
我々は旧日本軍は非科学的,非人道的であったように教育されてきました.そしてアメリカの勝利は正義と民主主義の勝利であったように語られています。
日本側の激戦に関する報告や体験談はほとんど語られず、生き抜いた元軍人たちの証言は、反日的、反国家的な偏向を持つ者のものだけが紹介され、当時、真剣に国のために命を捧げようとした人々の話は、まるでスルーされてきました。
以前、舩坂弘さんの活躍を≪ランボーは日本人だった!舩坂弘軍曹物語≫という記事でご紹介させていただきましたが、その舩坂さんの書いた本に、次の記述があります。
~~~~~~~~~~~~~
われわれとともに戦い、散っていった戦友たちを思うとき、私はこの師団に所属したことを誇りに思わないわけにはゆかない。
戦後、軍隊に対する一方的な批判や、あたかも太平洋戦争の犠牲者を犬死となすような論がしきりになされた。
だが、それらはいずれも軍隊において落伍者出あった者のするインテリ兵の時流に乗った発言であって、当時の私たち青年は純真素朴に「故国のために死す」ことを本望として敵軍に突入していったのである。
~~~~~~~~~~~~~
役立たずのインテリ兵の「時流に乗った発言」は、戦後のGHQによる宣撫工作や、まともな人の公職追放などを受け、「単なる非常識」の「腰ぬけチキン」の発言が、普通ならあり得ない市民権を得たというのが戦後の日本であったろうというのは、巷間、よく言われていることです。
たとえば特攻にしても、いまだに多くの「保守」を自称している方々ですら、初期の頃の特攻は効果があったけれども、後期はほとんど撃墜されて効果がなかったと信じている人がいます。
しかし、アメリカ公文書館が時限切れで公開したウォーダイヤリー(戦闘記録)によると、特攻攻撃によって、なんと六割近くの艦船が突入被害を受けていると書かれている。
しかも被害を受けた船は、大破により廃棄と発表していたけれど、ウォーダイヤリーによると、そのほとんどすべてが、実際は沈没、または使用不能艦となっていることが確認されています。
ウソも隠しもない、これが事実です。
以前、「回天」のことも書きましたが、「回天」については、昭和20年8月15日の終戦の日、米政府は「回天特攻中止」を特別に日本側に申し入れています。
それだけ被害が甚大であると恐れられていたのです
南方戦線の島々での玉砕戦でも、いまわれわれが入手している各種数字は、島への上陸作戦の初日の戦死者は、上陸作戦の戦死者として数えずに、行方不明者としてカウントする。
戦闘記録フイルムに数百の十字架が建っていても、戦死者は、百名近くと発表する。
島での戦没者は、戦後すぐに、アメリカに移送する。
実際の被害が見えないようにする。
一方で原爆投下については、狂気となっていた日本軍部に対して、いちにちもはやく戦争を終わらせるために原爆を投下したと、きれいごとで誤魔化そうとしていました。
ところが、実際には、空母機動部隊の指揮官として戦艦武蔵を沈めるなど日本海軍を敗北に導いたハルゼー提督が、次のように語っています。
~~~~~~~~~~~~~
広島、長崎への原爆投下は、明らかな間違いである。
原爆は多数の ジャップを殺したが、ジャップは、それよりかなり前からロシアを通じて和平の打診をしていた。
~~~~~~~~~~~~~
和平工作に関しては、≪斬っても突いても死なない男、鈴木貫太郎≫で、実際に日本は終戦の半年前から、必死の和平工作をしていたのが事実です。
当時の情勢を振り返れば、昭和二十(1945)年三月には、硫黄島が占領されています。
制海権、制空権を失った日本は、連日B-29によって都市爆撃を受けていた。太平洋側の主だった市は、ことごとく米軍の艦砲射撃によって壊滅的打撃を受けています。(おかげでウチの実家も焼け出されました)。
筆者は少年時代を太平洋側の地方都市で過ごしましたが、子供の頃、中心街のいたるところに防空壕が残っていました。
遊び場にしていた近所の広場は、ある日、防空壕跡の陥没で、突然穴が空き、山を切り開いて市街化のための区画整理をすると、そこここに、防空壕跡の穴が、まるで虫の巣のように空いていた。
昭和二十年の日本の石油の輸入量は、ゼロです。
軍需物資の備蓄も使い果たしていたし、昭和二十年四月の戦艦大和出撃以降は、軍艦を動かす燃料もなかった。
首都防衛のための厚木飛行場の戦闘機は、墜落させたB-29から燃料を吸い出して、ようやく飛行機を飛ばしていた。(このB-29から抜いた燃料の方が、備蓄していたガソリンよりもはるかに精度が高く、飛ばす飛行機の調子もよかったそうです。
大都市の軍需工場は破壊され、都市自体が灰燼に帰し、食糧も底を尽き、産業基盤も生産能力もない。それが当時の日本の実情だった。
六月の沖縄戦の終了後には、ブラッドレー米国統合参謀本部議長は、次の報告書を大統領に提出しています。
~~~~~~~~~~~~~
日本は既に事実上敗北しており、降伏を準備している。
~~~~~~~~~~~~~
スチムソン陸軍長官によれば、日本は昭和二十年七月の時点で
~~~~~~~~~~~~~
すでに日本の海軍、空軍兵力は 事実上存在しない。
残っているのは進攻艦隊に、こうるさく抵抗する程度の戦力である
~~~~~~~~~~~~~
と述べています。
終戦後の昭和二十年九月に日本に訪れた、米国戦略爆撃調査団も、
~~~~~~~~~~~~~
たとえ原爆が 投下されなかったとしても、ソ連が参戦しなかったとしても、本土上陸作戦が行われなくても、日本は非常に高い確率で九州上陸作戦の決行予定日である昭和二十年十一月一日から、十二月三十一日までの間に、確実に降伏したであろう
~~~~~~~~~~~~~
という最終報告書を、トルーマン大統領に提出しています。
(U.S Strategic Bombing Surbey,Summary Report ( Pacific War ) ,1946、の26頁)
そんな状況下で、なぜアメリカは日本に原爆を投下したのか。
それについて、歴史学者 バーンスタインは、次のように述べています。
~~~~~~~~~~~~~
日本への原爆投下は「ソ連を威嚇すること」が根本理由であり、ソ連の影響力が日本、満州、China、朝鮮に及ぶことを阻止するために、いわばソ連に対する威嚇攻撃として、日本に原爆を投下した。
~~~~~~~~~~~~~
ソ連に対抗するために、日本に(?)、なにやらおかしな話に思えるかもしれません。
なので、もうすこし詳しく述べると、ソ連に対抗するために、核による報復攻撃を受ける心配がない日本に、原爆を投下した、ということです。
核は、いまも昔も、使えない究極の兵器です。
相手国が核を保有していたら、報復攻撃を惧れ、核は使えません。
だから、その時点で、絶対に報復攻撃の心配がない・・・すでに日本近海ですら制海権、制空権を失って満身創痍となっている日本・・・に原爆を落とすことで、ソ連に対する威嚇を行った。
戦争は、常に政治的産物なのです。
戦闘行為には、つねに政治的目的がある。
このことは大変重要な事実を示唆しています。
つまり、核のない大国は、それだけで国民を核の危険に晒している、ということです。
まさか、と思うかもしれませんが、実際、日本に核は投下されています。
あの時点でもし、日本が核を持っていたら、アメリカは日本に核を落としましたか?
さらにいえば、当時アメリカは、日本の主要都市11カ所に、連続して原爆を投下する計画でいました。
原爆は、当時のお金で二十億ドルという巨費を投じて開発された兵器です。
いまの相場に換算したら、一兆円くらいの巨額の資金です。
そして、これも日本ではあまり語られないことですが、広島に投下された原爆と、長崎に投下された原爆では、その種類がまったく違います。
広島上空で投下された原爆( リトルボーイ )は、ウラン235型原爆です。
長崎で投下された原爆(Fat Man)は、プルトニウム型の原爆です。
そしてこの二度にわたる原爆投下は、原爆開発のマンハッタン計画を担当した ロス・アラモス研究所の公式記録によれば、 史上二度の「原爆実験」とされています。
あくまでも「実験」です。
で、被害の実態が詳しく記録された。
広島で二十万人、長崎で七万四千人の非武装の市民を無差別に殺した原爆は、アメリカにとってはあくまでも「実験」だったのです。
要するに、日本人は対ソ戦略作戦のための原爆実験のモルモットにされたわけで、だからこそ、すでに半殺しにされ、抵抗力が奪わ、反撃の可能性のまったくない日本が、原爆投下のための実験場所に選ばれた。
戦略的には、最早原爆を落とす必要すらなかったのです。
要するに、アメリカは、「戦争を早く終わらせるために原爆を投下」したのではなくて、ソ連の参戦が間近なので、早く原爆を投下しないと日本が降伏して戦争が終わってしまう。だから≪戦争が終わらないうちに≫大慌てて原爆を投下したのです。
実際、原爆を米国本土のカリフォルニアの軍港からテニアン島に運んだ、米重巡洋艦インデアナポリスは、西海岸からテニアンまでの一万二百キロを、わずか十日で、走り抜けています。
平均時速54キロ。当時としては猛烈な高速です。
要するに大急ぎで運んできた。
はやくしないと、戦争が終わっちまうからです。
ちなみに原爆投下のためのマンハッタン計画は、投下の2年前である昭和十八年にはできあがっていますが、その全編を通じて、ドイツ、ヨーロッパ戦線に使われる予定はまったくありません。
つまり、対ソ戦略上必要な「原爆投下による人体実験のため」、広島、長崎に原爆が投下された。
当時、有色人種はヒト(人間)ではなかったのです。
東京裁判でオランダの代表判事をつとめたレーリンクは、アメリカが日本に原爆を投下した理由を次のように述べています。
~~~~~~~~~~~~~
ナチスドイツはユダヤ人を人間として扱わなかった。
同様に米国も 日本人を人間として扱わなかった。
連合国の国民(白人)は、有色人種を、昔から人間以下とみなすように教育されてきた。
~~~~~~~~~~~~~
ついでにもうひとつ。
当時の アメリカの雑誌タイムに書かれた言葉です。
~~~~~~~~~~~~~
普通の日本人は知性が低く、無知である。
たぶん人間なのだろうが、 人間であることを示すような点はどこにもない。
~~~~~~~~~~~~~
これが日本人に対する考え方だったということです。
ちなみに、日本に投下する原爆を大急ぎでテニアンに運んだ米重巡洋艦インデアナポリスは、任務終了後、フィリピンのレイテ湾に向かう途中で、日本の伊五八潜水艦が撃沈しています。
昭和二十年七月三十日、午前0時14分のことです。
すこし溜飲が下がるお話なので、最後にそのときの戦記を添えておきます。
~~~~~~~~~~~~
伊号第五八潜水艦は、昭和一九年九月に乙型二九隻の最終艦として竣工された潜水艦です。
なんと最新鋭のレーダー装備を完備。(レーダーは米軍だけの専売特許ではありません。そもそもレーダーの開発者は日本人の八木秀次博士です)
さらに人間魚雷回天を搭載した新鋭艦です。
昭和二十年七月十八日、「回天・多聞隊」6基を搭載し、山口県の平生基地を出撃した伊五八潜水艦は、出撃して十日目に、レーダーで敵、大型タンカーと駆逐艦を発見し、回天二基を発進させます。
そして駆逐艦一隻を撃沈。
次いで伊五八潜は、東カロリン諸島方面に向かいます。
艦内は、まるで蒸し風呂のように暑かったといいます。
昭和二十年七月二九日午後十一時、月の昇る時刻に合わせて、潜望鏡深度に浮上した伊五八潜は、月明かりで洋上を視察。
続いてレーダーで上空の敵機を探るも、反応なし。
「浮上する、メインタンク・ブロ~」
橋本以行(はしもともちつら)艦長の令に静かに浮上した艦橋に、航海長、信号長、見張員が駆けのぼり、素早く九七式12cm双眼望で、洋上を探ります。
当時のレーダーは、捕捉距離が1万2千メートル。つまり、約12kmです。視界があれば目視の方が、遠くまで見渡せる。
「左前方に何か発見」見張り員が叫びます。
航海長もそっちの方角を探る。
月明りの水平線に、点のような艦影一つ発見。
橋本艦長は、直ちに「潜航」を命じます。
潜行しながらも、橋本艦長は黒点をしっかりとらえています。
黒点はやがて、次第にハッキリし艦影を現す。
敵艦です。
薄暗い月明りの中で、なんと一万メートル以上の距離で、敵のレーダーより先に敵艦を発見、捕捉しています。日本の見張員はものすごく優秀なのです。

艦長が静かに命じます。
「魚雷戦用意」
続いて、「回天用意」の号令もかかる。
敵艦はまったく気づきません。
対潜警戒のジグザグ航行もない。
こっちに真っ直ぐ進んできます。
周りに護衛艦もいない。
そのうち艦橋が確認できる距離にまで近づきます。
敵の重巡洋艦です。
この明るさでは、性能の低い潜望鏡しかない回天では、命中は厳しい。
橋本艦長は、この時点で、通常魚雷による攻撃を決断します。
距離、約四千メートル。
敵は、進路を少し変えます。
これだと、真上を突っ切られる恐れはありません。
むしろ好射点です。
艦長は潜望鏡で標準を合わせながら
「魚雷発射管6 発射始め」
と命じます。
それぞれの乗組員は、敵艦の速度、方位、距離を測定し、諸元を調整します。
狙いは艦橋にです。
距離千五百メートル。
射程にはいります。
「よーい。てっ~!!」
艦長の号令一下、6本の魚雷は2秒間隔で発射され、扇型に開きながら敵艦めがけて進んでいきます。
しばらくの静寂のあと、潜望鏡を覗く橋本艦長の声が響きます。
「命中!」
一発目は一番砲塔の真下に命中。
二発目は二番砲塔に命中。
三発目は艦橋付近に命中です。
その光景を第二潜望鏡(夜間航海用)で視認した艦長は、他の乗員にも潜望鏡を覗かせ、確認をします。
しばらくすると、三発の衝撃波。
次に発射する魚雷装填のために、伊五八は、ひとまず潜航します。
装填を終えて、潜望鏡深度に浮上すると、敵艦の姿は既に洋上にない。
この間、わずか一二分です。
橋本艦長は、艦隊司令部に打電を命じます。
「ワレ伊五八潜、ヤップ島北西方 北緯12度02分 東経134度48分ニオイテ アイダホ型戦艦ヲ撃沈ス」
このとき撃沈した船が、日本に二発の原爆を落とした敵の重巡洋艦インディアナポリスでした。
ちなみに、大東亜戦争で、日本が撃沈した米軍艦船は、350隻以上にのぼります。
そして戦績は、初戦の驚異的強さを誇った時期だけでなく、ミッドウエーで敗れ、海軍力を大幅に低下させ、制海権すらなくなった中ですら、継続して戦績を挙げています。
そして、米軍の攻撃対象がもっぱら輸送船だったのに対し、日本の艦船の攻撃対象は、必ず、軍船に向けられた。
日本は、敗色濃くなった戦場ですら、国際法規を遵守して戦ったのです。
↓クリックを↓


