
ヴァーシリー・ミハイロヴィッチ・ゴロヴニン(Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin)という人がいます。ワーシリー・ゴローニンとも呼ばれます。
1776年生まれといいますから、日本で言うと江戸中期頃に生まれた人です。
彼は、ロシア帝国ロマノフ朝の海軍軍人で、文化八(1811)年に、軍から千島列島の測量を命じられ、ロシア軍艦ディアナ号艦長として択捉島、国後島を訪れます。
そこで幕府役人に捕縛され、箱館で幽閉されています。
彼は、2年3か月の間、日本に幽囚され、文化十(1813)年、釈放されてロシアに帰国しました。
後日、ゴローニンは、このとき日本での経験を「日本幽囚記」という本にまとめます。
この本は世界各国語に翻訳され、その頃まで日本に対してヨーロッパが持っていたイメージ「クリスチャンへ理不尽な迫害をもたらす野蛮な国」という認識を一変させます。
ゴローニンのは、この本の中で、民であるというヨーロッパの否定的な日本人観を一変させました。
この本で彼は、日本の風俗、習慣、宗教、社会、政治等を鋭く分析し、日本人の戦争観や教育について、あるいはユーラシア外交に対する考え方、皇室についてなど、詳細なレポートを書いています。
そこに書かれている、ゴローニンの文章の訳です。
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日本人は天下で最も教育のある国民である。
(中略)
日本人は、誰ひとりとして我々に侮辱を加えたり、嘲笑したりする者はなく、みんなおよそ同情のまなざしで見、なかには心から憐憫の情を浮かべる者もあり、ことに女たちにそれが多かった。
我々がのどの渇きを訴えると、先を争って世話をしようとした。
我々に何かごちそうしたいと護送兵に願い出る者がたくさんいて、酒や菓子や果物その他、何やかやと持ってきてくれた。
(中略)
現在ヨーロッパの人々たちから野蛮人と思われている日本人は、こんな優しい感情を持っているのだ。
(中略)
日本政府は、庶民が自分達のもつ知識水準で満足し、自国の生産品を使い、海外の科学技術と共にその風習が日本に根付かないように 外国のものはどんなものでも使用を禁じている。
日本の近隣の国々は、神々が日本の立法者達にこのような考えを奨励していることに感謝せねばならない。
もし日本が従来の方針を変更して、ヨーロッパのような政策を取ればどうなるか。
人口が 多く、聡明で、感受性が強く、模倣が上手で、忍耐強く、勤勉な、この万事に長けた国民が、外国のものなら何でも模倣しようとし、わが ピョートル大帝ほどの君主をいだけば、日本が持つ能力や富源とあいまって、この国民は数年のうちに東洋の王者となるであろう。
(中略)
しかし、海外のものならどんなものにも深い嫌悪の反応を示す日本や清国の政府も、現在の方針を変えることはあり得ないことではない。
両国が自ら望まなくても、必要に迫られてそのように仕向けられるようになるかもしれない。
フォボストフのような攻撃がしばしば繰り返されれば、おそらく国家をかき乱すこのような一握りの無法者を撃退するために、そのような対策を講じるようになるかもしれない。
こう した事態に至れば、ヨーロッパに倣って軍艦を製造し、それがやがては艦隊となり、この方策が功を奏せば、人類を絶滅に至らせるほど開明化された私達の他の手段をも採用するに至るであろう。
おそらく日本には、ピョートル大帝ほどの天才が介在しなくても、ただ情勢の赴くままに、ヨーロッパのあらゆる発明が徐々に日本に根付かせるであろう。
それ故私は、この正義感が強く高潔な国民を怒らせるような真似を、決してしてはならないと考える。
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この「日本幽囚記」を読んで感激し、幕末に日本にやって来たのが、ロシア正教会の大主教ニコライ・カサートキンです。
そうです。
東京の、千代田区神田駿河台にあるニコライ堂を建てた人です。

ニコライは日本人について、次のように語っています。
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上は武士から下は庶民に至るまで、礼儀正しく、弱い者を助ける美しい心、忠義と孝行が尊ばれる国、このような精神的民族をかつてみたことがない。
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ニコライは、ロシア人でありながら、日露戦争中も日本を離れませんでした。
そして神田駿河台の正教会本会で没しています。
それほどまでに日本を敬愛した。
内村鑑三の著書に、「代表的日本人」という本があります。
内村鑑三はその中で、西郷隆盛、上杉鷹山(うえすぎようざん)、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人という五人の日本人の生き方を取り上げました。
内村鑑三は、これら五人の生き方や思想に、日本人の精神文化が色濃く現われているとみたのです。
そしてその精神文化は、内村鑑三の魂の中にも脈々と生きていた。
だからこそ、彼ら五人を選んだのです。
この本は、英語で書かれましたが、そののち世界各国で翻訳されました。それを読んだ人のひとりに、アメリカのジョン・F・ケネディがいました。
ケネディは、あるとき「あなたが最も尊敬する政治家は誰ですか」と聞かれて、
「上杉鷹山」と答えています。
ケネディは、上杉鷹山の生き方を、内村鑑三の著書を通して知ったのです。
上杉鷹山は、米沢藩の藩主です。
江戸時代屈指の名君といわれました。
彼は藩主でありながら、偉ぶるところがなく、自ら倹約を行ない、自分も農民のようになって田畑を耕して働きました。
また学問所を整えて、身分を問わず庶民に学問を学ばせてもいます。
こうした政策によって、破産寸前だった藩の財政が建て直され、藩は生き返りました。
上杉鷹山の経済財務分野での藩政改革の成功は、昨今ではややもするとそのテクニナルな部分だけが強調されることが多いようです。
しかし、ボクは違うと思う。
身分制の厳しい江戸日本にあって、鷹山自身が、農を行い、教育によって民度を高めたこと、これが最大の原因であったのではないか。
どんなに経済援助をしても、民度が低く、他国を食い物にするだけ、あるいは、官からの施しやバラマキだけを期待するような国民のもとでは、経済の活性化も国富の増加も見込めません。
このことは戦後日本を見れば明らかなことで、カネも財源も資源も何もない中ですら、戦前の教育を受けてきた日本人は、目を見張る復興を遂げ、またたく間に日本を世界一のGDPの国にまでしてしまった。
ところが、戦後の自由、博愛、平等、反戦教育を受けた世代が世の中の中心となってからは、これが同じ日本なのかと思うほど、経済の成長は止まり、世の中は享楽的になり、ひとりあたりGDPは、またたく間に世界各国に抜かれ、ある種の統計では、日本のひとりあたりGDPは世界第27位、昨今の不況を考えると、もしかすると今の日本は、40位くらいまでその順位を下げているかもしれない。
自由、博愛、平等、反戦は、なるほど庶民の耳にはサワリが良いです。
しかし、忠孝の道を忘れた自由は、単なるわがままや自己中、独善、独りよがりを産み、社会貢献を謳うはずの博愛は、ただの自己愛に、平等は働かなくても分け前だけよこせというご都合主義に、反戦は単なる腰ぬけしか産んでいないように思えます。
もし、ゴローニンや、ニコライ大主教が、いまの日本をみたら何を思うだろうか。
もう一度、民度の高い日本を取り戻すためにも、私たちはいまこそ日本の歴史、伝統、文化を見直し、礼節を尊び、人格の陶冶に励む日本の教育を復活させなければならないと思うのですが、いかがでしょうか。
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