
以前、このブログで、実は「悪代官はまじめ人間だった」というお話を紹介させていただきました。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-658.html
年貢米を規程通りにとりたてるお代官様が、いわゆる「悪代官」と呼ばれた人で、良い代官というのは、年貢米の取り立てに際して「お目こぼし」をして、年貢を規程以下の分しかとりたてをしなかった人が「良い代官」というお話です。
その年貢ですが、よく言われる話が江戸時代の農民は、「六公四民」とか「五公五民」という過酷な年貢の取り立てを受けていて、相次ぐ自然災害と凶作、飢饉で貧困にあえいでいた、とよく言われます。
教科書などでは、そのために農民は、むしろ旗を押し立てて百姓一揆や打ちこわしをしていたと書いてある。
こうした記述によって、なんとなく現代人は、江戸時代の農民=いつでも死にそうなほど貧困にあえいでいた人々という極端な印象を持っている。
しかし、よくよく考えてみると、これはおかしな話です。
江戸時代の農民は、人口の八割です。
武家が一割、残りが商人と職人です(士農工商)。
農民の収穫の六割もの年貢を搾取していたとするなら、人口の2割に過ぎない非農民が、六割の米を食べていたことになる。
人間の胃袋の大きさなんて、農民も武家もそうそうかわりがあるものではありません。
六割の米を取り立てて、輸出でもしていたというなら、話は別ですが、江戸時代は鎖国です。米の輸出もありません。
そうなると、米は大量に剰ってしまうことになります。
加えて、多くの武家は借金もぐれです。
話が「???」です。
本当に、当時の農民は貧困だったのでしょうか。
なるほど農業は自然を相手にしますから、凶作が続けば食糧難にもみまわます。
代表的なものが、享保、天明、天保の三大飢饉です。
このときは、一揆や打ちこわしがあった。これは事実です。
いまでも台風などの天災による被害で、農業生産物が大被害を被るときがある。
そういうときのために、平素から米を備蓄するのですが、それにしても毎年六割もの米では、剰りすぎです。
年貢のもとになるのは、言うまでもなく「検地」です。
検地台帳は、耕地の広さはもちろん、土地の質、陽当たりの善し悪しなどまで克明に記録され、一定区画の土地からどれだけの収穫が見込めるかが算出されています。
「検地」に基づいて年貢(税)が取り立てられます。
当然、この「検地」は、毎年調査されていると思いきや、なんと江戸270年を平均して、ひとつの村につき「2回」しか行われていない。
しかも新田開発したところは、開発時点で「検地」が行われているけれど、たとえば幕府直轄地などは、豊臣秀吉の「太閤検地」以来、検地は行われていません。
これがどういうことかというと、今でいうなら、「会計監査」が270年間、まったく行われなかったということです。
平和だった江戸時代に、農業技術は非常な進歩を遂げ、江戸中期以降の1ヘクタールあたりの米の収穫量は、いまとほとんど変わりがないところまで進歩しています。
それだけでなく、養蚕や、小麦、大豆、大根などの他の生産物の収穫も、進んだ。
いまでいったら、明治初期の税率で、いまの所得を計るようなものです。
太閤検地の頃に定めた納税額で、いまの税金を納める。
となれば、実際には、脱税のし放題です。
まじめなお代官は、これではいかんと検地を再施行しようとします。
すると農民は既得権を侵害されることになるから力一杯抵抗する。
まじめなお代官を「悪代官」と呼んでそしる。
お代官は、派遣された官僚ですから、民から不評が出ると、更迭の対象となる。
こうしてまじめなお代官(悪代官)がいなくなると、民ははたまた脱税のし放題となる、というわけです。
おかげで、江戸期の農村は、所得水準・教育水準とも非常に高く、農民出身の学者もたくさん出現しているし、武芸に秀でる者もいた。
それだけ、経済的に余裕があったのです。
新撰組の近藤勇も、土方歳三も、沖田総司も、百姓の出ですが、武家以上に剣術に励めるだけの経済力があった。
もちろん、現代に較べて豊かであったかどうかは別問題です。
凶作が続けば餓死者も出るし、当時の住居にエアコンが完備してたわけではないです。
しかし、江戸初期には入口は「むしろ」だった農家も、江戸中期にはちゃんとした扉ができ、多くの農家が家内で養蚕ができるほどの大きな家を建てていた。
そしてもうひとつ大事なことは、年貢は「土地にかかる税」であって、人にかかる税ではない、ということです。
どういうことかというと、年貢を払うは、自分の土地を持って農業を営んでいる自作農以上の農民であり、圧倒的多数いた小作農ではない。
地主から土地を借りて耕作している小作人は、地主に小作料を納めるのであって、彼らに年貢を治める義務はなかった。
小作人というのは、今でいったら歩合制の従業員です。
自作農は、小作人に土地を貸している地主、つまり経営者です。
そして実際には、江戸時代の農民一揆や打ちこわしは、領主や代官と農民の間の紛争ではなく、地主と小作人との間に持ち上がっていた場合の方が多い。
要するに、いまで言ったら、企業内のストライキのようなものです。
さらに、水呑百姓というのは、実質的には、地主に雇われて耕作をする季節労働者です。
これを教科書などでは、最下層の貧民のように扱っているけれど、ところがどっこい、水呑百姓には、相当裕福な者もいた。
実は、水呑百姓というのは、今でいったら、パートさんです。
別に本業を持って、アルバイトとして農作業を手伝っていた人たちです。
要するに、ただ、自分の土地を持っていないというだけで、江戸期の制度では水呑百姓に分類されているけれど、実際には、商工業者や武家の次男坊や三男坊が、農家の手伝いをし、給金を稼いでいた。
当然、水呑百姓も、年貢の納税義務は持っていません。
さらにいえば、自作農というのは、土地持ち農民であり、生産手段と労働力を自前で持っている人々です。
マルクス主義でいうなら、ヨーロッパでいう「ブルジョワジー」、つまり地主支配層に分類されるべき存在であり、人口的に圧倒的に多かった小作人や水呑百姓からみれば、かれらこそが「領主さま」そのものだったといえます。
「農民は生かさず殺さず」とか、「農民とゴマの油は絞れば絞るほど良く取れる」などという言葉だけが独り歩きし、江戸期の農民が恒常的に極度に困窮していたようなイメージ、印象操作がされていますが、要するにそれらは反日左翼のプロパガンタにすぎません。
六公四民、五公五民、四公六民などなど、いかにも厳しい税率だったようにいわれる江戸時代ですが、最近の研究では、どうやら、当時の実際の税率はおおむね10%程度であったと言われています。
そうなると、国富の九割を農民が、残りの一割を、武家が受取り、商人は農業生産物の流通で儲け、職人はそれぞれの階層の利益の一部から所得を得ていたことになり、鎖国経済の日本の姿が、自然と納得できるものとなります。
さらにいうと、新規に開発された新田などでは、課税されない場所も多かった。
おかげで、農村にも和算(日本の数学)をはじめ読み書きソロバンといった基礎教育が普及し、全国的に極貧どころか相当に文化的な生活を送る農民が多かったというのが史実です。
中には、農業の専門書も書かれているし、自分で農業を行うかたわらで、各地の農業指導を行う者もいた。
農業の専門書を買うにしても、勉強するにしても、生活にある程度の余裕がないと、こうした事はできません。
そもそも、反日左翼というのは、非常に宣伝上手な人たちのようです。
その反日左翼の人たちに、わたしたちはこれまで、いいように、わたしたちの国の誇るべき歴史を壟断され、ダマされ続けてきているような気がします。
歴史の真実を、くだらないプロパガンタでゴマかすな!といいたいと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。
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