
最近書店さんに行くと、文庫コーナーのベストセラーの棚に「永遠の0(ゼロ)」という本が並んでいます。
零戦のパイロットのことを書いたこの本は、作家:百田尚樹氏のデビュー作ですが、たいへん内容が素晴らしいです。
ともすれば内容が偏りがちな戦時中の物語を、実に淡々と、そして感動的に読み物にしています。
さて陸攻隊の名パイロットだった人物に檜貝嚢治(ひがいじょうじ)大佐がいます。
檜貝嚢治大佐は、実は往年の名女優の高峰三枝子(たかみねみえこ)が、片思いに愛し続けた男性としても有名です。
檜貝大佐は、明治39(1906)年のお生まれの日本海軍パイロットです。
昭和18(1943)年1月29日、レンネル島沖海戦で、立派に散華されました。
最終階級は、二階級特進で、海軍大佐です。
冒頭の写真でも明らかですが、際立って容姿端な青年です。
しかも海軍の航空兵です。
頭脳明晰、運動神経抜群。性格温和で、勇気溢れる男性です。
悔しいけれど、そういうすごい奴って、世の中にいるものだし、当時のパイロットたちは、女性にたいへん人気があった。
戦後の反日左翼は帝国軍人を馬鹿にしたようなことを言うけれど、当時の職業軍人、なかでもパイロットというのは、(もちろん今でもだけど)飛びぬけて成績優秀で身体頑健でなければなれません。
さらにいえば、ガリ勉で眼鏡を使用するようになったら、当時はパイロットになれません。
猛勉強をしながら、視力を落とさず、運動神経抜群で性格も良好、そういう男しか、パイロットにはなれなかったのです。
たぶん、遺伝子的にみたら、当時の陸海軍の飛行機乗りというのは、日本人として、最高で最上級の遺伝子を持ったとびっきりの若者だった。
なかでも檜貝嚢治(ひがいじょうじ)大佐は、多くの日本軍パイロットの中でも、飛び抜けています。
あるとき霞ヶ浦航空隊を撮影にきた映画監督が、檜貝大佐を見て、「軍人を辞めて 俳優にならないか」と勧めたそうです。
それくらい檜貝大佐はかっこよかった。
そのときの撮影がご縁で、松竹の名女優高峰三枝子が檜貝大佐に一目惚れし、なんと女性の高峰三枝子の方から、是非にと交際を求めたというわけです。
二人は何度かお茶や食事をともにし、大佐の部下達も「こりゃあ二人は結婚するぞ」なんて、本気で信じてたらしいけど、大佐は、
「結婚すると軍人としてファイトがなくなる」と、あっさりすっきり彼女をフってしまった。
当時の檜貝大佐の頭の中は、女性のことより、とにもかくにも「いかにして操縦技量を向上させるか」だけでいっぱいになっていたからだそうです。
ボクなどは品がないので、そんな美人からモーションかけられたら一発で陥落だけれど、残念ながら(ボクの場合)美人に限らず、世のたいていの女性からは相手にされない(笑)
けれど、ひとつのことに打ち込む男性の姿ほど、凛々しく立派な姿はないものです。
檜貝大佐なら、そりゃあ、高峰三枝子が生涯の片想いをするわけです。
実は、檜貝大佐は千葉県佐倉市のご出身です。
父も海軍大佐で、彼は三男三女の二男坊として生まれています。
檜貝嚢治大佐が散華されたときには、佐倉市(当時は佐倉町)では、町葬が行われている。それほど、彼の名声は天下にとどろいていました。
大佐は、佐倉中学(現:千葉県立佐倉高校)を卒業したあと、海軍兵学校へ進みます。
海軍兵学校というのは、授業料や宿舎代がかかりません。
その分、親に負担をかけずに勉強できるし、将来も保証されます。
けれどその分、ものすごく狭き門でした。
いまで言ったら、東大医学部に一発合格できるくらいの学力を持ち、さらに身体健康でスポーツ万能、視力良好で、しっかりとした国家観を持ち、性格明朗快活で素直でなければ入学できなかった。
なかでも檜貝大佐は、機械や建築の設計図面が得意で、これがものすごく正確で緻密。
航空術や爆撃術というのは、いわゆる乱暴者には勤まらないのです。
ときに怜悧なまでに緻密かつ精密な頭脳がないと、立派な飛行機乗りにはなれない。
実は日心会に、元海上自衛隊のパイロットの方がおいでになります。
お会いして驚きましたが、その方も、学生時代、偏差値が全科目75を切ったことがないそうです。
しかも、50代の半ばになって、なおまだ抜群の運動神経と視力を保持しておられる。
いまでも数人相手なら一瞬で倒せる武道の技量を持ち、国家観は明快かつ完璧です。
いやはや天は二物も三物も与えることがあるらしい。
成績も運動も中の下だったボクとしては、まさにうらやましい限りです。実感です。
さて檜貝大佐は、兵学校時代に、休暇を利用して学校の庭に水道管をひいたり、鶏小屋をつくったりしたそうです。
毎回、緻密な図面をひく。そして出来ばえは専門家すら驚嘆するほどだったそうです。
いるんですねえ、こういう天才。すごいです。
兵学校を卒業したあとの逸話もあります。
遠洋航海している途中に、自分のお小遣いを節約して、弟たちに腕時計を買ってあげたりしのだそうです。
檜貝大佐は、そういう細やかな気遣いのできる人でもあった。
それでいて、負けん気は人一倍強く、とにかく意志の強さといったら、海軍の中でも評判だったそうです。
昭和五年の春、親友と三人で足柄山に登山したときのことです。
このとき、檜貝大佐ら三人は、村人が危険だというのを押し切って一晩夜通しで山越えをしたのです。
そしてようやく足柄山頂にたどり着くけれど、山を降りる頃には、日も暮れて、あたり一面、真っ暗闇になってしまった。
山中です。街灯なんて当然ありません。
あたりは一寸先も見えない真っ暗闇です。
しかも、まだ雪が残っている。
眠ったら死んでしまいます。
三人は互いに力一杯、顔を頭を殴り合いながら、下山を続けました。
ところが、どこをどう間違えたのか、道が行き止まりになってしまう。
友人二人は「引き返えそうぜ」というけれど、しばらく考えていた檜貝大佐は、いきなり短剣、雨衣、靴などを十メートルほど下の滝壷の横の平地に投げ落とした。
そして、滝の横の苔のむした急な崖を一人で下りはじめます。
真っ暗闇です。
落ちたら命はありません。
檜貝大佐は慎重に少しずつ降りて、やがて下まで降ります。
他の二人もやむなく、檜貝がした通りをまねて、ようやく下に降りた。
おかげで、川沿いに進むことで、村までちゃんと帰りつくことができたのだそうです。
友人たちは、檜貝大佐の豪胆さに、すっかり感心したといいます。
檜貝大佐は、兵学校で一度も大声を出したり、鉄拳を振るったりすることはなかったそうです。
どちらかというと、おとなしいタイプだった。
ところが、いざというときになると、その決断の早さと勇気に、誰も敵わなかったといいます。
檜貝大佐が中尉だった頃の真冬のことです。
ある基地で幹部の会合があって、いよいよ帰る段になった。
ところが、艀(はしけ)のスクリューに海草が巻きついて動けません。
それを見た檜貝大佐は、いきなり服を脱ぎ、冷たい海に飛び込んで、手で海草を取り除いたそうです。
ちなみに、艀(はしけ)のメンテナンスは、檜貝大佐ら航空兵の仕事ではありません。
しかし、みんなの窮状(きゅうじょう)みたとき、檜貝大佐は、黙って見過ごすことができない。
もっとも、昨今よりはるかに気温の低かった昔の真冬の冷たい海に浸かったおかげで、檜貝は、長期にわたり、風邪で寝込んでしまったそうです。
そういうところは、ようやく、檜貝大佐も人の子なんだなあと、ついつい思ってしまう。
それにつけても、そこに「やらなければいけないこと」があったら、たとえ我が身を犠牲にしてでも、即実行する。男なら、かくありたいと思います。
昭和10年、26歳になった檜貝大佐は、霞ヶ浦航空隊の操縦教官に就任しました。
この時期、彼は、休日返上で二、三か月も隊にこもりきり、飛行機の操縦をち密に研究し抜いていたそうです。
冒頭に述べた高峰三枝子との恋物語も、ちょうどこの頃のことで、檜貝大佐(当時は中尉)にとっては、飛行機が面白くて仕方がなかった頃のことです。。
それでもたまには、航空隊の仲間たちと、ときに気晴らしに芸者遊びに行くことはあったそうです。
檜貝大佐は、容姿端正。しかも海軍でとびきり優秀なパイロットです。
彼の周りには、自然と芸者が集まったそうです。
彼がこないと、芸者たちは「あら、檜貝さんはどうしたの」と不満顔を見せる。
おかげで、モテようと狙った仲間たちの戦意は、あっさりと粉砕されてしまった。。。
この頃、檜貝大佐は、親戚からの縁談も断っています。
お相手は、才色兼備の令嬢だったそうです。
しかし飛行機に打ちこむ檜貝大佐にとって、女性に関わっている暇はないと、にべもなかったそうです。
昭和12年、檜貝大佐は大湊(おおみなと)の航空隊で、彼の生涯の戦友(とも)となる「中攻」に出あいます。
「中攻」というのは、陸上基地から発着し、敵の陸上 基地や軍事施設には爆弾を投下したり、艦船に対しては魚雷を放つ攻撃機の花形飛行機です。
皇紀紀元の年数にあわせて、昭和2年(皇紀2596年) に実用化した機種が「九六式陸攻」で、昭和16年(皇紀2610年)のそれが「一式陸攻」です。
当時、この飛行機は、まさに世界最高の攻撃機でした。
一式陸攻
檜貝大佐のいた大湊基地というのは、本土最北端の航空基地です。
檜貝大佐は、ここで雪上飛行や霧中飛行を含む、ありとあらゆる特殊飛行を研究した。
当時の飛行技術というのは、個人の職人芸的な伎倆で飛んでいたことは、みなさんご存知の通りです。
まだ飛行のときの諸計器類も未発達な時代だったのです。
戦後の学者等が、よく戦時中の日本軍は機械化を怠り、近代装備の敷設をせず、時代遅れの装備しかしなかったようなことを言うけれど、それは違う。
なるほど昨今のようにコンピューターが発達した時代なら、古臭く見えるかもしれなけれど、当時は、搭載されていた最新鋭のレーダーでさえ、まだ捕捉距離が10km程度だった時代です。
中攻なら、1分少々で飛ぶ距離でしかない。
人間の肉眼の方が、はるかに遠くの敵を発見できたのです。
そういう時代の技術面での発展段階を無視して、やみくもに技量頼みの日本のやり方が古いとかカビ臭いというのは、間違いです。
それに、あえて言わせていただければ、コンピューターといっても、そのプログラムは人間が作ります。
人間が技術を開発しなければ、コンピューターのプログラムは組むことができないのです。あたりまえです。
そこを履き違えて、カビ臭いとか言うのは、ボクは間違いだと思う。
それともうひとつ。
世界中のあらゆる武器、兵器は、それを開発した国の哲学の影響を受けます。
すこし余分な話になるけれど、続けます。
日本では、平安、鎌倉の昔でも、戦国時代でも幕末でも、武士の武装に刀はあるけれど、盾はありません。
実はこういう装備は、日本だけの非常に特殊なものです。
諸外国の武装が、剣と盾がセットになっているのは、敵の剣を楯で受け、剣をもって相手を斬りつけるという仕様からです。
剣は、金属の盾で受けられれば、刃こぼれするし、場合によっては折れて使い物にならなくなってしまいますから、諸外国の件は、切れ味よりも分厚くて丈夫なものに進化していきます。
ひらたく言えば、外国の剣は、相手を斬るものではなくて、その重量で相手の骨を叩き折る、突いて相手を刺し殺すという仕様です。
この場合、残酷な話ですが、倒された相手はすぐには死にません。
骨折と出血で、倒されてから5~6時間苦しんで死にます。
これに対し、日本の刀は、薄くて切れ味が最高に良いです。
相手は急所を斬られ、苦しむことなく即死します。
そのかわり、刀と刀がぶつかりあったり、金属で受けられたりすると、折れたり曲がったり、刃こぼれして切れ味が落ちてしまいます。
切れ味が落ちた刀は、相手に致命傷を与えられませんから、即死させることができません。
その分、相手を長く苦しめることになる。
ですから日本刀と日本刀の戦いには、盾はなく、相手の攻撃を軽装ですばやくかわし、敵に致命傷を与えて即死させる、という仕様になっています。
この刀に対する考え方が、往年のプロペラ機の戦闘機作りの姿勢にも現れています。
零戦は、軽量で速度が早く、小さな半径での回転がきき、すばやく相手の攻撃をかわしながら相手を攻撃できます。しかも搭載している機銃は、炸裂弾であり、一発命中すれば、敵機を撃墜できる。
そのかわり、軽量快速快動作の代償として、防御力は極端に低い。
これは、日本が軍人の命を粗末にしたとかそういうことではなくて、戦い方、あるいは戦うことに対する武士道に由来する基本姿勢の問題です。
戦闘機である零戦と並び、中攻は、当時の世界の航空史に燦然と輝く、世界の名機中の名機です。
こういう飛行機を、日本軍はちゃんと採用している。
日本に技術がなかったとか、技術をないがしろにしたとか、人命を粗末にしたとかの一方的な決めつけは、戦後左翼のプロパガンタにすぎない。
さて、話をもとに戻します。
昭和12年5月、大湊基地で、北海道根室沖での霧中飛行訓練が行われました。
どういう訓練かというと、自分が搭乗している飛行機の翼端さえ見えない濃霧の中で、当時まだまだ未発達だった自機の旋回計や横滑計、コンパスや無線装置だけを頼りにして、離着陸や霧中飛行を行う、というものです。
たとえてみれば「窓をすべて黒布で覆った自動車で、メーターだけを頼りに運転して、目的地まで行く」ようなものです。
危険極まりない。
しかもそれを空でやるのです。
檜貝大佐は、これまた見事にやってのけてしまいます。
こうなるともう天才としか言いようがなく、彼の名声は、天下にこだました。
この年の7月、盧溝橋事件に端を発し、日華事変がはじまります。
檜貝大佐は、翌昭和13年から、鹿屋航空隊の中攻隊勤務となった。
いよいよ実戦です。
この頃の中攻隊は、数カ月大陸作戦に従事し、帰れば艦隊で戦闘訓練をすることの繰り返していました。
檜貝大佐も数十回、中支戦線での爆撃行を行っています。
そして、都度、輝かしい戦果をあげた。
中攻隊に檜貝あり。
その名は全軍に知れ渡ります。
当時の日本軍は、その心意気は、武士の集団です。
China戦線においても、卑怯な振舞をもっとも忌み嫌っていました。
檜貝大佐の中攻は、敵の猛烈な対空砲火をかいくぐって、まさにピンポイントで、敵の銃器を破壊しました。
一発の爆弾も無駄にしない。
歯向かう敵は倒す。
けれど、敵が武器を捨てて逃げるなら、武器だけを爆破して、敵を実質的に無力化する。
これが武士道の化身である日本軍の考え方です。
これに対し、当時のChina国民党軍は、米英から高性能の対空砲を譲り受けています。
これをすさまじい勢いでめちゃくちゃに撃つ。
俗にいう、弾幕を貼る、というものです。
撃って撃って撃ちまくってくる。
その対空砲火を、檜貝大佐の操縦する中攻は、ものの見事にかいくぐり、低空で飛来したかと思うと、友軍の見ている前で、敵の重砲を一発でしとめる。
爆弾の無駄撃ちなどありません。
完全にピンポイントで、破壊炎上させた。
見ている日本軍の兵士達は、まさに拍手喝さいだった。
戦闘というより、これは最早、芸術とさえ言われたのです。
いまのように、赤外線誘導ミサイルなんてシロモノなんてない時代です。
上空からの投下のタイミングだけで正確な爆撃を行った。
想像してみてください。
敵味方の銃弾が飛び交う激戦の最中に、後方より味方の爆撃機が飛んでくる。
敵は、猛烈な対空砲火を浴びせてくる。
その砲火をかいくぐった中攻が、黒い物体が、ひとつ、ポンと投下する。
それが、敵の重砲に、吸い込まれるように命中し、それまで激しく撃っていた敵の砲火が嘘のように鳴りやむのです。
絵にかいたような見事な技量です。匠の技です。
実は、檜貝大佐の空爆に限らず、日本軍の戦闘は、この手の話が非常に多いです。
豊富な物資にモノをいわせて、無茶苦茶に撃ちまくるChinaや米英軍と異なり、激戦の最中ですら、機関砲の弾を「いま何発撃って、残りが何発あるか」など逐一報告が求められたのが日本の軍隊です。
滅茶苦茶なめくら撃ちなどしたら、あとで上層部から大目玉をくらう。
だから特に値段の張る高性能爆弾や、大砲などは、ことごとくピンポイントで正確無比な砲撃をしています。
少ない砲弾で、限りない武勲を立てているのも、まさに帝国陸海軍の特徴です。
実は、このことは、戦時国際法として、民間人や民間施設への無差別攻撃を禁じたハーグ陸戦条約遵守の精神にも通じることです。
あくまで歯向かう者には容赦はしないが、降参したら昨日の敵は今日の戦友(とも)というのが、日本の軍隊の考え方だったのです。
この一事をもってしても、南京で日本軍が大虐殺をやってのけただのと中共や反日左翼が宣伝するのは、まさにおバカのタワゴトの話にすぎないことがわかります。
だいたい、南京入場当時の映像をみたら、大激戦が繰り広げられたはずの南京城で、城内の民間施設は、まるで無傷です。
そこまでして徹底してハーグ条約を遵守した日本軍が、どうして無辜の南京市民を殺害するのか。
すこしでもまともな頭脳があったら、猿にでもわかる話です。
バカモヤスミヤスミイエといいたくなります。
ちなみに当時の檜貝大佐は、上官からも部下からも、「檜貝さん」と「さん付け」で呼ばれています。
穏やかな物腰だが、 ひとたび機上の人となると沈着、勇敢に戦う。
しかも、眉目秀麗で温和。
階級名で呼ぶことが習わしだった軍隊において、「さん付け」で呼ばれるのは、たいへんめずらしいことです。
なぜ、技術抜群で、しかも温和で謙虚な彼が「~さん」と呼ばれたのか。
誰より檜貝大佐は、「檜貝さん」と呼ぶのがふさわしかった。
みんながそう思えたということです。
その檜貝大佐が、昭和14年9月、危うく命を落としかねない大怪我をしたことがあります。
なにがあったのかというと、檜貝らの中攻隊の鹿屋空は、木更津空とともにChinaの漢口に進出したのです。
漢口飛行場は、滑走路の舗装がされていません。
場所は黄砂の土地のど真ん中です。
飛行機が一機飛び立つと砂塵が舞い上がる。何も見えなくなる。
二機目は当分飛び立てないくらい、ホコリと風がひどかったのです。
ある日の夕方のこと、指揮官機に乗った檜貝大佐が、予定の離陸点に向けて、薄闇と砂塵の中を地上滑走したのです。二番機がこれに続いた。
ところが、このとき、急に風向きが180度変わってしまいます。
地上官制官は、離陸機の方向を変えるよう各機に命じます。
しかし、滑走路にあった18磯には、爆音、砂塵、それに夕闇という悪条件が重なって指令が聞こえていない。
先に滑り出した檜貝機は、所定の離陸点で後続を待っています。
ところが後続機は方向変更の指令を知らず、一面の砂塵の中で、一番機が出発したものと思って、檜貝機と真逆の方向からエンジン全開で離陸を開始したのです。
滑走し出した後続機は、檜貝機の2~3百メートル手前で、ようやく檜貝機の航空灯を視認します。
しかし機体は燃料も爆弾も満載している。
方向転換する距離もない。
あわや衝突!というときに、後続機のパイロットは、全力で操縦桿を引いて、機体を浮かせます。
しかし、爆弾と燃料を満載した飛行機は、そうそう簡単には飛びあがらない。
ようやく檜貝機のすぐ手前で車輪が地面を離れたけれど、その車輪は檜貝機の風防ガラスの上部をかすり、車輪とプロペラが檜貝の一番機の機首付近を撫でて、もんどりうって転倒します。
大音響とともに火炎に包まれた。
幸い、転倒した機のパイロットは、無事に救出されました。
けれど、一番機の操縦桿を握っていた檜貝大佐は、かぶっていた飛行帽が、てっぺんがベロリと剥ぎとられ、手指と足首を骨折しています。
もう少し機が低かったら檜貝大佐は即死していたのです。
彼はただちに漢口海軍第一病院に運ばれました。
縁というのは、不思議なものです。
この事故で檜貝が軍病院に入院中のことです。
事件から二週間後のことなのですが、四川省所在のChina空軍が、ソ連製の双発爆撃機9機を駆って、漢口の日本側航空基地上空に来襲したのです。
China空軍は、滅茶苦茶に大量の爆弾を投下していくのだけれど、敵の空爆は、ことごとく飛行場の外の水田に落下してしまった。要するにまるで目標に当たらなかった。
ところが、です。
そのめちゃくちゃに落として行った爆弾の中のたった一発だけが、偶然、戦闘指揮所付近に落ちて炸裂したのです。
この炸裂で、塚原二四三司令官が両腕を失う重傷を負ったほか、2名が即死、1名が重傷、1名が重傷のち死亡しました。
そこは、普段なら檜貝大佐が詰めているところです。
そして爆弾の落下地点は、まさに檜貝大佐の部屋だった。
もしそこに檜貝大佐がいたら、誰がどう考えても大佐は即死しています。
五体はバラバラになり、遺体さえ残らなかったかもしれない。
この爆撃に、檜貝大佐は命拾いした。
たまたま入院中だったからです。
最近とみに思うのですが、人は「生きている」のではなくて、「生かされている」ものだと思います。
だから、何かの使命があったら、そうそう簡単に人は死なない。
逆に死ぬときも、何か意味があって死ぬ。
その意味で、この事故でお亡くなりになったり大怪我をされた方には申し訳ないのだけれど、同時にまだ檜貝大佐には、何かの天命があったのではないか。そんな気がします。
ちなみに、このときのChina軍の空爆の仕方と、檜貝大佐らが行っていた日本軍の空爆の違いは、その他の戦闘でもまったく同様です。
日本軍は、敵の砲火をかいくぐりながら、低空で侵入してピンポイントで、敵の重機を討ちました。
これに対し、China軍は(米軍もだけれど)、高高度で侵入して、対空砲火弾の届かない上空から、無差別に大量な爆撃投下を行う。
下手な鉄砲数撃ちゃ当たる戦法と、たとえ危険であってもできるだけ敵の人名を奪わず、必要最低限でもっとも効果的な攻撃を行う。
日本軍は、戦場という過酷な場においても、常に正々堂々だったのです。
以前、ねずきちブログで「ハーグ陸戦条約」のことを書いていますので、よろしかったらご参照していただければと思います。
世界の戦史上、ハーグ条約を最後まで遵守し抜いたのは、日本軍だけです。
日本は、国際法を遵守して、実に正々堂々と戦った。
≪ハーグ陸戦条約≫
ハーグ陸戦条約 - ぜんこうのひとりごと
←はじめにクリックをお願いします。ハーグ陸戦条約ハーグ陸戦条約について書いてみようと思います。この条約は、明治三十二(1899)年五月一八日ににオランダ・ハーグで開か…
さて、昭和15年10月10日に、紀元2600年の記念大式典が行われました。陛下もご臨席賜る特別観艦式も開催されます。
檜貝大佐は、このとき大尉です。
彼は、総指揮官小澤治三郎少将が搭乗する九六式陸攻に乗り組み、操縦桿を握りました。
檜貝機は、530機の大編隊の先頭を飛びます。
その大編隊で東京湾上空を舞う姿を陛下にご覧いただくという、パイロットとしての最高の栄誉を、彼は担ったのです。
昭和16年11月、真珠湾攻撃を前に、少佐に昇進した檜貝は、飛行隊長として、ふたたび霞ヶ浦航空隊に転属となります。
霞ヶ浦で檜貝大佐はご結婚されました。彼はこのとき35歳でした。
お相手の女性は、岡部通陸軍少将の長女の麗子さん、19歳です。
ちなみに山本五十六の奥さんの礼子さんの妹が岡部通夫人です。
ですから、麗子さんは山本五十六元帥の姪子さんとなります。
山本五十六長官は、この結婚にたいそう喜んだそうです。
彼は会う人毎に、
「檜貝は自分の姪には過ぎた男だ」と、ニコニコしながら自慢していた。
わかる気がします。
けれど、檜貝大佐の新婚生活は、わずか11ヶ月で終わってしまいます。
昭和17年12月、檜貝は、七〇一空の飛行長となり、中攻三十六機をひきいてラバウルのブナカナウ飛行場に進出したからです。
よく軍人は戦争好きだと言う人がいます。
断固として申し上げるけれど、それはまったくの嘘です。デタラメです。
実は、軍人ほど平和を求める人たちはいない。
世界中どこでもそうです。
そして日本では、その傾向が特に強かった。
だってそうでしょう。
戦えば必ず死人が出るのです。
それは自分かもしれないのです。
軍人だって愛する家族がいる。
生きて、ふたたび家族に会いたい。愛する人に逢いたい。
その気持ちは、人として誰もが同じです。
だから、死に最も近いところにいる軍人こそ、まさに平和を望み、平和を大事にする。
そのために厳しい訓練にも耐えるのです。
東条英機総理は、日本を戦争に導いた人であるかのように言う人がいます。
東京裁判史観に染まった人達です。
けれどそれは間違いです。
東条英機を総理に任命したのは、陛下です。
陛下の任命理由は「日米開戦を回避できるのは東條しかいない」というものです。
戦争を回避するために、選びに選びぬき、熟慮を重ねつくして選ばれた総理が、東條英機氏だったのです。
文官が、このとき総理に選ばれていないのか、戦後の私たちは、そのことにもっと注意をはらうべきだと思います。
戦後左翼が台頭する中で、多くの元帝国軍人は、左翼からのいわれなき誹謗中傷にじっと耐えてこられました。
なぜなら戦後日本が「平和」だったからです。
日本が平和であること。平穏であることを、誰よりも臨んだのが「戦争を知る」生き残った旧帝国軍人さんたちだったのです。
檜貝大佐も、愛する妻を内地に残してラバウルに進出されました。
その心や、推して知るべしです。
誰だって愛する妻と別々に暮らしたくなどないのです。
このとき、ラバウル航空隊は、ガダルカナル島撤退という大課題を抱えていました。
檜貝大佐は、China事変当初から髪はオールバックにしていたのだけれど、ラバウルに進出したとき、頭を三分刈りのくりくり坊主にしました。
秘めた決意があったのです。
愛する人との別れと、自らの死を、彼はこのとき覚悟していたのです。
ラバウルで、田舎の老いた母が彼の身を気づかって送ってくれた手作りの梅肉エキスを食べている坊主頭の彼の姿は、とても神妙だったそうです。
わかる気がします。
昭和18年1月29日早朝、哨戒機が敵の大艦隊をレンネル島東方で発見しました。
このときの米艦隊の陣容は、重巡3隻、軽巡3隻、軽空母2隻、 駆逐艦8隻という大艦隊です。
飛行隊長の巌谷二男大尉が出撃準備をしていると、そこに檜貝大佐が来たそうです。
「隊長、今日の攻撃はぼくにやらせてください」
檜貝大佐は、いつもの丁寧な口調です。
巌谷隊長は、テニアンで充分、夜間照明雷撃の訓練を積んでこられた方です。
張り切っていた厳谷隊長は、
「いや、今日はぜひ私にやらせて下さい」と断ったそうです。
しかしこのとき檜貝大佐は、いつにない強い調子で、
「何としても私にやらせて下さい」と食い下がった。
これは彼にしてはたいへんめずらしいことです。
言い合いが何度かつづいて、あまりに熱心に檜貝大佐が言うので、巌谷は一歩ゆずり、
「では私は、照明隊として行きましょう」ということにした。
ところがこのとき、ひどいデング熱で弱っていた山田豊司令が、
「飛行長と飛行隊長が二人一緒に出ては困る」と言い出します。
結局、巌谷が折れ、出撃を断念し、檜貝大佐が出撃することになった。
このとき、檜貝大佐は司令に挨拶したあと巌谷に向かい、
「隊長、あとを願います」と、日頃の柔和な顔に、真剣な表情をみせて言ったそうです。
巌谷は、檜貝の目をじっと見つめ、
「ご成功を祈ります」と答えた。
これが二人の今生の最後の別れとなります。
午後1時10分、18機の九六式陸攻と6機の照明隊をまとめて、檜貝大佐はラバウル基地を飛び立ちました。
先に目標海域に到着した七〇五空の一式陸攻が、敵艦隊を発見して攻撃を行います。
照明弾をあげ、敵艦隊への奇襲攻撃を開始したのです。
そして第一陣が燃料と爆弾の底をついて去った一時間後、檜貝大佐の部隊が、現場に到着します。
物量にものを言わせた猛烈な敵の防御砲火をかいくぐり、檜貝の指揮官磯は、主翼に赤と緑の翼端灯を点じて先頭をきって突っ込みます。
照明弾に照らされた敵艦は、米国の誇る重巡洋艦シカゴです。
総排水量9300トン、乗員621名の大巡洋艦です。
檜貝大佐が雷撃しようとしたとき、敵のはげしい砲火に一瞬目がくらんだ。
檜貝大佐は、敵艦の姿を見失い、もちまえの几帳面さで、機の体制を立て直しにかかります。
そして、雷撃をやりなおしたのです。
雨のような猛烈な対空砲火の中の転身です。
機の高度は低い。
敵弾がすぐそばで炸裂する中で、檜貝大佐は慎重に機の体勢を立てなおし、魚雷を2発、発射します。
魚雷が、敵艦めがけて、突き進みます。
その直後、檜貝機が、被弾します。
機体が黒煙をあげます。
こうなると、最早、帰還は望めません。
17時45分、檜貝大佐は、機体をシカゴの正面から甲板すれすれに突入し、飛び散ったガソリンで甲板を炎上させます。
そして艦橋で急上昇すると、シカゴの後方上甲板に機体を激突させました。
見事な特攻攻撃でした。
檜貝大佐が機体もろとも散華された直後、檜貝大佐が放った魚雷が2本、シカゴの右舷に命中します。
シカゴは、前、後甲板とも火の海となり、右舷からはドクドクと浸水します。
航行不能となったシカゴは、総員に退艦命令を出す。
しかし、重巡洋艦というのは、そうそう簡単には沈みません。
シカゴは、重巡洋艦ルイビルに曳航され、戦地を離れようとします。
翌日、ラバウル基地を飛び立った七五一航空隊がこれを発見。
シカゴに、4本の魚雷を命中させ、沈没させています。
こうして檜貝嚢治大佐は、大空の武士として、壮絶に散華されました。
檜貝大佐の死を聞いた軍令部のある参謀は、
「少佐を失ったことは、戦艦『陸奥』が沈んだよりももっと痛手だ」と嘆いたそうです。
檜貝大佐を失ったことにより、帝国海軍は、その戦闘力を失っただけでなく、優秀な後進の指導能力をも失ってしまいました。
損失ははかり知れないものがあります。
あまりのことに、檜貝大佐は、戦死されたことすら、しばらく秘匿された。
大佐の死後、1年4カ月後、昭和19年5月29日、彼の死は全軍に告知されました。
そして檜貝嚢治少佐は、二階級特進して大佐に任ぜられた。
彼の葬儀は昭和20年3月、故郷の佐倉町で町葬として行われました。
檜貝大佐の妻の麗子さんは、夫の死の2カ月後に、長男の登さんを産まれました。
麗子さんは、戦火が激しくなる中、赤ん坊を連れて実家の宇都宮に戻り、縫製の仕事をしていたそうです。
ところが、この実家も空襲で焼かれてしまう。
戦後、麗子さんは、登を夫の実家に一時あずけて、東京の服装学院に通って洋裁の技術を身につけました。
そして卒業後、洋裁の資格を活かしながら、女手ひとつで登さんを育てられています。
麗子さんには、おつらいこともいっぱいあったろうと思います。
しかし彼女の心には、いつも亡き夫の檜貝嚢治さんが生きていたそうです。
つらいときも悲しいときも、彼女は夫と心の中で対話した。
お子さんの登さんは、やはり龍の子です。
優秀な若者として育ち、早大を卒業後、原子力会社に勤務されました。
麗子さんは、齢80を過ぎたいまも、いまだ建設会社で元気に働いているといいます。
冒頭の高峰三枝子さんは、檜貝大佐の死を知った後、実業家と結婚されました。
夫も、彼女が檜貝大佐を愛し続けていたことを、よく理解してくれていたそうです。
人から人へ、世代から世代へ。
私たちの日本の歴史は、過去も現在も未来も、ずっとつながっています。
歴史は学ぶためにあります。
歴史を単に批判のための道具にするのではなく、先人たちの姿を謙虚に学ぶことで、私たち日本人は、日本という国が、ほんとうに素晴らしい国であることを実感できます。
檜貝嚢治大佐のご冥福をお祈りしたいと思います。
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