
サイパンの玉砕戦について書いてみようと思います。
昭和19(1944)年6月15日から7月9日にかけての戦いです。
ロバート・シャーロットという従軍記者が書いた「死闘サイパン」という本があります。
その本の中に、上陸第一日目の午後遅くにシャーロット自身の目の前で起こった出来事が書かれています。
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チャラン・カノアの未完成の滑走路の端で、その夜のためにタコツボをせっせと掘っていると、突然けたたましい叫び声が聞こえた。
「あの穴のなかに日本兵がいるぞ!」
そう叫んだ海兵隊員たちは、私がタコツボを掘っているところから約3メートルばかりはなれた、丸太でおおわれた砂丘の方を指さした。
その声が終わるやいなや、穴にひそんだ一人の日本兵が、われわれの頭上に乱射をあびせながら飛びだしてきた。
彼はそのとき銃剣で武装しているだけだった。
一人の海兵隊員が、この小男の日本兵を目がけて手榴弾を投げつけた。
その日本兵は痩せていて、身長1.5メートルにも足りなかった。
彼は爆裂によって吹きたおされた。
すると、この日本兵はふたたび立ちあがって、手にしていた銃剣を、敵に向けないで自分の腹に、差し向けた。
そして彼は、自分で腹を掻き斬ろうとしたが、まだハラキリをはじめないうちに、海兵隊の誰かが撃ち倒してしまった。
そのため、だれも切腹をおわりまで見られなかった。
しかし、日本兵はじつに頑強であった。
彼はまたもや起きあがった。
カービン銃を持った海兵隊員が、この日本兵にまた一発、撃ちこんだ。
それからさらに三発も撃った。
その最後の一弾は、この日本兵の真っ黒な頭の皮を3センチばかりはぎとった。
彼は苦しみでのたうちながら死んだのである。
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いまとなっては、このときに勇敢な戦いをした日本人が、誰であったのかはわかりません。
水際作戦のために、海岸沿いに掘った穴のなかで、米艦隊からの猛爆をじっと堪え、おそらく戦友たちは全員爆撃にやられて死んでしまったのでしょう。
彼は、米兵たちが上陸してくるのを、タコつぼの中でじっと待ち、夕方の薄闇を待って、たったひとりの斬り込み突撃を図ったのでしょう。
当時としても、身長150cm足らずというのは、かなり小柄です。
しかも、痩せこけていました。
艦砲射撃のために、体中に大怪我をしていたかもしれません。
シャーロットは、「乱射をあびせながら飛びだしてきた」と書いていますが、当時の日本兵の持っている銃は、速射できるサブマシンガンではありません。
三八式歩兵銃です。
明治三八年制のこの銃には、米軍の銃のような速射能力はありません。
一発ごとに、ガチャンと弾をこめる。
なんと幼稚で古臭い銃を使っていたのかと、笑う人もいるかもしれません。
しかし、軍の装備にはその国の哲学が反映されます。
美意識といった方が適切かもしれません。
ハンディタイプの歩兵用機銃は、5.5ミリ弾を用います。連射するから反動を抑えるために、弾が小さくなる。
そして弾が小さい分、敵兵を容易に殺さず、怪我を負わせるにとどまります。
戦場は過酷なところです。
平時とは違います。
軍にとって、死亡した兵はそれまでですが、戦傷者は、救助しなければなりません。
そして戦傷者の増加は、軍の機動力を損ね、軍の敗北を招きやすくします。
悲しいことだけれど、それが現実です。
しかも大怪我をした兵士の多くは、結果としてはほとんど助かりません。
長く、痛い思いをして苦しみ抜いたあげく死亡します。
これに対し、三八式歩兵銃は、6・5ミリ弾を用います。
この弾は殺害力が大きい弾丸です。
当たった相手は、まず即死します。
卑怯な真似をして敵に余計な負担をかけさせない。
戦う時は健康な者同士で、正々堂々と戦う。
敵兵を殺すときは、一気に殺して、敵兵を苦しませない。
残酷なようだけれど、戦地においては長く苦しむよりは、即死した方が、撃たれた本人にとっては、幸せなことといえようかと思います。
しかも三八式歩兵銃は、連射や速射には向かないけれど、命中率が極端に高い。
敵軍に対し、正々堂々、最小の被害で戦意そのものを削ぎ、降伏に導く。
古臭いとか、連射力がないとか、後世の人たちからはボロカスに言われる三八式歩兵銃だけど、そこには、いかにも日本人らしい明確な哲学があります。
シャーロットが目撃した日本人が持っていたのは、その三八式歩兵銃です。
おそらく、タコつぼから這い出した日本人の兵隊さんは、歩兵銃で二発撃ち、二人の米兵を倒し、そのまま銃剣突撃して、敵をひとりでも多く倒そうとしたのでしょう。
身長わずか150cm、敵の米兵は、190cm台です。
オトナと子供くらいの体格差があり、しかも、敵は多数です。
それでもたったひとりで突撃をした日本人は、手榴弾で吹き飛ばされても立ち上がり(おそらくこの時点で、重傷を負っています)、万事休すと、腹切って戦友のもとに行こうとすることも許されず、銃で撃たれて転倒し、さらに3発を撃ち込まれ、頭の皮をはぎとられて(顔の傷はものすごい血が流れます)、そして「苦しみのうちに死んだ」と書かれています。
当時、サイパン島に立て篭もった日本の兵隊さんたちは、その戦いに勝ち目がないことは、とっくに知っていました。
けれど、サイパンには、多くの民間人もいるのです。
その民間人に対してさえも、米軍は容赦なく艦砲射撃やら航空機による爆撃を行い、しかも上陸すれば軍服を着た兵であろうが、民間人の女子供であろうが、まったく問答無用で殺戮をしかけてきたのです。
ならばもはや戦うことしか選択肢はありません。
そして同時に、サイパンを奪われることは、サイパンから日本本土に向けての空襲を許すことになります。
そうなれば、祖国にいる父や母、幼い兄弟姉妹、友人たち、大好きだった彼女たちが、同じように無差別に蹂躙され、殺されてしまうのです。
それを防ぐためには、一日でもいい。戦って、戦って、敵をこの島に釘付けにして、日本軍の怖さ、恐ろしさを、敵に知らしめる他はないです。
米軍が上陸した初日、夜襲をしかけようとする日本軍に対し、米軍は休みなく照明弾を打ち上げ、一晩中、海岸一帯を真昼のように明るく照らし出して防御を図りました。
日本軍は夜襲によってなんとか頽勢を挽回しようとするけれど、真昼のような明るさでは、夜襲の効果も半減してしまいます。
それでも我が軍は、夜襲を敢行しました。
米軍の絶え間ない照明弾によって、あたりは真昼のように明るい。
その中を圧倒的な米軍の火力を前にしながら、なんとか白兵戦に持ち込もうと突撃攻撃を行い、その日のうちに日本側の2個大隊と、横須賀第一陸戦隊がほぼ全滅しています。
日本軍は、島の北部へ退却しました。
翌16日、米軍第二七歩兵師団が上陸し、日本側の飛行場に向かって進撃してきました。
途中には、サトウキビ畑が広がっています。
日本側は、このサトウキビ畑にひそみ、米軍を襲いました。
やわらかいさとうきびでは、姿は隠せても、敵の猛射は防げません。
ですからこれは、捨て身の戦法でした。
米軍は火炎放射器で、畑をまるごと焼き払いました。
日本兵が、体中火だるまになって飛び出すと、それを全員で撃ち殺しました。
火が燃える。
日本人が飛び出す。
よってたかって撃ち殺す。
射撃する米兵にめがけて、火だるまになった日本兵が立ち上がって銃撃する。
米兵が撃ち殺される。
この日いっぱい、夜半までそうした戦いが繰り広げられました。
この日の夜も、日本側は、飛行場奪回のために戦車第九連隊(44輌)を先頭にたてた8000名で、米軍に総攻撃をかけました。
しかし、数十発連続して撃ったら、砲身が真っ赤に焼けて、撃てなくなる日本側の砲門に対し、米軍は、一時間に野戦砲800発、機銃1万発という猛射で、対抗します。
これにより日本側守備隊8000名が、ほぼ全滅してしまう。
18日の時点で、日本陸軍サイパン守備隊の斎藤義次中将は、飛行場を完全に放棄します。
けれどそのために、南部に残された日本軍が完全に孤立してしまいます。
ここまでの攻防戦で、ひとつ触れておかなければならないことがあります。
それは大本営の晴気誠(はるきまこと)陸軍参謀のことです。
サイパンにおいて、敵の上陸を水際で食い止めるようという作戦は、大本営の晴気誠陸軍参謀によるものです。
しかし、敵の圧倒的な火力の前に、結果として敵上陸を許し、さらに敵上陸後3日間の戦いは、日本側の敗退と多大な兵力の損耗に終わっています。
そもそも水際作戦のために、日本軍の陣地、火力は海岸付近に集中していたし、これが敵の艦砲射撃や空襲の的にもなってしまっていたのです。
このため守備隊は早々に壊滅してしまいました。
水際作戦を考案した大本営の晴気参謀は、この作戦の責任を感じ、自らサイパンへ行って玉砕戦を行いたいむね、志願しました。
けれど、いまさらひとりの参謀が行ったところでどうなるものでもないし、晴気参謀を送り届けるために損耗する兵力の方が、逆に高くついてしまいます。
さらに有能な参謀を失うことは、日本としても避けなければならないことです。
志願は、却下されました。
しかし、晴気参謀は、このときの作戦の失敗を、ずっと胸に抱き続けました。
そして、もはや水際では防衛戦はできないと、この後の作戦では、すべての作戦において、敵を内陸部に誘い込んでの抵抗戦に切り替え、米軍の損耗を増やしました。
そしてすべての戦いに、頭脳と智慧の限りを尽くした晴気参謀は、終戦を迎えた昭和20年8月17日、それまでの戦いの全責任をとって、大本営馬場の上にある大正天皇御野立所に正座し、同期生に介錯を依頼して古式に則って見事、割腹自決を遂げています。

晴気少佐は、8月10日に遺書を先にしたためています。
割腹は、覚悟の上のものだったと推察されます。
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戦いは遠からず終わることと思う。
しかして、それが如何なる形に於て実現するにせよ、予はこの世を去らねばならぬ。
地下に赴いて九段の下に眠る幾十万の勇士、戦禍の下に散った人々に、お詫びを申し上ぐることは、予の当然とるべき厳粛なる武人の道である。
サイパンにて散るべかりし命を、今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ。
武人の妻として、よくご納得がいくことと思う。
しかして、予の肉体は消ゆるとも、我が精神は断じて滅するものにあらず。
魂はあく迄皇国を護持せんのみ。
予はここにこの世におけるお別れの言葉を草するにあたり、十年間、予と共に苦難の途を切り抜け、予が無二の内助者たりし貴女に衷心より感謝の意を捧ぐ。
又、予は絶対の信頼を以て、三子を託して、武人の道に殉じ得る我身を幸福に思う。
然るに、夫として、又父として物質的、家庭的に、何等尽すことを得ざりし事を全く済まぬと思う。
今に臨んで、遺言として残すべきものは何ものもない。
予が精神、貴女が今後進むべき道は、予が平素の言、其の都度送りし書信に尽く。
三子を予と思い、皇国に尽す人間に育ててもらえれば、これ以上何もお願いすることはない。
三子には未だ幼き故に何事も申し遺さぬ、物心つくに伴い、貴女より予が遺志を伝えられよ。
予がなきあと、予が残したる三子と共に、更に嶮しき荊の道を雄々しく進まんとする貴女の前途に、神の加護あらんことを祈る。
予が魂、また共にあらん。
昭和二十年八月十日記
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※明日の記事に続く
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