人気ブログランキング
←はじめにクリックをお願いします。

屋井先蔵
屋井先蔵

男性がもらうと、たいてい喜ぶのが「明るい懐中電灯」です。
乾電池と電球だけの実に簡単なお道具ですが、最近はLEDを使い、親指くらいの大きさで自動車のヘッドライト並みの明るさが出るものもあるようです。
乾電池といえば、発明者はドイツのカール・ガスナー(Carl Gassner)とか、デンマークのヘレンセンとか書かれている本などもあるようですが、実は、発明者は日本人です。


もともと電池は液体式の電池(車のバッテリーのようなもの)が主流でした。
電池の歴史はとても古くて、紀元前250年頃のイラクで、バグダッド電池という壺型の電池が作られたとされています。
もっともほんとうにこれが電池だったのかどうかは諸説あるようです。
大きさは、高さ10cm、直径3cm程度で、土器でできています。

バグダット電池
バグダット電池

土器の中には、アスファルトで固定された銅の筒と、鉄製の棒が差し込まれています。
底には何らかの液体が入っていた痕跡もあり、実験の結果、1~2ボルトの電圧を産めるので、これは電池ではないかと言われるようになりました。
何のために作られたかは不明です。
呪文が書かれた壷が一緒に発見されていることから、感電による宗教体験を演出する装置だとか、電気療法器であるとか諸説ある。
しかし、1~2ボルトでは、ちょいとしょっぱいくらいにしか人体に感じませんから、果たして、それでどういう宗教体験ができるのか、真実はいまだ謎となっています。
それからだいぶ時間が過ぎた西暦1800年には、今度はイタリアの生物学者ガルバーニが、カエルの足の神経に2種類の金属を触れされると、足の筋肉がピクピク動くことに触発されて、銅、すず、食塩水を使った「ボルタ電池」を発明します。
いまでも電圧の単位は「ボルト」といいますが、これは彼の名前からとったものです。
この電池の電圧は1.1ボルトです。食塩水を用いるため大型で、実用性は疑問ですが、もうひとついうと、使い道がなかった。
ボルタ電池
ボルタ電池

とりわけボルタ電池は、すぐに起電力がなくなるという欠点があったのですが、電力が生まれることが、もしかすると永久に運動を続ける機械の開発につながるのではないかとの期待から、1836年にはこれをイギリスの化学者ジョン・フレデリック・ダニエルが大幅に改良し、た「ダニエル電池」を開発します。
やはりかなりの大型のものなのですが、この電池は書籍となってオランダに紹介され、その本がまわりまわって日本に渡来したことがきっかけとなって、幕末、佐久間象山が日本ではじめて電池を自作しています。
ここまでが、すべて「液体電池」です。
こうして世界中で永い年月をかけていろいろな人が挑戦してきた電池への夢を、現在使用されている固体式(乾式)の電池に開発したのが、日本の屋井先蔵(やいさきぞう)です。
屋井先蔵は、なんと明治18(1885)年に、現在の電池とほとんど変わらない新型電池を発明しています。
これは、ドイツのガスナーや、デンマークのヘレンセンが電池で特許を取得した1888年よりも3年早いもので、世界初の乾電池とよべるものです。
屋井先蔵は、幕末も間近な文久3(1863)年に越後長岡藩士の子として生まれました。
家は300石取りの武家だったといいますから、結構地位も高い。
父は文武に優れ、数理が得意だった人だったそうです。優秀な人だったのでしょう。
ところが先蔵が6歳のとき、その父が亡くなってしまいます。
年齢からすると明治2(1869)年です。戊辰戦争の最中です。もしかすると、父は西軍との戦いで戦死されたのかもしれません。
父親をなくし、できたばかりの明治政府によって武家の地位も失った先蔵は、母や妹とともに叔父の家にひきとられ、そこで12歳まで寺小屋に通います。
しかし家が貧しく、母の生活をすこしでも助けようと、先蔵は13歳から時計店に丁稚奉公に出ます。
時計作りは、先蔵の性分にあっていたのでしょう。彼は熱中し、すこしでも正確な時計を作るために、奉公しながら研究を重ねます。
そんなある日、中学を出ている後輩から「成功するためにはもっと学問を深める必要があるのではないか」と、痛いところを突かれます。
たしかに自分は小学校(寺子屋)しか出ていない。良い仕事をするためには、もっともっと勉強をしたい。
先蔵は、奉公のかたわらで、胃が悪くなるまで独学に励みます。
物理学校に通い、高等工業学校に進学しようとしたのです。
そして21歳のとき、受験のため、歩いて新潟から東京に向かいます。
ところが、英語の点数が足りずに、不合格となってしまった。
あきらめきれない先蔵は、翌年、ふたたび歩いて上京して、再度受験します。
当時の高等工業学校は、入学に際しての年齢制限がありました。
なので先蔵にとっては、これが最後の受験の機会です。
高等工業学校にはいれなかったら、大学進学の夢も果たせない。
先蔵にとっては、これが最後のチャンスだったのです。
絶対に失敗するわけにいかない。
ところが新潟からの徒歩の強行軍、前日までの猛勉強と、持病の胃痛、ラストチャンスという極度の緊張から、夜明け近くまで眠れなかった先蔵は、受験の当日、寝坊をしてしまう。
ハッと気がついたときには、時間がギリギリです。
手元の時計では、まだ間に合う。
先蔵は必死に走って、受験会場に向かいます。
よかった。間にあった。時計の針は1分前を指しています。
ところが、すでに門は閉ざされている。聞けば5分の遅刻だという。
そんなバカな、と抗議しても、手元の時計と、受験会場の時計は、指してる時刻が違うのです。
結局、先蔵は、試験そのものを受けることができなかった。
まだ時計の性能が低く、時計ごとに微妙に時間がずれていた時代です。
世の中の時計が、すべて正確に同じ時刻を指していれば、もしかしたら受験に間に合ったかもしれない。
進学の夢を断たれた先蔵は、なんとか自分の力で、「連続電気時計」を発明しようと心に誓います。電気を使って、すべての時計が同じ時刻を指示せば、きっと世の中の役に立つに違いない。
しかし志は高くても、現実は厳しいです。
実験だけをして暮らすわけにはいきません。
生活苦に迫られた先蔵は、叔父の会社に職工として、日給35銭で就職します。
この日から先蔵は、昼間は会社で働き、夜は時計屋の小僧時代に考えた電気式永久運動機械の発明に取り組みます。毎日、睡眠時間は3時間程度だったといいます。
そして明治18(1885)年、先蔵は23歳で、電池で正確に動く「連続電気時計」を発明します。
この時計は、ゼンマイ(バネ)を全く使わず、しかも100個、200個と連動して同じ時を刻みます。
電流によってすべての時計が同じ時刻を示すようになれば、鉄道の車両衝突の危険も減るし、時計の正確さを尊ぶ郵便局でも大いに役立ち、世の中に広く受け入れられるに違いない・・・はずだった。
ところがこの「連続電気時計」は、ちっとも売れません。
この時計は、動力に先蔵が発明したコンパクトな液体式電池を使用していたのですが、電解液が液体のままなので、維持に手間がかかる。さらに冬には凍結してしまう。
これでは売れないのも当然です。
そこで先蔵は、液体電池の欠点を克服した、世界初のポータブルな乾式電池の発明を志します。
最大の難関は、陽極に薬液がしみ出ることでした。
薬液は金具を腐食させ、内部に異常がないのに、電池が使えなくなってしまう。
職工として勤めていた社屋の二階の薬品調合所で、さまざまな薬品を調合し工夫する日が続きます。
毎夜、明け方近くまで研究に没頭し、毛布をかぶって机に寄りかかったまま眠るる。
この頃の先蔵も、睡眠時間は3時間程度です。
そして明治22(1889)年、先蔵は、偶然、陽極の炭素棒をパラフィンで煮ることを思い付きます。
これによって、電池は世界ではじめて乾式となり、液漏れの心配がなく、ポータブルないま使われているものと同じ形の電池となった。
屋井乾電池
屋井乾電池

先蔵が、最初に開発した連続電気時計で、電池の特許をとっていたら、まさにこれが世界初の電池特許でした。しかし工場の職工暮らしで、給料はことごとく電池制作のために使い果たしている先蔵には、特許出願をするだけの手持ち資金がありません。
先蔵は、電池の製造販売会社を作り、ようやく完成した電池を世間に売りあるきます。
しかし、まったく売れない。
世界初の革新的電池なのに、なぜ売れなかったか。
電池を使って動かすモノが、まだなかったのです。
先蔵は、乾電池を使用した懐中電灯を思い立ち、これを売り糊口をしのぎます。
明治25(1892)年、東京帝国大学理学部が、シカゴ万博に地震計を出品しました。
なんとこの地震計に、先蔵の乾電池が使われます。
そして世界は、その地震計そのものよりも、先蔵の乾電池に注目します。
翌年、アメリカ生まれの乾電池が、日本に輸入されます。
なんと、先蔵の電池の完全な模造品です。
少量ながら懐中電灯で基盤を築きつつあった屋井乾電池は、この舶来模造品にたちまち駆逐されてしまいます。
明治26(1893)年、ようやく屋井先蔵は、乾電池の特許を取得します。
しかし、安価な屋井式より、かっこいい舶来品電池の方がよく売れる。
この頃、先蔵は、足尾銅山から懐中電灯の発注を受けています。
ところが製造するおカネがない。
先蔵は、衣類などを質に入れてようやく原材料を買い集め、やっとのことで期日に納品しています。
続く明治27(1894)年に、日清戦争が勃発します。
このときは、陸軍省から、屋井式乾電池の注文がはいります。
寒冷地である満洲では、従来式の液体電池では、電解液が凍結してしまい、軍用通信ができなかったのです。
そのため、陸軍は、乾式の屋井式乾電池に注目した。
これが、新聞の号外で報じられます。
満州で乾電池が軍用通信に使われ、「満州での勝利はひとえに乾電池によるもの」と報道された。
翌日、都下の新聞各紙がこのことを一斉に書き立てます。
これを契機に屋井乾電池は陸軍で全面的採用となり、軍用大型乾電池の覇者として、会社は発展に次ぐ発展の一途をたどり、ついには先蔵は「乾電池王」とまでうたわれる財を築きます。
この間、ライバル会社もいくつか誕生します。
その中で、強力なライバルとなったのが、大正12(1923)年の松下幸之助の自転車用「砲弾型ランプ」です。
これにより、松下幸之助は、乾電池に爆発的な需要を掘り起こし、一挙にシェアを獲得します。
もし、先蔵がもっと長寿だったなら、松下幸之助と並び立つ、日本を代表する経営者となり、屋井電池は、世界の屋井になったかもしれません。
しかし、若い頃から、胃の持病を抱え、無理を重ねた先蔵は、4年後の昭和2(1927)年、胃ガンに急性肺炎を併発し、急逝してしまいます。享年66歳でした。
先蔵の会社の屋井乾電池は、その後も陸軍とともに発展を続けますが、大東亜戦争の終戦とともに衰え、昭和25年には、倒産し、会社が消滅しています。
ボクたちが日ごろ気楽に使っている乾電池ですが、この乾電池には、屋井先蔵の血の滲むような努力の歴史がある。
陸軍士官学校出のアサヒビール名誉顧問中條高徳氏は、世界の歴史学者が説く民族の滅びる三原則というのを常々説いておいでになります。
一つ、理想(夢)を失った民族は滅びる。
二つ、すべての価値を利でとらえ心の価値を見失った民族は滅びる。
三つ、自国の歴史を忘れた民族は滅びる。
私たちがいまを生きているのは、なにも木の股から生まれてきたからではありません。
長い歴史のなかの一員として、いまの時代を生きています。
私たちには、父祖から受け継いだこんにちを、もっと素晴らしい未来へと受け渡さなければならない使命がある。
そんなお話を、乾電池を手にしたとき、まわりのみなさんにお話されてみてはいかがでしょうか。
 ↓クリックを↓
人気ブログランキング
「新電池元年」 電池から経済が分かる


日本の心を伝える会 日心会

やまと新聞会員お申込みページ


下の窓の中味をコピペすると、やまと新聞のバナーをご自分のHPに貼ることができます。

コメントは受け付けていません。