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大化の改新
大化の改新

GW中なので、今日は肩の力を抜いて、気楽なお話です。
歴史の授業って、本来面白いものだと思うんです。
ところが現実には、歴史の授業がツマラナイと答える学生が多い。
まれに「歴史が好き」と答える子供も、どうしてと訊ねると、年号の暗記だけでテストで点がとれるからとか。。。
おいおい、ちょっとまってよ、と言いたくなります。
でも、よくよく考えてみると、確かに戦後日本の教育現場における歴史の授業は、オモシロクナイ。
なぜかというと、教科書そのものが矛盾の宝庫なのです。
歴史というのは、人々の営みです。
そして人々の営みというものは、常に連続しているものです。
たとえば、縄文時代から弥生時代への移行なんて、西暦何年に突然起こったものなどでは決してなくて、徐々に千年くらいかけて日本全国に広がった。
それを歴史年表などで、何年から、なんてやっても、ウソダロ?となる。
そういえば以前、≪世界に誇る縄文文化≫という記事で、縄文時代の日本人は狩猟採取生活をしていて、弥生時代に大陸から稲作が伝来したというのはウソだ、と書かせていただきました。
≪世界に誇る縄文文化≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-802.html
学校では、「稲作はChinaで発明され、朝鮮半島を経由して日本に渡来してきた、そのため土器が簡素なものになり、女性の服装も無地の簡素なものに変化した」などとしていますが、これもオカシイ。
普通、常識で考えて、稲作がはじまって人々の生活が豊かになったというなら、女性の服装や、装飾品、食器や炊事道具(土器)は、前の時代よりももっと豪華なものになるのが普通です。
にも関わらず、「稲作が渡来した」→「生活が豊かになった」→「服装や土器がシンプルになった」という。
子供たちの目でみても、大人が常識的に考えても、これは「変」です。
先日、このブログの読者の方(匿名にしておきますね)教えていただいたのですが、
「三国史記」には、新羅の基礎は倭人が作ったと書かれている。
「随書」には、新羅も百済も、倭国を文化大国として尊仰していた、と書かれている。
そもそも稲作文化、灌漑農業などという高集約型農法は、日本のように平野部が狭くて雨の多いところにこそ馴染みやすいものだし、詳しいことは≪世界に誇る縄文文化≫で書いたけれど、どうやら長江文明という水田栽培稲作文明は、そもそも日本が出発点であった痕跡すらあります。
稲作の灌漑農業が、すでに縄文時代に始まったいたことは遺跡で確認されているし、そうすると、もしかしたら、
「豊かな生活をする日本から稲作が半島や大陸に渡来した」→「Chinaから朝鮮半島を経由して武器を持つという文化が輸入されてきた」→「武器を持った乱暴者たちからの被害を怖れるために、服装も土器もシンプルにならざるをえなかったのが弥生時代である」なんて見方もできてしまう。
実際≪中国四千年の歴史という馬鹿げた妄想≫という記事に書きましたが、黄河文明の遺跡から発見されている人骨は、モンゴロイドのものではありません。コーカソイドのものです。
Chinaでは、黄河文明よりも二千年以上古くから栄えた長江文明(モンゴロイドの稲作文明)があったところに、突然、黄河流域に狩猟採取民族であるコーカソイドがやってきて、長江文明の村々を襲い、食べ物や女を奪った。
≪中国四千年の歴史という馬鹿げた妄想≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-815.html
長江文明も、日本の縄文文化も、どちらも「武器を持たない文化」です。
対人用の武器がない。
武器がないところに、武器を持ったおそろしい連中が襲ってくるのです。
これで長江文明は、完膚なまでに滅ぼされてしまう。
しかし、他人から武器をもって「奪う」文化よりも、自ら食料を造り出す文化の方が、人口養成力は強いです。
結局、対人用武器を持つ黄河人たちが、長江人たちを政治的、軍事的に滅ぼすけれど、人口圧力で結果として血が混じり、漢族が出来上がったとみることができます。
そしてChinaは、紀元前、春秋時代、戦国時代と、まさに血で血を洗う戦乱の時代に突入してしまう。
普通に常識的に考えて、こうした国家単位の殺し合いの前には、少数の村や集落単位での殺し合いや略奪は頻繁に起こっていたであろうし、そいう時代が長く続くことによって、Chinaでは「国」が誕生しています。
こういう毎日、殺し合いをしているとんでもない武器族の文化が、武器を持たずに平和に暮らしている日本(縄文時代)に入ってくるとどうなるか。
誰も武器をもっていないのです。
法律も警察もありません。
そんななかで、武器を独占的に持ったら・・・・
働くなくたって、食い物も女も略奪のし放題です。
そうなると、武器を持たなかった日本人たちも、武装せざるをえなくなる。
いままでは、土器ものんびりゆったり、いろいろな装飾を施して形のきれいなものを造っていたけれど、いつ襲われるかわからない、襲われればせっかく造った土器も、こん棒でたたき壊されるという時代にあっては、もはや、土器は必要最低限の機能だけの簡素なものにせざるを得なくなる。
女性の服装も、体に耳飾り、首輪、腕輪、手首の装飾品、腰まわりの装飾品など、いっぱいいっぱい装飾品をぶら下げていたのが、襲われて奪われる危険があれば、もはや、身につけることもなくなる。大事な装飾品は隠しとく。
その結果、弥生時代は、服装が簡素となり、土器も装飾性がなくなった。
このような説明なら、古代はめちゃくちゃわかりやすいのではないでしょうか。
時代が下って記紀のお話し。
記紀といえば、古事記と日本書紀です。
実は、古事記と日本書紀では、その成立年代がまるで違うことと、書き方さえもまるで違う。
まず日本書紀についていうと、これは漢文で書かれた日本の正史です。
正史というのは、官製歴史書ということで、要するに、隋や唐に向けて、日本とはこういう国です、と、漢文で語ったのが、日本書紀です。
要するに、アメリカ人に日本の歴史を説明するために、英語で歴史書を書いたようなものです。
ちなみに、日本国が、自国を「日本」と書いたのは、この日本書紀が最初といわれています。
それまでは、日本は、China語では、「倭」、日本語ならさしづめ、「和」と呼ばれています。慣用的に「wa」と呼ばれていた。
もっとも葦原の中津国、豊原の瑞穂の国なんて言い方もあります。
脱線しましたが、つまり、日本書紀において、日本は、正式に国名を「日本」としたわけです。
で、その日本書紀が、奈良、平安期を通じて、日本の歴史教科書だった。
ところが、この日本書紀を読むと、話に連続性が、ない。
歴史というのは人々の営みであり、脈々と連続しなければならないのに、どうも話が連続しない。
どうもおかしいということで、いまだに日本書紀捏造説なんてのが、巷間ウワサされていたりする。
一方、日本書紀よりも先に書かれたという古事記は、実は、江戸中期まで、何が書かれているのか、さっぱりわからない文書だった。
漢字は使っているけれど、漢文ではないのです。
誰も読めない。
それをはじめて、読み説いたのが、江戸の国学者である本居宣長で、彼は全四十四巻の註釈書「古事記伝」を著します。
日本では、現代にいたるも、いまだこの「古事記伝」をこえる注釈書が出ていないのだそうです。
そして古事記の記載は、まさに脈々とした歴史の流れが息づいている。
なぜこのようなことが起こったのでしょうか。
思うに、当時の世相をみると、半島からの渡来人たちが大挙して日本にやってきています。
要するに在日コリアンです。
彼らは仏教と僧兵と人口圧力をもって、日本の政界に食い込みます。
ちなみに、日本の古代から続く神道は、願い事は叶えません。
「好きな人と結ばれたい」と願うなら、結ばれるような人間になるようにしっかりとお祓いをして浄化しましょう、というだけです。現世利益を解かない。
お守り札などで現世利益を説くようになったのは、江戸時代にはいってからだといわれています。
これに対し、仏教は、おおもとのおしえは別として、日本への渡来仏教は、密教に代表されるように、現世利益を説く。
つまり、あの人と結ばれたいと願えば、お布施をして祈れば願いが叶うと説く。
これは生老病死に苦しむ人々にとっては、実にありがたい。
あっという間に、日本の民間にも浸透します。
そして国内に圧倒的多数の宗教的基盤をつくると、豪華なお寺を建て、そこで僧兵軍団を雇うようになります。
そして政府がなにか御触れを出すと、僧兵たちが都に繰り出して大暴れする。
豊かな財政基盤を築いた在日渡来人たちは、蘇我氏を先頭に押し立てて、朝廷の政治にまで口を出すようになります。
これに怒った中臣鎌子ら排仏派(実は保守派)が、渡来人撲滅、主権回復、在日特権を許さないぞと立ち上がったのが、蘇我氏と物部氏の戦いで、物部守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像を川に投げ入れ、寺を焼いて、三人の尼を鞭で打った。
で、戦争になり、物部氏が負けて都を追われ、森に住んでなったのが、「もののけ氏」なんて話もあるようです。
その後も、渡来系仏教派と、国粋系廃仏派との相克が続くのですが、これが遠因となって672年に起こったのが、壬申の乱です。
教科書などでは、645年、壬申の乱起こる、とたった一行ですまされているこの事件ですが、実はこれ、日本史上の大事件なのです。
なにせ武力をもって朝廷が倒されたのです。
日本の歴史で、こんなひどいことは、後にも先にもこの一回だけです。
朝廷の尊厳を考えない。こんなところにも、渡来人のニオイがプンプンとします。
蘇我氏は、朝廷に弓をひいた悪い奴だけれど、その蘇我氏が律令制度を造っている。
どうも、蘇我入鹿が、小沢○郎にダブってしかたがない(笑)
そして、大化の改新があって、律令制度が設けられ、年貢の制度ができあがる。
全国に国司と群司が置かれる。
カタチだけは、非常に完成したカタチです。
なのに、どうして武士が台頭したのでしょう?
武士は、荘園の警備兵から発展したようなことを教科書では教えるけれど、よくよく考えてみると、これはおかしい。
ビルの管理人のガードマンが、いきなり武装蜂起してビルを乗っ取る、ですか?
ありえません。
寧ろ、律令体制の中に紛れ込んだ在日半島人たちが、理不尽な取立や過度な税金を課すなどをすることにたいし、やむにやまれず武器を持って立ち上がった人たちが、武家として発展していったと考えた方が、つじつまがあいます。
朝廷の中にも、そのあたりをちゃんと理解する保守派の政治家がいて、彼らをバックアップしてくれた。結果として、武士が力をもつようになり、それらが大同団結して、東の源氏と西の平氏が構成された、という説もあるようです。
頼朝が朝廷から距離を置いた鎌倉に幕府を打ち立てようとしたのも、源氏の惣領を打倒して、実質執権の北条氏(平家一門)が鎌倉幕府を仕切っても誰も文句を言わなかったのも、要するに、在日が跋扈する京都から、距離を置いて、我が国独自の文化を打ち立てようとしたため、といえるのではないか。
頼朝が義経を切らざるを得なくなったのも、戦の達人の義経が、京で渡来系と仲良くなることで、渡来系排斥派と、渡来系友好派の対立を招いたせいといえなくはないか。
同じ保守系同志の対立の方が、よりいっそう過激になるのは、おそらく古代も今もかわらないのではないかと思うのです。
要するに、鎌倉の保守派にとって、義経は親中派に見えた。
これでは、何のために保守系武士団の平家と戦ってきたかわからない。
かくなるうえは、義経討つべし。
とまあ、日本の歴史を、渡来人と縄文時代から続く日本古来の伝統的文化を持つ者たちとの相克という視点でとらえてみると、まったく別な歴史のストーリーが見えてくるというお話です。
なんだかんだいって、大化の改新から、まだ1365年しか経っていないのです。
ひとつの世代が25歳とするならば、わずか55世代しか経っていない。
縄文時代は、はっきりと時代測定ができている土器でみて16500年、人骨ベースでみると、日本はどうやら三万年もの長い間、人が暮らし、文化を熟成してきた国です。
そうそう簡単に人々の意識なんて変わるものではない。
いやいや自分は、親とは違う、なんて言っても、年をとると、「亡くなられたオヤジさんにそっくりになりましたね」
現実に、いまのように、在日かなんかわからないけれど、日本にいて、日本人出るがゆえに健康で文化的な生活を保障されていながら、なぜか反日を生きがいにする法務大臣あたりが、平気で最高裁の判決をひっくり返したりしています。
約束を守り、伝統や文化を尊重し、互いに礼節を尽く、力を合わせて生きて行こうとするDNAを持った人と、どういうわけか、そういうことがまったく理解できない日本人がいる。
ソ連のシベリア抑留でも、ソ連の学者が「日本人としての誇りを持ち、厳しい環境の中でも自分たちの仕事をきっちりこなしていこうとする多くの日本人に対し、抑留されるや否や、ソビエト社会主義に尻尾を振り、手のひらを返したように我こそは社会主義思想の旗出であるといわんばかりの変節漢もいる。
この点は日本人という民族を考えるに際し、非常に興味深いところである」などと書いています。
もしかするとこういうあたりも、渡来系というか、在日的DNAと、縄文系DNAの相克がなせるわざなのかもしれませんね。
ちなみに誤解のないように申し添えますが、このお話は、現代を生きる在日外国人以外の日本人の、苗字がどうのとか顔立ちが弥生系だとか縄文系だとか、そういうことによる外形上のことを言っているのではありません。
長い年月の間に、渡来系も純日本人も血が混じっているのです。
わたしたち日本人の中には、だれしもが、自分の中に両方の遺伝子を持っているのかもしれない。
ですから、口に苦いことですが、私たち日本人の中には、みんな純粋に日本的もしくは縄文的な「和」を大切にする心と、渡来系の「欲」の両方の遺伝子があるのかもしれないのです。
過ぎた昔のことをとやかく言ってもはじまりません。
そんなことより、和を大切にする日本の心を失わず、わたしたちいまをいきる日本人全員が、素晴らしい日本の心の伝承者でありつづけてていくことの方が、もっともっと大切なことなのではないかと思います。
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姫神: 縄文海流~風の縄文Ⅲ~ 縄文人と縄文語 "Lived with nature"

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