
どうなんでしょう。
市庁舎の一階の入り口脇に、つぎはぎだらけでボロボロの衣服を着たおじさんがいて、役所から給料ももらわず、粗末な衣服で町中を巡回していたら。
そしてその人が実は市長さんで、町にものすごく貢献している人だとしたら。
町と町との紛争や、つまらない誤解による争いを、必死になって説得に歩く、まさに聖(ひじり)のような人だったら。
そんな実話があるので、ご紹介します。
宮城県中部に、大崎市というところがあります。
2006年に、古川市、三本木町、松山町、田尻町、鹿島台町、岩出山町、鳴子町が合併してできた市です。
文久三(1863)年といいますから、いまから147年前のことです。
いま大崎市と呼ばれている陸奥国志田郡木間塚村竹谷に、ひとりの男の子が誕生します
それが、鎌田三之助(かまたさんのすけ)です。
鎌田家は、伊達家(だてけ)家臣の流れをくむ名門で、鳴瀬川沿いの大地主の家柄です。
子どもの頃の三之助は、めちゃくちゃ喧嘩が強く、上級生さえも負かしてしまうほどのやんちゃ坊主だったそうです。
鎌田家は、三之助の祖父も父も、地元の治水事業に生涯を賭けた人で、そんな家庭環境から、三之助は、政治家になろうと志し、明治十一(1878)年、十五歳で上京します。
漢学塾や明治法律学校(いまの明治大学)の法学部で6年間学んだ三之助は、二十一歳で郷里に戻り、農業に従事するかたわら、父が行う品井沼(しないぬま)の干拓事業を援け、さらに、木間塚に大成館という私塾を設立して青少年の教育にあたります。
帰郷してまだ間もないころです。
医師のいない故郷の小間塚に、天然痘患者が発生します。
三之助は、疫病が広がることを心配し、いち早く天然痘のワクチンを購入し、すべての費用を自分でまかなって村民に接種をするとともに、東奔西走して、栃木県から大越寿亭(おおこしじゅてい)という医師を招き、医薬品や医療器具を与えて医院を開業させています。
なんとこの費用も、すべて三之助が負担したそうです。
こうした行為の積み重ねにより、三之助は、多くの人から尊敬と信頼を集め、明治二十七(1894)年に、志田郡の議会議員に当選します。
そして翌年には、32歳の若さで宮城県議会議員に当選。
さらに明治三十五(1902)年、39歳の若さで第七回衆議院議員総選挙に立候補し当選、衆議院議員を二期務めます。
この頃の日本は、いわゆる労働力過剰な状況にありました。
簡単にいえば、人口が多く、働き口がないという状況だったのです。
そんな中で、全国的に広く行われたのが海外への移民でした。
全国の農村の救済のために、技術を持った日本人が、相手国の協力を得て、移民し、その国で農業を営むというものです。
それが奨励された。そういう時代だったのです。
なにせ国内にいても仕事がない。食えない。

衆議院議員だった三之助は、メキシコ移民計画に深い関心をもち、明治三十九(1906)年、現地の調査のため、自分で同志の村民24名を連れて、横浜からメキシコに向かいます。
このあたりが、三之助の偉いところです。
というか、戦前の時代を生きた人の偉いところで、先ず、自分で行って確かめる。
昨今の学者や、メディアの評論家などとえらい違いです。
なにせ彼らは自らはまったく動こうとしない。
さて、メキシコの調査もほぼ完了し、いよいよ計画を実施しようとした矢先のことです。
郷里の宮城県知事亀井英三郎から、メキシコにいる三之助のもとに電報が飛び込んできます。
「シナイヌマ モンダイ フジョウ
キカノ アッセンヲマツ」
(品井沼で問題が起こった。貴下の斡旋を待つ)
一日置いて、矢継ぎ早に急ぎの電報が入ってきます。
品井沼の排水工事をめぐって、工事推進派と中止派がそれぞれ対立し、住民を二分する騒動になっていたのです。
三之助は急いで帰国する。
品井沼の排水工事は、三之助が一年前にメキシコに向けて出発したときからほとんど進んでいません。
三之助がいなくなったあと、それぞれの村で意見の不一致が出たのです。
品井沼の干拓工事について、そもそも工事自体が不要と言い出す者、干拓そのものが不可能だと言い出す者、決まったことだからやろうという者、それぞれが対立し、そこに亀井県知事が仲裁に出張るのだけれど、まったく問題を解決することができない状態だった。
要するに、だいじな参院選を前にして、保守系議員同士や保守系政党、あるいは保守系団体等々対立し、それぞれの応援者たちまで一緒になって溝を深めているようなものです。
三之助は帰郷するとすぐに村に向かいます。
三之助の決意は固い。
私財を使い果たしてでも、水害から村々を救うのだ。
沼の沿岸800ヘクタールの水害を防止しするのだ。
新たに水田を1000ヘクタールつくるのだ。
これが荒れ果てた村々の復興につながる。
三之助の信念は揺るぎません。
品井沼の干拓のためには、急な斜面の山を登り、そこから下って新たに水路を作り、治水のために、トンネルも掘らなければなりません。
たいへんな難工事なのです。
しかし、完成すれば、そこに住む人々の暮らしは、まちがいなく豊かになる。
三之助は、反対派の人々を粘り強く説得します。
要は、信念の問題なのです。
ついに反対派の人々も納得し、ついにはみんなが一致団結して工事を行うことになった。
品井沼の干拓のために力をつくした三之助は、明治四十二(1909)年、村人たちの強い願いで鹿島台村の村長になります。
村長となった三之助は、村から給料ももらわず、そのまま38年間、無給で村のためにつくします。給料だけじゃない。旅費ももらわなかった。
講演の謝礼金などをもらうと、そのまま小学校に寄付をして教材費に遣ってもらった。
なぜ三之助はそんなことをしたのでしょう。
それには理由があります。
せっかく干拓を行い、田畑が増え、農作物の増産が可能になって所得が増えても、それはフローの収入です。遣ってしまったら何も残らない。
富というのは、ストックなのです。
もうすこしくだいて言うと、年収が2000万円あったらベンツに乗れるけど、その分、支払いが多くて、何も残らない。
10年経っても、借金もぐれで華やかそうな生活の割には、豊かでない。
景気が後退して、収入が1500万円に減ったとたん、支払いに追われ破算しなきゃならない。
逆に年収200万円でも、地味に生活し、出費を抑えてつましく暮らしたら、年間50万円の貯金ができる。
10年経ったら500万円です。二年半分の生活費がプールされている。
景気が悪化して、年収が150万円に下がっても、生活は追われないし、蓄えがあるから万一のときにも安心です。
間違えてはいけないのは、明治から昭和初期にかけての日本の発展は、こうした一般庶民の質素倹約によって支えられてきた。
そうやって庶民が蓄えたお金が、銀行にプールされ、銀行はその金で国債を買って、庶民への利払いをした。
そして国債の発行によって集められたお金が、国によって道路や鉄道、橋梁などの国家インフラの整備に回された。
富とは、決して贅沢な暮しをすることではない。
地味にコツコツと蓄えることなのだ。
三之助は、そのことを、自ら模範を示すことで村人たちに広めたのです。
貧しかった村を救うためには、これしかない。
それは三之助の信念でもあった。
さらに三之助は、村人と膝を突きあわせて話をするために、村内を毎日行脚します。
「日の照らない日があっても、村長さんの見えない日はない」と村人たちから言われたほどです。
さらに三之助は、村長室を、役場の入口近くの小さな土間に移させた。
土間から板の間に上がる段のところに、村長席をつくったのです。
そして、破れた帽子をかぶり、つぎはぎだらけの古びた上着とズボンに脚半(旅などで歩きやすくするためにすねにまとう布)を付け、手編みのわらじで村内をくまなく歩いた。
選挙のときだけドブイタで歩くのではない。
毎日毎日、村を歩いた。
そんな三之助村長を、いつしか村人たちは、親しみを込めて
「わらじ村長」
と呼ぶようになります。
(宮城県大崎市、鎌田三之助展示館)

三之助が使用していたわらじ

誰がどうみても、どう考えても、世界最高の村長です。
三之助が村長を務めた期間は、なんと十期38年です。
その間、三之助は給料もとらず、交通費ももらわず、学校教育の場における統合神社の合祀、村の全村負債の整理(借金がゼロになった)、植林の奨励をはじめ、荒廃し貧しかった村のために、まさに粉骨砕身の努力を重ねます。
そして懸案の品井沼干拓事業も、ついに完遂させる。
品井沼周辺地区の今日は、まさに三之助村長の努力のたまものと言っていい。
そしてその崇高な人格から、村人たちのまさに総意で、大正九年、品井沼排水事業功労者として、宮城県知事から表彰を受けます。
さらに昭和二年には、自治治水功勞者として藍綬褒章を賜り、この後、三之助への褒章は、実に前後二十数回に及ぶものとなります。
そして晩年には、自治功労抜群として、昭和十九年、戦時中でありながら、内務大臣から自治顯功章も拝受した。
それだけの地域貢献の大功労者が、終戦後の昭和二十一(1943)年、GHQによって公職追放になります。
立派すぎたから職を追われたという説もありますが、当時の朝鮮進駐軍が農家から略奪をするのに村の重鎮である三之助村長の存在が邪魔だったからだという話もあります。いまでは、はっきりとした理由はわかりません。
昭和二十五(1950)年、三之助は、87歳の生涯を閉じます。
そして、国内にある程度の平穏が戻った昭和二十七(1952)年、村人たちから、三之助の恩義に報いたいと、三之助翁の像の建立の話がもちあがります。
自然発生的なものだったそうです。
これが村議会に提示されるや、地元住民はもとより、関係各町村だけでなく、全国から賛同の声が上がります。
それが、冒頭の写真です。
とっても良いお顔をされた銅像です。
銅像のお顔を眺めてみて思ったのですが、もはやこのお顔は、神仏の域に達しておられる。そんな気がします。
そういう人が、この日本にいた。
みなさん、そういう日本を取り戻しませんか?
↓クリックを↓

