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日本四僧塔
日本四僧塔

大理石(だいりせき)といえば、彫刻や建築に使われるものとして、誰もが知っている石です。
この石は、石灰岩が接触変成作用(熱変成作用)を受けてできる変成岩で、Chinaの雲南省大理の「大理」で産出することにちなんで、「大理石」と名付けられています。
雲南省大理というところは、Chinaの南西部に位置し、いまでは少数民族となっているペー族という民族が支配したところとしても有名です。
大理は、城壁に囲まれた城砦都市で、最盛期には1万人が住んだといいます。
しかし1253年のフビライ汗の侵攻で、約320年続いた「大理国」の歴史は終わり、雲南省の仏教の中心地となった歴史も破壊されてしまいました。
ペー族というのは、黄河文明より古い揚子江流域の長江文明を築いた人々が黄河文明族に終われて逃れた人々といわれています。
最近の研究では、6300年前頃、揚子江流域に、高床式住居に住み、稲作をし、武器を持たない文化を持つモンゴロイドが暮らしていたことがわかっています。
1000年ほどの後、コーカソイドのDNAを持つ人々黄河流域に住みつきます。
この人々は、狩猟採取生活をする人々で、簡単にいえば、武器をもって狩猟と略奪を生業とする人々です。
そのコーカソイドたちが北上して、豊かな稲作をする長江流域のモンゴロイドを攻め滅ぼし、長江文明を完膚なまでに滅ぼし、遺伝子を交えてできたのが、いまの漢人といわれています。
このため、古代漢民族のDNAには、ミトコンドリアにだけコーカソイドのDNAが混じっている。
つまり、コーカソイドの黄河族が、武器をもって長江のモンゴロイドを攻め、軍事的政治的に長江族を滅ぼした。
しかし農業を営む長江族の方が圧倒的に人口が多かったため、約3~4000年の時をかけて、血が混じり、外見はモンゴロイドで、女性から女性にだけしか伝わらないミトコンドリア遺伝子にのみ、コーカソイドの痕跡が残ったのだといいます。
対人用の武器を持たない文化と、対人用の武器を持つ文化。
武器を手にすれば、ありとあらゆる欲望を満足させることができるという人々に対し、武器を持たない文化の人々もやむなく武器を手にして立ちあがる。
そして互いに殺し合い、その恨みからさらに殺し合いをする。
それがChina四千年の歴史であるというお話は、以前、「中国四千年の歴史という馬鹿げた妄想」という記事でご紹介させていただきました。
URL=http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-815.html
さて、長江には武器を持って戦う人々がいた一方、戦乱に明け暮れる揚子江流域を捨て、新たな平和の地を求めて旅立つ人々もいました。
そうした種族が移り住んだのが雲南省界隈で、冒頭のペー族も、大理の城で、仏教を基調にしたおだやかな文明を築きます。
そしてフビライにいったん蹂躙された大理の城も、元王朝が明に変わる頃には、再び仏教の盛んな都として往時の繁栄を取り戻します。
そんな頃のことです。
明代初めの西暦1380年、明の宰相だった胡惟庸らが日本と結託して謀反を図ったとして洪武帝(朱元璋)に大量粛清されます(胡惟庸の獄)。
この時、仏教を学ぶために留学していた4人の日本人僧侶も事件に巻き込まれます。
4人の僧は辺境の雲南省大理に流された。
明代の詩集には、次のような日本人僧侶の詩が残されています。
故郷を離れて十数年
  異郷をさすらう
一夜、秋風が吹き
  また故郷を想う
明はその後、「海禁政策」を行い海外渡航を制限します。
それにより、4人は帰国することができなくなった。
詩にある「故郷を思う」は、当時、Chinaで多くの仏典を学んだ彼らが、その学んだ事柄を帰国して日本に伝えることができなくなったことへの悲しさ、さみしさが「秋風が吹き」の言葉に込められているのではないか、そんな気がします。
4人の日本人僧侶は、そのまま大理に留まり、この地で亡くなります。
ペー族の人々と、非常に友好的であったのだろうと思う。
なぜなら、彼らの死後、現地の詩人も日本人僧侶の死を惜しむ詩をささげ、さらに4人の悲劇的な境遇を哀れんで、「日本四僧塔」と呼ぶ、4人の遺骨を納めた供養塔を建てているからです。
いまから600年も昔の話です。
その後もペー族はこの塔を守り、China共産党成立後も、この供養塔は破壊されず、いまに伝わっています。
ペー族の住民が守ってくれたのです。
2006年、チャン・イーモウ監督の映画「単騎、千里を走る」に主演した高倉健さんは、雲南省政府などからこの話を聞き、供養塔の修復のため、1万ドルを寄付しています。
稲作伝来については諸説あって、大陸から日本に稲作が渡来したというのが、目下、教科書に書かれている説となっています。
しかし、縄文時代の遺跡などから、日本における稲作は、すでに七千年以上も前から始まっていたという説もあり、また、稲作のDNAの解析で、少なくとも大陸から朝鮮半島を経由して稲作が日本に渡来したという説は、いまでは完全に否定されています。
むしろ、雨季と乾季のある熱帯で生まれた熱帯性植物である稲の栽培に際し、初夏に田に水を入れて人工的に雨季を作りだし、晩夏には田の水を抜いて、乾季を演出して稲を育てるとか、ねずみの被害に遭わないように高床式住居にするとか、こうした細やかな技術革新は、日本人の国民性であり、むしろ日本生まれと解釈した方が、馴染みが良いです。
だとすれば、もしかすると水田栽培の稲作技術は、武器を持たない平和な文化(日本の縄文遺跡は国内に数万カ所あるけれど、いまだに対人用武器が出土していない)を持つ日本人が、なにかのはずみで大陸に進出し、そこで長江文明を形成したのかもしれない。
そして黄河流域に住みついた武器を持つ文化の人々に追われた長江文明人たちが、遠くChina奥地の雲南の大理に住みつき、そこで城砦都市を営んだ。
もしかすると、彼らのDNAは、日本人とルーツを同じくする人たちなのかもしれません。
そんな彼らが、十四世紀の終わりごろ、日本から渡来した学僧を、死後も大切にしてくれていた。
もしかすると日本人僧侶とペー族の人々とは、遠く祖先を同じくする遠戚の再会だったのかも知れませんね。
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