
天空の城ラピュタといえば、おなじみの宮崎アニメです。
昭和61(1986)年8月に公開されて大人気となりました。
この映画に登場する天空の城ラピュタは、空に浮かぶ要塞都市で、いまは廃墟となっています。
もちろん空想上の都市です。
そのラピュタが日本にあって、しかも海に浮かんでいる、といったら驚かれますでしょうか。
その都市の名は、通称を軍艦島といいます。
正式な名は、端島(はしま)です。
端島は、長崎県長崎市にある島です。
かつて海底炭鉱で栄え、島の人口密度は83600人/km2と世界一。
まだ木造住宅ばかりだった大正時代に、日本で最初の高層マンションが建設され、建物の屋上には、庭園と幼稚園、島の端には同じく高層住宅式の小学校や、近代的体育館などが整備されていました。
そしてその外観が、日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから、通称「軍艦島」と呼ばれています。

島の大きさは、南北に約480メートル、東西に約160メートルのほぼ長方形のような形で、島の面積は、わずか6.3ヘクタール。
島を一周したときの海岸線の全長が約1200メートルといいますから、都会なら1ブロック程度の広さです。
その小さな島に、最盛期には、なんと5,267人の人が暮らしていました。
島には、ビルの屋上を利用した緑化庭園や幼稚園、鉄筋コンクリート7階建ての小中学校、スーパー、映画館、料理屋、飲食店、娯楽場、病院などがありました。
なかでも大正5年に建築された鉄筋コンクリートの高層集合住宅は、まだ日本の建築物が木造だった時代に登場した、日本初の高級高層マンションとして、日本の近代建築史上特筆に値する重要な文化的遺構です。
なぜ、この島にこれだけの人が暮らしていたかというと、実はここに海底炭鉱があったのです。
かつて石炭といえば、国家の資源エネルギーの中心をなしていました。
石炭産業は国家の柱とさえいわれた。
しかし、資源エネルギーの中心が石炭から石油に代わり、昭和49(1974)年に炭鉱は閉山。
端島は無人島となります。
そして、いまは誰もいない廃墟となっている。

廃坑になったかつての石炭鉱山は、日本中、いろいろなところにあります。
しかし端島が、他の鉱山と決定的に違うのは、そこにある住居跡が、昭和49(1974)年4月20日で、時間がぴったりと止まっているという点です。
島には、当時の生活の様子が、そのまま残されている。
人々は、いつかは島に帰ってくる日も来るだろうと、部屋も家財もそのままにこの島を後にした。
そして、島はそのまま36年間、放置された。

建物は、長い時間の経過とともに風化し、窓は破れ、木造の住居は崩れ、家財や什器は錆びて崩壊した。

戦後の日本を考えてみるとき、いつも思うことなのですが、私たちの戦後は、いったいなんだったのだろうか、ということです。
日本は、先の大戦でまさに焼け野原になりました。
艦砲射撃で家は焼も財産も、みんな焼かれてしまった。
しかし、何もかも失った日本は、戦後またたく間に復興を遂げ、昭和31(1956)年には、東海道本線が全線電化となり、昭和37(1962)年には首都高羽田線が開通、昭和39年には東京降りんピンクが開催され、東海道新幹線が開通しています。
いや考えてみると、戦前はたった13年で、満洲のなにもなかった大地に、日本は忽然と東洋のパリと謳われるほどの超近代都市を誕生させています。
さらに昭和40年代、50年代と日本はまさに高度成長を遂げ、終戦の頃には世界の最貧国状態だったのが、昭和の終わりごろにはなんと世界第二位の経済大国にまでなってしまった。
すごいことです。
しかし、よくよく考えてみると、そうした社会の復興や成長、あるいは新しい未来社会の構築や経済の高度成長を担ったのは、戦前の教育を受けてきた人たちではなかったか。
たしかに働いたのは、わたしたち戦後生まれの世代も同じです。
しかし、それは社会の、いわば下っ端として働いていたのであって、社会の構造を変革し、日本の復興を責任もって実現してきたのは、間違いなく戦前の教育を受けてきた人たちだった。
そして、そういう戦前の教育を受けてきた世代が完全に引退し、戦後教育を受けてきた私たちの世代になって、最初にやったのが、バブル経済です。
バブル経済というのは、簡単にいってしまえば、すでに蓄積された富の投機です。
あたりまえのことです。元手がなければバブルは起きない。
そしてあっという間に、バブルを崩壊させ、あれから20年。
いまだに日本経済は、先の見通しも立たず、経済は失速。新たな国家の建設の矛先さえみえず、いまや、購買力平価でみたひとりあたりのGDPは、IMFの試算で世界第24位です。
香港やオーストリア、カナダ、デンマーク、フィンランドなどよりはるかに劣り、台湾とほとんど変わらないところまで落ち込んでいる。
戦争が終わってボクらは生まれた。
戦争を知らずにボクらは育った。
大人になって歩き始める、
平和の歌を口ずさみながら。
これは、フォークソングの「戦争を知らない子どもたち」の歌詞だけれど、なるほどその通り「平和の歌を口ずさみながら」、結果、われわれ戦後世代というものは、戦前世代、戦中世代が築いてくれた富と社会に、結果として、ただ甘え、安住し、わがままを言っていただけなのではないのか。
わたしたちが小学生の頃、未来はバラ色だった。
大人になったら何になる?
先生の質問に、子どもたちは目を輝かせて、「○○になりたぁ~~い」とやったものです。
手塚治虫の描く21世紀の未来社会は、まさに夢の未来都市そのものだった。
しかし、現実に、わたしたちが社会の中心となって築いた平成の世の中は、いったどうなのか。
人々の所得は下がり、安売り店に殺到し、政治も家庭も未来などまるで考えず、自分だけの贅沢といまある、もはや残りカスのようになった富の配分をめぐってあい争うだけのなさけない社会になりさがっている。
その結果は、どうなるのか。
上に示した軍艦島の廃墟は、もしかすると、このまま進んだ先の、日本の大都市の姿そのものなのかもしれないのです。
日本は、子や孫を可愛がり、子や孫の未来を、大人たちが大切に守り育む社会だったのです。
そういう大人たちだから、子供たちは大人たちの言うことを聞いたし、大人たちも責任をもって子どもたちの未来を守った。
そのためには、命すら捧げた。
そうやって、守り育んでいただいた日本を、われわれの世代は、いったいどうしたのだろうか。
いまのままで、ほんとうに子どもたちの未来を守ることができるのだろうか。
このままでは日本は廃墟となってしまうのではないだろうか。
私たちは、いま、とても大切な歴史の転換点に差し掛かっているのではないでしょうか。
↓クリックを↓

