
誰もがあたりまえのように使っている水道ですが、実は、江戸時代にすでに江戸の水道は、世界一の規模と内容をもっていました。
そもそも、人の生存には1日に少なくとも2リットルから3リットルの水が必要であるといわれています。
以前、拉孟(らもう)の戦いをご紹介しましたが、拉孟(らもう)守備隊が、少数ながら120日間もの長期にわたって戦いを続けることができたのも、実は守備隊長の金子恵次郎大佐が、約3000メートルにわたる水道を守備隊陣地に引いていたという事実があります。
≪拉孟の戦い≫
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そもそも人間は昔から、湧き水のあるところや川の流域など、飲み水を手に入れやすいところに住居を構えて生活を営んできました。
しかし、次第に人口が増えてくると、いきおい水を簡単に手に入れることができない土地にも進出しなければならなくなります。
そこで人々は井戸を掘ったり、川に堰を設けて水路などを引いたりして、水を手に入れました。
当然のことながら、多くの人が集まる都市では、生活や産業に使用する大量の水を安定的かつ効率的に供給しなければなりません。
徳川家康は、小田原攻めの後、領有しました。
天正18(1590)年には、江戸を関東支配の本拠地と定めます。
当時の江戸は、大湿地帯で、全くの寒村です。
海岸線は江戸城大手門近くまで迫り、現在の日比谷公園・皇居外苑のあたりは日比谷入江と呼ばれる浅海です。
西側は、武蔵野台地が果てしなく拡がっていた。
台地には小さな川や湧き水がありましたが、低地では井戸を掘っても、その水質は塩分が強くて飲めません。
飲み水がなければ、家康は、大勢の家臣団を居住させることができません。
そこで家康は、家臣の大久保藤五郎に命じて、小石川上水(後の神田上水)を造ります。
この上水というのは、井ノ頭池を源とする神田川の水を、関口村(現在の文京区)に築いた大洗堰でせき上げた後に、水戸藩邸(現在の後楽園)まで開削路で導水し、神田・日本橋方面に給水するというものです。
いま、地図を見ると、渋谷から吉祥寺に向けて、ほぼ直線の道路(水道道路)がありますが、この道が、当時の水道跡です。
さらに江戸の人口の増加に併せて、赤坂の溜池を水源とする溜池上水も江戸の西南部に造られ、江戸の人々の喉をうるおします。
この2つの水道は、おおむね3代将軍家光の時代(元和9(1623)年~慶安4(1651)年)に完成していますが、江戸の人口はその後も増加の一途をたどり、中小規模の2上水では、増大する水の需要をまかないきれなくなります。
そこで幕府は、承応元(1652)年、多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てます。
この計画は、なんと町人からの提案です。
士農工商という厳しい身分制度があっても、良いと思われるものについては、身分の違いを超えて果敢にこれを採用する。
提案者は、庄右衛門、清右衛門という市井の一兄弟です。
幕府は、この2名のから出された設計書に基づき、幕府内部での検討ならびに実地踏査を行い、なんと工事の総責任者(総奉行)には、老中松平伊豆守信綱が就任します。
そして提案者である庄右衛門、清右衛門兄弟に工事の総監督を委ね、承応2(1653)年4月から、同年11月までの間に、羽村取水口から四谷大木戸まで、わずか8か月で堀を築きあげます。
これが玉川上水です。
玉川上水は、距離約43キロメートル、高低差約92メートルです。
羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして、武蔵野台地のりょう線に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する自然流下方式による導水した。
玉川上水開設から3年後、明暦3(1657)年に、江戸の大火(明暦の大火)が起こります。
この火事は、俗に「振袖火事」と呼ばれています。
ちょうど夏でもあるので、話が脱線しますが、ゾゾッと寒くなるお話なのでご紹介します。
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【振袖火事】
麻布に、質屋の娘さんで、梅乃というたいそう美しい女性がいました。
あるとき、梅乃は、本妙寺の墓参りの帰りにたまたま出会ったお寺の小姓さんに一目惚れしてしまいます。
そして、その小姓が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせて愛用していましたが、ふとしたことでわずか17歳で亡くなってしまいます。
娘の死を憐れんだ両親は、梅乃の棺にその振袖を着せてやります。
当時、こういう棺に掛けられた服や、仏が身につけているカンザシなどは、棺が持ち込まれた寺の湯灌場で働く者たちがもらっていいことになっていました。
この振袖もそういう男たちの手に渡り、いいものに思えたので売り飛ばされ、回り回って紀乃(きの)という、これまた17歳の娘の手に渡りました。
ところがなんと、この紀乃も、次の年の同じ日に亡くなってしまったのです。
振袖は、再び墓守たちの手を経て、今度は、幾乃(いくの)のもとに渡ります。
そして、幾乃も、翌年、17歳で亡くなってしまったのです。
三度、棺にかけられて寺に持ち込まれた振袖を見て、寺の湯灌場の男たちは、びっくりしてしまいます。
そして寺の住職に相談をしました。
住職は、それぞれ死んだ娘の親を呼び出し、みんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、寺で供養することになりました。
それが明暦3(1657)年1月18日午前10時頃のことです。
住職は、読経しながら火中に振袖を投じた。
そのときです。
突然、強い風が吹き、火がついたままの振袖が、空に舞い上がった。
その姿は、まるで何者かが振袖を着ているかのようだった。
舞い上がった振袖は、寺の本堂に飛び込み、本堂の内部のあちこちに火をつけます。
おりしも江戸の町はその前80日も雨が降っていなかった。
本堂に燃え移った火は、消し止めるまもなく次々と延焼し、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くし、さらに翌日には北の丸の大名屋敷を焼き、江戸城本丸の天守閣まで焼失させた。
この火事で亡くなった人は10万人以上にのぼった。
この話には、さらに後日談があります。
事件の元になったお寺の小姓は、天正18(1590)年、徳川軍に攻め落とされた土岐家の子孫だというのです。
さらに、この寺小姓は、狐(きつね)に括(くくり)り付けた烏(からす)の翼に火を放つ飯綱権現信徒であった。
そして滅ぼされた土岐家の恨みを、振袖に託し、飯綱権現の力を用いて復讐を遂げた、というのです。
燃え上がる梅乃の慕情と、土岐家の恨みが重なったとき、まさにそれが紅蓮の炎となって江戸の町を焼いたのです。
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と、まあ、こんな話です。
すみません、話がとてつもなく脱線しましたが、水道のお話です。
幕府は、明暦の大火を契機として、大幅な復興再開発を行います。
これによって江戸の町は、はさらに周辺部へと大きく拡大、発展した。
拡大した江戸周辺地域に給水するため、万治・寛文年間(1658~1672 年)に亀有上水、青山上水、三田上水が相次いで開設され、元禄9(1696)年には千川上水も開設されます。
亀有上水は、中川を水源とし、本所・深川方面に給水しました。
それ以外の3上水は、玉川を起点とし、青山上水は麻布・六本木・飯倉方面に、三田上水は三田・芝方面に、千川上水は本郷・浅草方面にそれぞれ給水されています。
こうして、元禄から享保にかけて、江戸は6系統の上水によって潤されたのです。
ところが、8代将軍吉宗は、亀有・青山・三田・千川の4上水を廃止してしまいます。
これは当時の儒官、室鳩巣(むろきゅうそう)が、風水によって
「江戸の大火は地脈を分断する水道が原因であり、したがって上水は、やむを得ない所を除き廃止すべきである」
と提言したことによるといわれています。
こうして江戸時代の後半は、神田上水と玉川上水が100万都市江戸の人々の暮らしの基盤となり、この2上水が江戸から明治、大正、昭和、そして平成にと、流れ続けています。
ちなみに、江戸日本では、なんと水質、水量管理もされています。
「水番人」という制度があり、上水を常時見回って、ゴミ除去し、水質を保ちました。
また、「取水番人」が、取水口に常時はりつき、上流が豪雨の時は水門を閉じて濁り水を川に還流したり、日照り続きになると、給水制限をしたりもしています。
当時の江戸は、人口100万人を超える、世界一の都市でした。
そして江戸の町には、個々の家にまで上水(水道)が行き渡り、その水道の総延長は150キロメートルにも及んだものとなっています。
これは、文句なしに世界一です。
ちなみに、17世紀のロンドン、パリの人口は40~50万人です。
そして、パリでは、市内に流れるセーヌ川の水を風車で揚水しています。
またロンドンでは、30キロ先の泉から導水していますが、その総延長は60キロです。
さらに、ロンドンの水道は、地上に露出していましたが、江戸の町中の水道は、大部分が地下の木管(樋・枡)を埋設して造られていました。
地価の木管に用いられた樋や枡は、地形や水勢によって、埋枡(地下)、高枡・出枡(地上)、水見枡(蓋があり、水の質(清濁)と量(増減)を検査するためのもの)、分岐枡、溜枡などがあり、木か鉄パイプかの一点を除けば、現代の水道とまるで同じ者が、使われていました。
当時、これほどの規模の飲用水専用の人工的水路は、江戸の外に世界のどこにも見あたりません。
そして石管、木管が主流だった水道は、明治にはいって近代水道へと大幅に改築され、現在の水道に至っています。
なんだか昨今では、役所で行う公共工事を、一部のメディアや政治家が、まるで悪の巣窟のように述べる風潮があります。
しかし、私たちが普段、何気なく使っている水道水ひとつをとってみても、多くの先人たち、あるいは今日のただいまの、私たちの水を守る水の番人さんたちによって、長い年月をかけて守り育まれてきたものなのです。
バブルが崩壊後、日本ではメディアをあげて、改革改革と叫んできました。
それによって、実に多くの改革がなされてきたけれど、その改革によって、なにか良くなったことがあるのか、といえば、答えはゼロです。
なにひとつ良くならないだけでなく、唯一誇りだった日本の経済は、いまや購買力平価に基づくひとりあたりGDPでは、世界第27位。
そして現政権によって、世界に誇った日本の治安や安全は、もはや風前の灯です。
そして私たちの先人が、心をこめて守り育んできた日本の水源は、いまやChineseたちによって、次々と買い占められている。
日本の水を守ることは、私たち日本人の命を守ることです。
小手先の改革ではない。抜本的な日本の大改造が、いま求められてきているとボクは思っています。
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