
平安時代のことです。
突然、壱岐に、50余隻の船がやってきます。
ひとつの船はだいたい15Mくらい。その船に約60人ずつ分乗し、島に上陸します。
寛仁3(1019)年)3月27日のことです。
上陸した彼らは、百人くらいで一隊をつくり、戦闘の20~30人が斬り込み隊、後ろの70~80人が弓や盾を持っています。
彼らの持っていた矢は、長さ4~50cmと短いもので、楯も射通すほどの貫通力があった。
彼らは、上陸と同時に民家に襲いかかる。
そして牛馬を盗み、切り殺して食い、老人や子供たち、抵抗する男を殺し、女を犯し、生き残った者たちを船に拉致した。
記録によれば、彼らは「牛馬を切っては食い、また犬を屠殺してむさぼり食らう」とされ、また「人を食う」との証言もあります。
船上では、拉致された者たちの中から、病人や児童は簀巻きにして海に投げ入れて殺した。
略奪後の民家はすべて焼き払い、穀物も奪った。
暴徒上陸の知らせを受けた国司・壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて征伐に向かいます。
しかし敵は3000人の大部隊です。
衆寡敵せず、玉砕してしまう。
理忠を打ち破った賊徒は、次に壱岐の真ん中にある、国分寺(嶋分寺)まで攻め込みます。
寺は、常覚和尚(じょうかくおしょう)の指揮の元、僧侶と地元住民で応戦します。
そして賊徒を三回まで撃退した。
しかし賊徒の猛攻をあきらめない。
常覚は、ひとり島を脱出し、事の次第を大宰府に報告に向かいます。
残された僧侶たちは必死に戦った。
そして最後には全滅し、嶋分寺は全焼させられてしまう。
そして、女子239人、男子若干名が捕虜として連れ去られてしまいます。
壱岐島で生き残った者は、わずか35人だけだった。
4月7日、対馬からも大宰府に対馬の危急を知らせが届きます。
対馬守遠晴の報告は以下のとおりです。
~~~~~~~~~~
対馬に刀伊国の者が五十隻あまりの船でやってきた。
彼らはて殺人・放火をはじめた。
彼らは隼のように迅速で、数が多く、とても対抗できない。
壱岐は壱岐守理忠が殺害され、ほとんど全滅状態した。
彼らは博多警固所と目と鼻のさきの能古島まできています。
~~~~~~~~~~
知らせを受けた大宰権帥の藤原隆家は、すぐに京都に緊急事態を伝える飛駅便を飛ばすとともに、応戦のために九州の豪族や武士非常招集をかけます。
しかし翌8日には、族が筑前・怡土郡(福岡県西部)に上陸する。
彼らは山野を制圧し、牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたうえ、おびえる男女を追いかけて、4~500名を捕らえて船にのせてしまいます。
また、かず知れない米穀類が略奪された。
この時点で戦力の不足した藤原隆家は、少数の精鋭を率いて、個別撃破を狙い、敵の不意をつく戦法で応戦します。
大宰府の正規軍の前に、賊は崩れる。
賊たちは、この日の夕方には海に逃れ、能古島に去ります。
翌9日の朝、刀伊は、藤原隆家軍の本拠である大宰府警固所を焼こうと来襲します。
しかし武装を整えた正規兵を前に、逆に刀伊の側が追い詰められ、生き残った者は、再び能古島に帰還した。
そして神風が吹きます。
10日、波風が強くなり、船が足止めとなった。
族たちは身動きできない。
この隙に、隆家は、軍勢を揃えます。
11日午前6時頃、族が、再び大宰府に上陸してきます。
隆家は、上陸した賊を皆殺しにし、敵の生き残り二人を逮捕します。
一人は傷つき一人は女です。
13日、賊徒は肥前国松浦郡に至り、村里に攻めてきます。
ここでは、前肥前介・源知という武将が待ち構え、族を殲滅します。
敵の生存者一人を逮捕。
ついに賊は、恐れをなして、半島に帰国します。
帰国途中、高麗がこれを待ち伏せ、戦力の減った残りの賊を全滅させ、日本人捕虜270人を助けて、日本に送り返しています。
当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からなかった。
逮捕した三人の族は、三人とも高麗人です。
彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てた。
それがほんとうかどうかは、わかりません。
古来、捕まると嘘八百並べるのは、半島人の特徴です。
この事件で、被害は、記録されただけでも、殺害された者365名、拉致された者1289名、牛馬380匹、家屋45棟以上が焼かれています。
とくに女子供の被害が目立っていた。
ちなみに、拉致された1289名のうち、高麗によって保護され、帰国できたのは270名です。残りの千余名は、船上で殺されている。
犯人たちの族は、刀伊(とい)と呼ばれました。
彼らは、自分達で農耕をする習慣は持たず、他国を襲い、人間を拉致して農業をさせていた集団であったといわれています。
刀伊は、女真族であるという説もあるけれど、ボクはそれは違うと思う。
彼らの戦い方は、女真族のものではない。
むしろ、自分たちが圧倒的多数で武器を持つときは、ありとあらゆる暴虐の限りを尽くし、相手が武具を整えてすこしでも強いとみるや、そくさくと退散するというのは、古来変わらぬChineseやKoreanのあさましい姿です。
この時代の朝鮮半島は、統一された王朝があったわけではなく、たまたま高麗国が大きな勢力を持っていたにすぎません。
むしろ、日本の戦国時代に似て、地方ごとに群雄割拠に近い状態だった。
ただ、日本と異なるのは、日本には皇室があって、地方を治める者たちはご皇室と皆、縁続きであったこと。完全にどこの馬の骨ともわからない者が武将となるのは、ずっと後年、国内が乱れた戦国時代の斎藤道三と木下藤吉郎くらいなものです。
あとは、家系図を見る限り、ほぼすべての武将がご皇室と縁者になっている。
一方、半島や大陸には、日本における皇室のような存在はありません。
また四季のある日本と異なり、火を得るためにいったん山々の木を伐採すると、とうぶん木が生育しなくなる半島では、食うためには盗賊専門の集団が国を作って勢を張るというのは、ごく普通に行われた。
そして相手が弱く、抵抗しないとみるや、あらゆる理屈を無視して奪い、犯し、暴虐をふるう。
そうした民族的傾向というのは、近代になってもなんら変わりません。
戦後間もないころ、満洲や朝鮮から日本人の多くが引き揚げてきたけれど、なぜか満洲には日本人残留孤児がいるけれど、朝鮮にはそれがいない。
全員が殺された。
いま、その朝鮮人が、日本の領土である竹島を蹂躙しています。
竹島といえば、岩山が2つ連なっている小さな無人島と思っている方が多いと思うけれど、最近の竹島は違います。

島にはヘリポートが作られ、灯台や宿泊施設が建ち、50人ほどの韓国海上警備兵が駐屯している。
事実上の武力制圧です。
韓国は、日本で民主党が政権をとったら、とつぜんヘリポートの改修をはじめると言いだしました。
日本はいつまでこういう傍若無人を許しておくのでしょうか。
壱岐・対馬・筑前の一般民衆が殺され、略奪され、拉致されたとき、日本は勇敢に戦ってこれを防いだ。
彼らは、こちらが毅然として臨めば引っ込むのです。
↓クリックを↓
日本の心を伝える会では、いま会員の募集をしています。
登録無料!! ご入会は、
①ハンドルネーム
②お住まいの都道府県
③メールアドレス
の3つを書いて、assist@nippon-kokoro.com にメールするだけ。
ご入会受付後、メーリングリストへの招待メールをお送りいたします。
この機会に、あなたも是非、どうぞ^^♪


