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江崎邦助巡査
江崎邦助巡査

以前、「4日間の恩義を100年経っても忘れない日本」という記事で、コレラに感染した患者を背負い、自身も感染して亡くなった警神、増田敬太郎巡査をご紹介させていただきました。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-603.html
増田巡査の事件があったのは、明治28(1895)年のことですが、実はコレラは幕末から明治にかけて大流行した伝染病で、明治12(1879)年、明治19(1886)年にも猛威をふるっています。
コレラというのは、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症です。
潜伏期間は2~3日で、早ければ数時間で、突然お腹がごろごろ鳴って水のような下痢がはじまり、1日に20~30回もトイレに駆け込むことになります。
そして体温が34度台にも下がり、下痢による急速な脱水症状が出て、血圧が低下、筋肉が痙攣し、体は虚脱状態となって死亡します。
死亡時、極度の脱水によって皮膚が乾燥して、顔じゅうしわだらけの老人様の顔になります。
致死率は、75~80%にも及びます。
(ちなみに現在は、適切な対処を行なえば死亡率は1~2パーセントになります。)
さてそのコレラが大流行したときの事件を2つご紹介します。
どちらも三河(愛知県)豊橋市のお話です。
明治12(1879)年8月9日付けの「多聞山日別雑記」に、次のような記載があります。
「コレラ病流行。下地舟町辺コロコロ死スル者有」
人々は感染をおそれて、病死者に触れることを嫌います。
そりゃそうです。誰だって死にたくない。
なので、町中の人がコロコロ亡くなっているのに、ご遺体の運搬もできない。
片づけられない。これではますます危険です。
町の用係であった大口喜六という人が、運搬役を募るのですが、誰も応じません。
そのとき、町内の嫌われ者であった暴れん坊の小原竹五郎が立ち上がります。
結局竹五郎は、コレラに感染して命を落としてしまうのだけれど、その当時の模様を、大口喜六の子で、衆議院議員や豊橋市長を歴任した大口喜六氏が書き残していますのでご紹介します。
(文語なので、ねずきちが口語に訳しています)
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「小原竹五郎」
明治十二年の夏のことです。
私の郷里の豊橋に、コレラが流行しました。
私の住所である船町にも数名の患者が出ます。
しかし、伝染力が強いので、誰も遺体の運搬をしてくれません。
当時、私の父は、町の用係を勤めていたのですが、その頃の用係は、後の戸長に相当するもので、町内のあらゆる世話を行っていました。
その頃、町に小原竹五郎という者がいました。
竹五郎は、いつも酒を飲んでは暴れまくる乱暴者です。
町の人たちは、彼のことを「オボ竹」と言って、たいそう嫌っていました。
その竹五郎が、この非常事態に際して、父の勧誘に応じて決然と立ちあがり、進んで遺体の運搬夫の役を買って出てくれました。
彼の動作は勇敢で、見るものをして驚嘆させました。
しかし竹五郎は、ついに自分もコレラに感染してしまいます。
初代渥美郡長だった中村道太氏は、当時はまだ豊橋にお住まいだったのだけれど、深く竹五郎の侠気に感じ、自ら竹五郎を病床にお見舞いされた。
私の父もしばしば石塚の庚申堂の一隅にあった竹五郎の床を見舞ったのですが、その甲斐なく、竹五郎はついに還らぬ人となります。
竹五郎の死後、明治15(1898)年6月20日に、竹五郎の墓が建設されます。
このとき中村氏は、自ら筆を揮って、その墓標に
「奇特者小原竹五郎之墓」と大書されました。
それは幅40cm、高さ1m50cmくらいの石柱なのですが、その側面には碑文が刻まれ、今猶ほ龍拈寺の墓地内に現存しています。
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どんなに大酒のみの暴れん坊でも、いざとなったら町の人たちのために一肌もふた肌も脱ぐ。
そしてそのことを地域の総主がちゃんと慈しむ。
先日、出光興産の初代社長、出光佐三氏の「大家族主義」の記事を書きましたが(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-827.html)、当時の日本では、竹五郎のお話などを読むと、当時の日本は、地域もひとつの「家族」という意識にあったということがよくわかります。
さて時は変わって、明治19(1886)年のことです。
この年、江崎邦助(えざきくにすけ)という巡査が、豊橋警察署田原分署(現田原警察署)勤務を命ぜられ、転勤してきます。
江崎邦助は、文久元(1861)年の生まれですから、このとき25歳。
三重県鳥羽市の生まれで、長じて愛知県警に就職し、明治19年には、19歳の妻「じう」と結婚しています。
いわば新婚ホヤホヤです。
そしてこの年、大阪で発生した伝染病のコレラは、またたくまに広がって、6月には愛知県全域にまで多数の死者を出すようになった。
そんなある日のこと、分署長の命令で、奥郡(現田原市渥美、赤羽根一帯)を巡察していたしていた邦助は、「堀切村でコレラが発生した」との情報を聞きつけます。
これはたいへんなことです。
邦助は、すぐに医師を連れて現場に向かいます。
医師の見立てにより、真性コレラであることが確認される。
菌を退治するために、すぐに消毒をしなければなりません。
すると村人たちは、消毒などとんでもないことだという。
村の恥さらしだというのです。
邦助は、医者とともに、村人たちを懸命に説得します。
一時は石を投げつけられた。鎌を向けられた。
三日三晩、眠らずに説得を続けた結果、ようやく村人の協力を得て、村中の消毒が行われます。
ようやく消毒を済ませた邦助は、この事を署に報告するため、急いで堀切村を出発します。
しかしこのとき、邦助もコレラにかかっていたのです。
そして若見村(現田原市赤羽根町若見)まで来たときには、もう一歩も歩けなくなってしまう。
一緒にいた医師が、人力車を呼んでくれ、帰路を急いだけれど、加治村(現田原市田原町加治)まで着いた頃には、もはや人力車に乗っていることさえままならい状態になっていた。
なかった。この時邦助は初めて自分がコレラにかかった事を自覚した。
勤務を命じられる。
邦助は人力車を降り、近くの林に身を置きます。
しばらくすると、役場の職員や妻の「じう」も現場に到着した。
邦助は、こう言ったそうです。
「自分が田原の街に入ったら大勢の人にコレラにうつってしまう。
だから、もう署には帰れねえ」
そして
「きみたちは、私に近づくな。私に近づくとコレラに感染する」と、人を近寄らせなかった。
しばらくして、医師や仲間の警察官が到着します。
それでも邦助の態度は変わらない。
仕方なく、みんなでまわりを囲むようにして、邦助を近くの小屋に運び入れます。
妻「じう」は、
「私がしっかり看病します。そして、きっと近いうちに、夫の元気な姿をお目にかけます」と言って、小屋の中に入って行った。
じうは、ひとりで必死に夫・邦助の看病をします。
翌日、邦助は、ついに還らぬ人となります。
そして「じう」も、邦助の後を追うように、19歳の命を閉じた。
邦助が林に残ったことで、田原の町では、コレラの罹患を最小限に抑えることができた。
邦助が殉職した稲場を校区に持つ田原市立衣笠小学校では、いまでも毎年11月の学芸会で、六年生が「江崎巡査物語」を演じているそうです。
江崎邦助が、村人の説得などせずに、さっさと「報告」のためと称して田原の町に帰っていたら、もしかしたら死なずに済んだのかもしれません。
新婚ホヤホヤの若い巡査です。
そうしたとしても、おそらくは誰も責めはしなかったでしょう。
しかし彼は、警察官として、村人の消毒の説得のために、三日三晩も村に留まり、多くの村人の命を助け、自らの命を犠牲にした。
そして妻じうも、結婚したての夫のために、必死の看病をして、この世を去った。
職務のために、そして多くの人々のために、自らの身命をかえりみず。
いまではすっかり死語になってしまった「不自惜身命」の心が、この時代の日本には、確かにあった。こんなすごいやつらがいた。
そのことを、わたしたちはもう一度思い返して、日本再生の道を考えていきたいと思います。
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