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第六潜水艇
佐久間艦長と第六潜水艇

人って、いざというときに取り乱したりすることがあります。
ご紹介するお話は、まだ造船技術が発展途上だった明治時代に起こった潜水艇の事故のお話です。
深い海の底で、艇長と乗組員は、持ち場を離れずに、従容として死を迎えた。
酸素がなくなり、有毒ガスが充満し、死を待つのみとなった極限状況の中で、その事故がこれからの日本の潜水艇造船技術の開発に役立つよう、克明に経緯のメモに残した艦長がいました。
そしてその艦長は、それぞれの部署で責任を全うする乗組員ひとりひとりのご家族への特別の配慮を願い出る。
死に直面した中で、冷静沈着にやるべきことをする。
そういう強い精神力を持った人が、この日本にいました。
明治四十三(1910)年四月十五日のことです。
第六潜水艇【せんすいてい】と呼ばれる小型潜水艇が、ガソリン潜航実験の訓練などを行うため山口県の岩国を出航して、広島湾へ向かいます。
ガソリン潜航というのは、ガソリンエンジンの通風筒の先だけを海面上に突き出して、ガソリン機関によって水上走航に近い速度を得ようとするものです。
原理的には、シュノーケルで潜水するものに近い。
水中潜航の場合は、通風筒のバルブを閉じ、蓄電池による電動機により推進します。
当時、日本は九隻の潜水艇を保有していました。
そのうちの七隻は欧米製。
第六潜水艇は、国産の初の潜水艦でした。
まだまだ性能も操作性も貧弱で、技術開発の途上の潜水艦です。
第六潜水艇は、午前十時ごろから訓練を開始しました。
ところが十時四十五分ごろ、何らかの理由で通風筒の長さ以上に艇体が潜航してしまいます。
このため、艦内に海水が浸水。
乗組員はすぐに、浸水を防ぐための閉鎖機構を操作します。
ところが、肝心の閉鎖機構が、故障を起こしてしまいます。
乗組員は、必死になって手動で閉鎖しようと努力します。
しかし、第六潜水艇は、十七メートルの海底に着底してしまう。
付近にいた監視船は、長時間たっても浮上しないことに気づき、ただちに広島県の呉港に在泊の艦船に「遭難」の報告をします。
救援の艦船が駆けつける。
必死の捜索の後、ようやく船を見つけたけれど、そのときは、艇長の佐久間勉大尉以下、乗組員十四人の死亡が確認されていました。
実はこの事故より先に、イタリア海軍で似たような事故がありました。
このときイタリア潜水艇では、乗組員が脱出用のハッチ(昇降口扉)に折り重なり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいました。
ふつう、危機に直面するほど、周章狼狽【しゅうしょうろうばい】して、本性が現れる。
それは、やむをえないことといえます。
誰だって死にたくない。
当時はまだ潜水艇の造船技術が低く、世界各地でこうした悼【いた】ましい事故が起こっていました。
そして、直近のイタリア海軍の事故の模様は、全世界に知られていた。
「佐久間艇長以下の乗組員も醜態をさらしてしまっているのではないか」
帝国海軍関係者一同は、固唾【かたず】を呑んで潜水艇のハッチを開け、艦内の調査を行ないます。
そして乗組員が発見される。
乗員十四名のうち十二名は、艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹【へいそう】はガソリン機関の前に、舵手【だしゅ】は舵席に、空気手は圧搾管【あっさくかん】の前にと、それぞれ全員、持ち場に就いたままの姿で亡くなっていました。
「よくやった。世界に醜態をさらさずにすんだ」
ところが、二名がいません。
「どこだっ!」
二人は、本来の部署にはいませんでした。
二人がいたところは、ガソリンパイプの破損場所でした。
彼ら二人は、最後の最後まで、懸命に破損の修理に尽力したのです。
そして、その姿のままで亡くなっていた。
引き上げられた六号艇を検分した一同は、死に至るまで職務に忠実であった様を見て、帝国海軍軍人として正にふさわしい死に方をしたと号泣しました。
この事件は世界中に、日本人の責任感と勇敢さを示したものとして、伝えられました。
イギリスの新聞グローブ紙は、
「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上も、また勇敢であるということを証明している。
今も昔もこのようなことは前例がない」
と賛辞の声を惜しみませんでした。
各国の駐在武官も、詳細な報告を本国に伝え、わが国の海軍省をおとずれ弔意を表明しました。
それは通常の外交儀礼を超えたものでした。
明治天皇からは、遺族に見舞金が届けられました。これは特別の計らいです。
当時の朝日新聞によって、全国から寄せられたた義援金は、現在の貨幣価値なら億単位となる五万六千円にも達しました。
反戦平和の歌人といわれた与謝野晶子も、次のように追悼の歌を詠んでいます。
 海底の
 水の明かりに したためし
 永き別れの
 ますら男の文
またこのお話は、「やるべきことを最後まで成し遂げる」「職務を全うする」ということで、戦前の小学校の修身の教科書に取り上げられます。
残念なことに、いまの日本の教科書にはまったく取り上げられていませんが。
 
この事故で亡くなられた佐久間艇長は、空気が乏しくなり、薄れゆく意識の中で、死の直前まで手帳に書き続けたメモを残していました。
一頁に三行から五行、全文三十九頁に及ぶものです。
苦しい息の中で、文字は正確、文章は簡潔明瞭でした。
このメモの写しは、当時、アメリカ合衆国議会議事堂の、ワシントンの独立宣言書が陳列されている大広間に、英訳を添えて丁重に陳列されたりもしました。
佐久間勉艇長のメモの一部
佐久間勉艇長のメモ

以下、そのメモを口語訳して掲載します。
~~~~~~~~~~~~
■私の不注意によって陛下の艇を沈め、部下を殺すこと、誠に申し訳ありません。
■乗員一同、死に至るまで、皆よくその職を守り、沈着に事を処置しました。
■私たちは、国家のため職に倒れ、死にます。
しかし、ただただ、私たちが遺憾とするところは、私たちのこの誤りが、将来、天下の士の潜水艇の発展に打撃をあたえはしないだろうか、にあります。
■願わくば諸君、益々勉励もってこの誤解なく、将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を。
■さすれば我れら、ひとつも遺憾とするところはありません。
(中略)
■浸水のため、乗員たちの衣が濡れ、寒冷を感じた。
■私は、「常に潜水艇員は、沈着細心の注意を要する。
大胆に行動せざれば、その発展を望むべからず。細心の余り畏縮するな」と戒めた。
■世の中の人は、この失敗をあるいは嘲笑するかもしれない。しかし、私は前言の誤りのないことを確信しています。
~~~~~~~~~~~~~~
メモではまず、艇を沈め、部下を死なせることを詫び、乗組員全員が職分を守ったことを述べています。
当時はまだ、わが国の造船技術は低かったので、佐久間艇長は、この事故で研究や技術開発が遅れることを心配し、逆に益々進むことを願っているのです。
そして、上の文の(中略)のところで、艇内の様子、各機器の状況などを詳細に記しています。
専門用語が並ぶので、ここでは中略としたのでが、佐久間艇長は、薄れていく意識と闇、悪ガスが充満し、体が冷え、手が震える状況の中で、事故の原因、対処した事項、刻々と進む艇内の状況を仔細に報告しています。
次に「公遺言」と明記し、次の文章を書いています。
~~~~~~~~~~~~~
謹んで陛下に申します。わが部下の遺族をして、窮する者のないよう、お取りはからいください。
私の念頭にあるのは、これあるのみです。
当時は事故に対する補償金などの支払いの制度はありませんでした。
自分が息を引き取ろうとする間際において、部下たちの勇気と冷静沈着な行動に対して、その遺族に暖かな手を差しのべて欲しいと願い出ているのです。
最後に次のように恩人へのお礼を述べます。
以下の諸君によろしく(順序不順)
斎藤大臣、島村中將、藤井中將、名和中將、山下少將一、成田少將
(気圧高まり、鼓膜が破られるような感じがある) 
小栗大佐、井手大佐、松村中佐、松村大佐、
松村小佐(自分の兄です)
船越大佐、成田綱太郎先生、生田小金次先生
十二時三十分、呼吸、非常にくるしい。ガソリンをブローアウトしたつもりだけれども、ガソリンに酔うた。
中野大佐
十二時四十分なり・・・
~~~~~~~~~~~~~
佐久間艇長のメモは、ここで終わっています。
艇長は、このあと、息絶えました。
佐久間艦長は、ひとりひとり世話になった恩人に別れを告げています。
学校で教わった先生にも、よろしくと伝えています。
佐久間勉艇長
佐久間勉大尉

戦前の子どもたちは、修身の時間に、佐久間艇長のお話を通じて、職務を全うすること、責任を果たすこと、部下を思いやることの大事さを学びました。
子どもたちは、わが国の素晴らしい先人達の行動から、生きていくための人として備えなければならない徳目を勉強しました。
そういう教育を、わたしたちはもう一度、取り戻さなければならないと思いますが、みなさん、いかがでしょうか。
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