
ジョン・F・ケネディといえば、アメリカの第35代大統領です。
ダラスで凶弾に倒れたことで知られています。
このケネディ大統領について、日本と関わるあまり知られていないお話があります。
ケネディが大統領である間、ずっとホワイトハウス執務室に椰子の実が置かれていたのです。
ケネディは、大東亜戦争に従軍し、中尉として魚雷艇PT-109の艦長をしていました。
昭和18(1943)年8月2日のことです。

ソロモン諸島のニュージョージア島の西を哨戒していたケネディは、日本のの駆逐艦「天霧」と、遭遇します。
「天霧」はこのとき、コロンバンガラ島への輸送任務を終え、帰路についていました。
8月1日、「天霧」は30ノットの高速で輸送船団の最後尾について、あたりの海を警戒しながらブラケット海峡をひたすら北上していました。
船団警備は、昼は敵の航空機、夜は、敵の魚雷艇を警戒しなければなりません。
この日の夜は、スコールをともなった天候で視界は非常に狭かった。
午前二時頃、「天霧」の見張員が突然、叫びます。
「黒い物体が右10度10(ヒトマル)!」
1キロほど先に、何か黒い小さな物体が見えます。
「天霧」の花見弘平艦長は、ただちに「戦闘配置」を命じます。
30ノットというと、時速55キロです。
黒い物体はどんどん近づいて来る。
雨天の中での発見です。
発見時点で、もう目の前だった。
しかも物体は、敵の魚雷艇です。
目標が近い。近すぎて砲撃が間に合わない。
「天霧」は、艦をまっすぐに魚雷艇に向け、艦首で敵を踏みつぶした。

巨大な駆逐艦と、小型の魚雷艇の衝突です。
いってみれば大型ダンプと、原チャリがぶつかったようなものです。
衝突により魚雷艇は、真っ二つになり、大破炎上し、あっという間に沈没します。
「天霧」は、艦首とスクリューの一部に若干の損傷があった程度で、ほぼ無傷です。
実は、この「踏みつぶし」には、後年様々な議論がされています。
どういうことかというと、魚雷艇というのは、当然のことながら「魚雷」を搭載しています。船は小さくても、搭載している「魚雷」はたいへんな威力があります。
もし、衝突とともに「魚雷」が爆発すれば、これは雷撃されたのと同じことです。
魚雷艇とともに、画体の大きい駆逐艦も沈没する危険がある。
このとき、「天霧」に乗っていた警戒隊第十一駆逐隊艦司令は衝突を避けようとし、艦長の花見弘平中佐は船を衝突させる道を選んだといいます。

もっとも、花見艦長自身は、後年、「あれは偶発的な事故だったんだよ」とおっしゃられています。しかしボクは違うと思う。
「天霧」は、とにかく猛烈な訓練で有名な船で、歴戦連勝、大東亜戦争の多くの海戦に参加し、その中を堂々生き延びた駆逐艦です。
花見艦長も乗組員も、艦に対する絶対の信頼を寄せていた。
敵が魚雷艇であり、すでに距離が近すぎて艦の砲撃が間に合わない。しかも敵は小さい。
もし、敵魚雷艇が「天霧」の砲撃可能距離に到達する前に、魚雷を装填し発射したら、至近距離からの魚雷攻撃を避けることは不可能です。
間違いなく「天霧」は大破もしくは轟沈するし、無傷となった敵魚雷艇は、反転して味方輸送船団をほしいままに攻撃することができる。
どんなことをしても、その場で敵魚雷艇をやっつけなければなりません。
そのためには、艦と魚雷艇の距離が至近距離にある、その瞬間に敵を踏みつぶすしかない。
これは、大博打です。
万一、魚雷が爆発したら、その危険と被害はたいへんなものとなります。
艦と乗員のすべてを失う
しかし博打というなら、戦いそのものが大博打です。
艦と猛烈な訓練を施してきた乗組員全員の命を一手に預かり、花見艦長は、その瞬間、踏みつぶすことを選択した。
そして彼は、博打に勝ちます。
魚雷艇は、衝突の衝撃でガソリンタンクに引火し、大爆発を起こします。
閃光をみて、僚艦は、「天霧」がやられたと思い、ただちに「状況知らせ」の無電を打っている。
それほどまでに緊迫した衝突事件だったし、爆発の衝撃も大きなものだった。
「天霧」は、衝突現場海上を確認しますが、大爆発後であり、生存者なし、と確認。そのまま帰国の途についています。
この点で、「天霧」を薄情だと問うことはできません。
もし、生存者が確認されれば、帝国海軍は、必ず救助をしている。
実はこの事故のとき、米国魚雷艇は、他にも2隻いたのです。
要するに、3隻で、哨戒任務にあたっていた。
そのなかの衝突轟沈した1隻が、後年アメリカ大統領になるケネディが指揮する艇でした。
ところが豪雨の中から、いきなりニュッと現れた日本の駆逐艦隊に惧れをなし、ケネディ艇以外の2隻は、敵から発見されない豪雨の奥に、すぐに逃げ出しています。
ところが、このときケネディ艇だけが、なぜかまっしぐらに「天霧」に向かっていき、爆発しています。
逃げた2隻も、その大爆発を見て、ケネディ艇は全員即死と判断。
艇を帰投させ、基地では、翌日、ケネディたちPT-109魚雷艇乗組員全員の追悼式を行っています。
それだけひどい大爆発だったのです。
ところが後年、全米の大統領にまでなる人物というのは、運が強いものです。
ケネディ少尉は、このとき真二つになった艇の片方に乗っていたのだけれど、その半分も、すぐに沈み、13人の乗員のうち、2名が死亡したけれど、ケネディを含む残り11名は、艇の残骸にしがみついて、海に漂っていたのです。
そしてケネディは、負傷者を命綱で結びつけ、その綱を咥えて全員を励ましながら、ほぼ5時聞かけて約5キロを泳ぎ、近くの小島にたどり着いた。
ところが、この小島の位置は、どうみても味方の航路から外れている。
そこでケネディは、ひとりで別の島まで泳いで渡ります。
彼はハーバード大学時代、水泳の選手だったのです。泳ぎには自信があった。
島で椰子の実を食べながら5日目、友軍の救助を得るためには、もっと基地に近づかなければならないと、さらに別の島まで泳いで渡ったケネディの前に、ひとりの島の原住民が現れます。
そこでケネディは、落ちていた椰子の殻にナイフで、
「11名生存、場所はこの原住民が知っている、ケネディ」と刻んで、原住民に手真似で頼んだ。
原住民は、それを理解したのか、カヌーで去って行きます。
その場で死んだように眠っているケネディの前に、ふたたびその原住民が現れます。
彼は、ニュージーランド軍哨戒部隊の隊長からの手紙を持っていた。
こうしてケネディとその一行は、全員、無事に救助されます。
艇が沈んで、7日目のことだったそうです。
ケネディは、自分も衝突の瞬間にしたたかに腰を打ちつけ、大怪我を負っていたにも関わらず、部下を見捨てることなく、痛みを抱えながら、部下を島に落ち着け、自身は島から島への渡って、救助を得るための努力をしました。
彼の勇敢な行動は、ハルゼー海軍提督からの感謝状、名誉負傷章、海軍メダルおよび海兵隊メダルの受章となります。
冒頭に書いた、椰子の実は、このときの椰子の実です。
その椰子の実は、ケネディが暗殺されるその日まで、ホワイトハウスの彼の執務室に置かれていたそうです。
昭和26年秋、下院議員として来日したケネディは、出迎えの国連協会の細野軍治氏に、「私の艇を沈めた駆逐艦長に、ぜひ会いたい」と申し出ます。
このとき花見弘平艦長は、大東亜戦争を生き延び、福島県に住んでいました。
ケネディはその翌日には日本を離れなければならない。
ケネディは心を残して、機上の人となった。
残念ながら、このときの二人の再会は実現していません。
しかし、その後、二人は、互いに連絡を取り合うようになり、その交誼はケネディが亡くなるその日まで続きます。
ケネディは、花見氏に「昨日の敵は今日の友」と語ったそうです。
ケネディにとって、このときの体験は、単に、自分の努力というだけでなく、「天霧」の果敢な決断を知ことによって、自身の負けない心、くじけない心、あきらめない心だけでなく、いざというときの花見艦長の果敢な決断が、彼の政治家としての姿勢を形作ったといわれています。
両者の交流は、ケネディが亡くなるその日まで続く。
どんな人でも、偉人でも、最初からすごい人というのは、いません。
いろいろな経験や失敗、負け戦、敵の示した決断等を経験して、人は成長していく。
「歴史は学ぶためにある」とボクは思っています。
後年、その場にいあわせもしない安全な場所にいる者が、ああでもない、こうでもないと批判するために歴史があるのではないと思う。
だから、歴史は評価するためのものではなく、学ぶためのものと思っています。
戦争反対とか嫌だとか、そんなものは誰だって思う。軍人さんだって戦争には反対です。
たいせつなことは、嫌だとか反対だとか、まるで経文を唱えるように言い募ることではなく、歴史に虚心に向かい、そこから学び、私たちが未来を築くこと。
戦後左翼の教育に、もっとも欠けているのが、この「学ぶ」という姿勢の欠落なのではないでしょうか。
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