答無用の規範があるからこそ、子供たちは我慢を覚え、礼節を知り、規律をわきまえ、他人に対する思いやりや、後輩に対する、まさに責任ある者としての行動と心構えを日常に持つことができるようになる。
西郷隆盛が好んで使った言葉に「敬天愛人」という言葉があります。
「天を敬い、人を愛す」
まさに西郷さんらしい言葉です。
その西郷さんも、郷中の出身者です。彼は頭(かしら)だった。
現代風の軟弱な日教組教育と、郷中に象徴される絶対の規律と規範と、果たしてどちらの環境に置かれた子供が、しっかりしたオトナになるか、社会の役に立つオトナになるかは、火を見るよりも明らかです。
薩摩と同様に、幕末から明治にかけて多くの偉人を輩出した藩に、会津藩があります。
薩摩が郷中なら、会津は「什(じゅう)」です。
「什」もまた「誓ひ(掟)」があります。
子供たちは、毎日これを大声で復誦した。
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一 年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
一 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
一 虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
一 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
一 弱いものをいぢめてはなりませぬ。
一 戸外でモノを食べてはなりませぬ。
一 戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
「ならぬ事はならぬものです」
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ボーイスカウトの歴史は、100年。
郷中の歴史は400年です。
そしてボーイスカウトは、日本の郷中の文化を原点として生まれた。
もちろん、これには異説もあります。
日本を手本としたものではない、というものです。
しかしボクは、乃木大将の日記に書かれた事実を信じたいと思います。
なぜなら、乃木大将は、ウソを言うような不誠実な人間ではないからです。
ボーイスカウトとなって世界に広まりました。
まさに世界が、ボーイスカウトの理念を受け入れたのです。
そしてそのボーイスカウトの原点は、日本文化にあった。
ボクたちは、その日本に生まれました。
いまの日本は、戦後の反日思想がまん延してしまっています。
しかし、いかに時代が変わろうが、いいものは取り入れ未来に活かすというのが、やはり正しい選択といえるのではないかと思います。
捏造された韓流史観などに惑わされず、私たちはいま、日本の素晴らしい歴史や伝統に、もういちど眼を向けてみるときにきているとボクは思っています。
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