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忠魂碑(春日部八幡神社)
忠魂碑希典書

今日のお題は、消えた歴史です。
戦後、ほんとうに日本的なもの、日本人が絶対に知っておくべき様々な歴史が、次々と消えて行っているように思います。


たとえば、物語として、日本の神話や、曽我兄弟、二宮尊徳、赤穂浪士、山鹿素行、乃木希典、天狗党、天誅組、義経と頼朝の相克、壬申の乱、朝鮮進駐軍、ハーグ陸戦条約、軍人勅諭、教育勅語等々、数え上げればきりがない。
そしてそういう大きな話だけでなく、ほんの身近な小さなお話も、あとすこしで消えてなくなりそうになっています。
こんなことを書きだしたのは、実は、先日、ウチの近所の神社で、高さ3メートルくらいの大きな石でできた碑文を観たからです。
その碑文は、冒頭の写真のものです。
「忠魂碑、希典書」
と書いてあります。
乃木大将が、揮毫(きごう)し、地元の八幡神社に置かれたものです。
年号ははいっていません。
おそらくは、日露戦争で春日部のあたりで編成された部隊が旅順要塞の二百三高地で戦い、玉砕されたのでしょう。
そのことを悼んだ乃木将軍が、自ら筆をとって、大きな碑文を春日部八幡神社にご寄贈された。
おそらくこの碑が建てられたときは、地元民は大集合して戦没者を悼んだものと思われます。
日本が大東亜戦争に負けたとき、GHQがやってくると聞いた地元の人たちは、世話役たちが集まって、万一、この碑文がGHQによって接取または取り壊しになったら申し訳ないと、みんなで力をあわせて、この碑を、地面に埋めてしまいます。
昭和20年の夏のことです。
そしてサンフランシスコ講和条約締結によって、日本が主権を回復したとき、地元のおじちゃんたちが集まって、みんなでこの碑を掘り起こします。
そしてもとからある台座の上に、碑を建てた。
日露戦争が終わったのが、明治38(1905)年です。
大東亜戦争の終戦が昭和20(1945)年。
サンフランシスコ平和条約が、昭和27(1952)年です。
つまり、日露戦争が終わって、サンフランシスコ条約が締結され、この碑が掘り個々されるまで、わずか47年しかたっていない。
日露戦争に従軍され、命を落とされた兵隊さんは、当時だいたい20歳前後です。
彼らのお嫁さんも、当時はたち前後だった。
ですから、この碑が掘り起こされたときは、65~70歳くらいです。
まだまだご存命だった。
若い日に、大好きだった勇敢で明るくてしっかり者だったうちの父ちゃんが名誉の戦死を遂げた。
その死を悼んで、乃木将軍が、大きな碑を建ててくださった。
その碑は、地域のみんなで大事に大事に、地元の神社に建立されていた。
毎年、神社に行くたびに、この碑の前で、お父ちゃんに手を合わせていた。
その碑が、日本が戦争に負けて、地面に埋めてあった。
ようやく、7年経って、その碑が掘り起こされて。。。
重機なんかありません。
ぜんぶ、手作業で、みんなでエンコラってやった。
土を払い、水できれいに洗って、みんなで力を合わせて、碑をふたたび境内に建てた。
そのとき、おばあちゃんは、地面にひざまづいて、両手を合わせ、涙を流していた。
おばあちゃんには、その碑が、きっと亡くなられた夫の姿に見えたにちがいありません。
夫が帰って来た、そんなふうに感じられたのかもしれない。
両手を合わせて涙を流すおばあちゃん。
そのおばあちゃんの横で、一緒に涙を流す、もう、いいかげんおばちゃんの年齢になっている娘さん。
旅順要塞戦の頃、まだ3つだった伍長の息子さんは、もう壮年です。
境内で、碑を起こす人夫さんたちに大声で指揮をとっている。
サンフランシスコ講和条約締結の日は、9月8日です。
まだ残暑が厳しい。
神社の境内には、蝉がミンミン鳴いている。
飛び散る汗。人足さんたちの掛け声、三角に組まれた足場。
地面に座り込んで手を合わせるお婆ちゃんたち。
碑が立ちあがり、お天道様が西の空に沈んで、その日の夜、神社の氏子会館で、簡単な宴が行われます。
なつかしいおじいちゃん、青春の日のおじいちゃん、勇壮な出征のときの様子が語られる。
乃木将軍がやってきた日のことが語られる。
「あの日は、県知事さんや、市長さんたちも来てね・・・」
「乃木将軍、大礼服来て、あの日、暑かったぺや」
「おめえ、いたずらこいて、兵隊さんに怒られてたろ?」
「やめてよ、お母さん。あれはもう50年も昔の話でねーか」
宴が終わって、帰り道、またまた境内で、両手を合わせ、深々とお辞儀をして二拍する人々。
そんな歴史が、いま住んでいる、すぐ近くの神社にあった。
でもね、そんな歴史が、紙にはなってない。文字になってない。
もう90歳になる近所のおじいちゃんが、亡くなったら、もう「忠魂碑」が、なぜ、いつ建てられ、戦後の一時期、みんなでそれを埋めて、講和条約のあと、また掘り返したって話は、おそらく消えてなくなってしまう。
でも、ボクには、この「忠魂碑」のお話は、とっても大切なお話に思えました。
昔は、日本の家は、二世代三世代同居があたりまえでした。
家にはテレビもファミコンもなかったし、一家団欒の時間などに、その家のお年寄りが結構、昔話などを聞かせてくれた。
そんな話が、代々語り継がれた。
しかし、戦後政治は、核家族化を推進し、家族が揃って食事をする時間さえも、昨今では、非常に少なくなり、さらには、食事の時間も、目線や耳は、テレビのバカ話にとられています。
だから、こういう昔のお話を、知る機会自体が、ほとんどなくなってきている。
おそらく、みなさんの地元、これを読んでくださっているみなさんの故郷や地元にも、「このままほっといたら、消えてなくなってしまう」地元のとっても大切な物語が、たくさんあるのだろうと思います。
そんなお話を、全国で次々に発掘し、文字にし、後世に正しく伝えるという活動は、これからの日本の再生に欠かせないことなのではないかと思っています。
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