人気ブログランキング ←はじめにクリックをお願いします。

出光佐三氏
出光佐三

「題名のない音楽会」というテレビ番組があります。
東京12チャンネルの番組です。
この放送は、昭和39(1964)年8月から続くご長寿番組で、当時、TBSとの専属契約を打ち切られ苦境に陥っていた東京交響楽団の活動の場を与える意味で始まった番組です。
この番組は、番組途中でCMを入れない構成であることでも知られていて、現在もそれは守られています。
番組スポンサーは、出光興産です。一社だけの提供です。
番組途中でなぜCMが入らないかというと、番組スポンサーの出光興産元社長、出光佐三(いでみつさぞう)氏の「芸術に中断は無い」という考えに基づくのだそうです。
出光佐三氏は、出光興産の創業社長です。
その佐三氏に有名な言葉があります。
~~~~~~~~~~~~
社員は家族だ。
家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか。
会社を支えるのは人だ。
これが唯一の資本であり今後の事業を作る。
人を大切にせずして何をしようというのか。
~~~~~~~~~~~~
出光佐三氏は、終生「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の一介の「店主」を押し通したといいます。
彼は四無主義を提唱し、それをつらぬきました。
四無主義というのは、(1)クビを切らない、(2)定年を設けない、(3)出勤簿を作らない、(4)労働組合をつくらない、というものです。
戦後、欧米からマネジメント手法として輸入され、いまではごくあたりまえになっている、リストラ、定年制、勤怠管理、労組とは正反対の思想です。
もっというと、昨今の、すぐにリストラだの若年定年制だのと、部下の首ばかり切りたがる「西洋かぶれ型経営者」とは、まったく異なる経営哲学です。
出光佐三氏にいわせると、「社員は、雇用しているのではなくて、家族なのだ」です。
佐三氏は、これを「人間尊重主義」、「大家族主義」の経営哲学と呼んでいます。
出光佐三氏は、明治18(1885)年、福岡県赤間村(現・宗像市)で生まれました。
生家は、地元で藍問屋を営んでいて指折りの資産家だったといいます。
そして出光家の先祖は、大分にある宇佐八幡宮の大宮司だったそうです。
ところが、小学校に入った佐三は、病弱でひどい近眼でした。
そのため本が読めない。視力が弱くて体力がないのです。
だから佐三は、本を読んで学ぶかわりに、なぜか、どうしてかを必死で考える習慣を身につけたといいます。
16歳で旧制福岡商業に入学します。
福岡商業では、ストライキの首謀者などをしています。
ついに学校側を屈服させたりするのだけれど、先生のミコを悪くして、卒業時の成績は下から二番目だったそうです。
20歳で、神戸高等商業(現 神戸大学)に入学した佐三は、そこで二人の師匠に出会います。
ひとりは、水島鉄也初代校長です。
校長は
「カネの奴隷になるな。
『士魂商才』をもって事業を営め」
と教えてくれたそうです。
武家の商法という言葉があります。
明治維新のあと、官職を失った多くの武士が「生き馬の眼を抜く」という商業界にあって、財産をなくし、路頭に迷いました。
そうした時代への反省から、明治の終わりごろには、国内には拝金主義が台頭していました。
そんな時代にあって、水島校長は、人を大切にせよ、武士道の精神をもって商売に励め、と教えたのです。
江戸の昔「もし期日に返済なくば、人前で笑われても異議なく候」と借金の証文に書いた武家と、とにかく儲かればよいという商家では、その基盤となる考え方がまるで違います。
武家の流儀では、商売には向かないというのが、一般の考え方です。
しかし水島校長は「それでも武家の心を失ってはならぬ」と説きました。
そして「男子たるもの、国家に貢献できる事業を営め」と生徒に説き続けます。
もうひとり、佐三はなくてはならない人と出会います。
内池廉吉教授です。
教授は、
「これからの商人は、生産者と消費者を直結し、
 その間に立ち、相手の利益を考えながら
 物を安定供給することにその価値がある」
と教えます。
この時期、佐三の実家は商売が傾きかけていました。
家からの仕送りもなくなり、佐三は家庭教師のアルバイトをします。
彼が教えた子供の親に、日田重太郎という名の大変な資産家がいました。
日田重太郎の趣味は、神社仏閣を巡拝だったそうです。
たまたま佐三の実家の出光家が、宇佐八幡宮の大宮司の家柄だったことから、佐三は宗像神社を無条件に尊崇していました。
そんな佐三に日田重太郎はすっかり惚れ込みます。
明治42(1909)年、神戸高等商業を卒業した佐三は、神戸で小麦粉と石油を扱う酒井商店に丁稚として入店します。
酒井商店は、小麦粉と機械油を売っている従業員4、5名のこじんまりした商店です。
神戸高等商業(現:神戸大学)の卒業生なら、学士様です。
なぜこんな小さな会社を選んだのか、学友たちはいぶかり、あげくに佐三は「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」とさえ非難を受けます。
しかし佐三は、周囲の非難などまったく意に介しません。
なるほど大企業に入れば、収入も多いし生活も安定する。
しかし、仕事の一部しか担当できないではないか。
将来、独立して事業を営もうとすれば、仕事の基礎を一から覚えなければならない。
であれば小さな会社の方が仕事を覚えやすい。
そしてこれからの時代は、必ず石油の時代になる。
酒井商店は、油を扱っていたのです。
大学を出ていながら、尋常小学校卒がなるような丁稚になり、前垂れのはっぴ姿で自転車に乗って集金に駆け回る。
ところが、独立自営を夢見て走り回る佐三に、困難が待ち受けます。
実家の藍屋の商売がいよいよ傾き、もうやっていけれる状態ではなくなったのです。
一日も早く、独立開業しなければならない。
丁稚奉公では、給金はタカが知れているのです。
しかし、丁稚のままでは、仕事は幅広く覚えるけれど、独立開業のための資金が貯まらない。
いまどきのように、ベンチャー向けの開業資金融資制度なんてオイシイ制度はまったくなかった時代です。
そんな佐三のもとに、ある日、日田重太郎が現れます。
そして日田は、当時のカネで六千円(現在のお金でだいたい1億円)を、「貸すのではなく、もらってくれ」と申し出ます。
「京都にある家が売れて、六千円の現金ができたから、それを君にあげよう」というのです。
しかも、「貸す」のではなく「あげる」といいます。
ただし条件が三つあります。
第一に、従業員を家族と思い、仲良く仕事をすること。
第二に、自分の主義主張を最後まで貫くこと。
第三に、自分がカネを出したことを人に言うな、
というのです。
佐三は迷います。
「自分にできるだろうか・・・」
そして佐三は、決意します。
水島校長の言われる「人道主義と士魂商才の商人となろう。そうなることで、この日田さんへの恩返しをしよう!」
ここに大切なポイントがあります。
日田氏の大金の寄付は、もちろん佐三の人柄を信頼してのことではあるけれど、佐三の実家は、このときすでに傾いていた。
そして日田氏が出した条件は、3つとも、無形のもの(=インタンジブル)なものであるということです。
要するに、拝金志向というのは、「いま、カネを持ってる、いまカネを稼いでいる、いま贅沢な暮しをしている」というように、とかく上っ面の現実だけをみてしまいがちです。
そうすると、いまふうにいえば、月におかあちゃまから1500万円ものお小遣いをもらえるポッポなどは、とびっきり高い価値のある人間となる。
ところが、そうした拝金志向ではなくて、無形のものに価値を訪ねてみると、60にもなっておかあちゃんにお小遣いをたかるような腰ぬけにはまるで価値などなくて、自力で立ってひとつの価値を創造しよう(この場合、人道主義と士魂商才)とする男への投資が、まさに価値を持つようになる。
明治の終わりごろの日本には、まだまだそういう無形のものを大事にするという日本人本来の文化的価値観が、色濃く残っていたということができます。
ともあれ、そんな次第で、佐三は明治44(1911)年6月、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に出光商会を設立します。このとき佐三、25歳。後の出光興産の旗揚げです。
事務所の正面には水島校長の揮毫による「士魂商才」の額を掛けます。
商品は、日本石油下関支店の機械油を扱う特約店です。
ところが案に相違して、肝心の機械油がさっぱり売れない。
ひとつには石炭から電気モーターへの切り替えの時代で、機械油の需要そのものが減っていたことと、もうひとつは、佐三の商売の姿勢です。
機械用の油ですから、当然、営業の相手は工場や商店です。
商売人同士のお付き合いです。
袖の下はあたりまえ。値引きダンピングは、あたりまえ。
ところが「士魂商才」を掲げる佐三は、「そんなことまでして売る必要はない!」とにべもない。
おかげで日田からもらったお金は、3年で底をついてしまいます。
さすがの佐三も、憔悴しきって日田を訪ねます。
「申し訳ない。廃業したい」と申し出る佐三に、日田は言います。
「三年で駄目なら五年、五年で駄目なら十年と、なぜ頑張らんか。さいわい神戸にまだ私の家が残ってる。それを売れば当面の資金には困らんだろう」
日田の断固とした姿勢に、佐三は慄然とします。
甘かった。
日田さんは、本気で命がけでワシを信じてくれている。
こうなりゃ、なにがなんでも前に進むしかない!
日田さんに家を売らせるわけにはいかん!
佐三は必死に考えます。
単に目先の売上げの確保ではない。
もっと抜本的に、強気で士魂商才を実現するにはどうしたらよいのだろう。
佐三は考えに考えます。
で、「海賊」をやった。
「海賊」といっても、船を襲うのではありません。
夜中の十二時から二時ごろにかけて、漁船がエンジン音を響かせながら帰ってくるのを待ち構えたのです。
漁船のエンジンは「ポンポン蒸気」と呼ばれるツーサイクルの焼き玉エンジンです。
焼き玉エンジンには、燃料油として「灯油」が使われます。
佐三は、帰ってくる漁船が岸辺に着く前に、伝馬船で漁船に近づき、海の上で「灯油」の代わりに「軽油」を売った。
しかも下級の「軽油」です。
「灯油」と違って下級の「軽油」で焼き玉エンジンを回すと、クサイ。
しかし値段は安い。灯油の半値です。
当時の燃料油店というのは、油を元売りから買ってきて消費者に売ります。
小売りは特約店の仕事で、特約店は下関、門司、小倉、博多など地域別に分かれて、縄張りを作っています。
当然、漁師が陸にあがったら、その港を縄張りとしている特約店が商いをする。
だから佐三は、「縄張りのない」海上で、油を売ったのです。
で、文句を言われると、「海に下関とか門司とかの線でも引いてあるのか」と言い張った。佐三が「海賊」と呼ばれたゆえんです。
多少ニオイがあっても、値段が半値の軽油販売は大当たりします。
佐三はさらに工夫し、揺れる船上での油の販売のために、「計量器付給油船」という海上給油装置まで開発し、事業を軌道に乗せます。
いったんは廃業まで決意したこの年(大正3年)、佐三は南満州鉄道への車軸油の納入に成功します。
当時、南満州鉄道で使う油は、スタンダード社などの外国の油が独占していたのです。
独占は癒着を生み、癒着は高いコストとして跳ね返えります。
佐三は、そのからくりを見抜き、満鉄当局に粘り強い交渉します。
国産油の品質の良さを実験とデータで示し、それを使うことが、満鉄に利益をもたらし、国益にも適うことを具体的に示したのです。
さらに大正8(1919)年には、貨車のトラブルが続出してた南満州鉄道に、酷寒でも凍結しない「ニ号冬候車軸油」を納入して、満鉄から感謝状と銀杯を受領します。
ところが、大正13(1924)年、第一銀行(現みずほ銀行)が、突然、25万円の借入金引き揚げを要請してきます。
これは、ある意味、大手の金融機関によく見受けられることといえます。
つまり、業績好調で借入金の多いオーナー企業に対し、突如資金の引揚の要求をする。
引揚に応じられないなら、TOPが辞任し、銀行員を社長他役員、重役に迎えろ、というものです。
さすがにこのときは佐三もまいったらしく、一時は自殺説までささやかれる。
しかし二十三銀行(現大分銀行)の林清治支店長(当時)が、肩代わり融資を決めてくれ、佐三は、ぎりぎりで窮地を脱します。
そして、昭和7(1932)年には、門司商工会議所会頭に就任。
昭和12(1937)年には、高額納税者として貴族院議員となり、初登院しています。
(ちなみに現行の日本国憲法は、衆参両院の過半数の賛成で占領化の最高法規として廃止を決定することができます。この場合、大日本帝国憲法が復活する。憲法改正だと、衆参両院の三分の二、国民投票の過半数の賛同が必要だけれど、「廃止」なら、簡単に日本国憲法を破ることができる。ただし、単純に大日本帝国憲法が復活した場合、貴族院(参議院)は、高額納税者が議員となることがあります。そして現在の日本では、在日コリアンで高額納税者となっている者が非常に多い点には注意を要します)
佐三は、満鉄を経由して朝鮮、台湾に進出し、さらに日中戦争の拡大と共に、中国本土に拠点を拡大します。
出光商会は、この時期に、従業員千名程を抱える大会社に成長します。
昭和15(1940)年には、「出光興産株式会社」を設立する。
そして終戦。
日本は外地を失い、国内は焦土と化し、佐三もすべてを失ないます。
昭和20(1945)年8月17日、 出光佐三は、終戦の2日後であるこの日、社員二十人を集めて訓示します。
「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」
「泣き言をやめ、日本の偉大なる国民性を信じ、再建の道を進もうではないか!」
と訓示します。
そしてさらに1ヶ月後、佐三は驚くべき宣言をします。
「海外から引き揚げてくる社員は一人もクビにしない!」というのです。
当時の出光の全従業員数は、約一千名です。
そのうち約800名が、外地からの復員者です。
外地で力を伸ばした企業が、その外地の販路をすべて失ったのです。
資産もない。事業もない。膨大な借金があるだけです。
どうやって復員者を受け入れるというのか。
どう考えても、やりくりできるはずがない。
多くの企業は、ガンガン人員整理しています。
そんな中で、出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言したのです。
いい加減なことを言ったのではありません。考えに考えての結論です。
そしてこの宣言は、佐三自身の決意の表明でもありました。
どうにもならないどん底に落とされても、なお道は必ずどこかに通じている。
「道、極まって尽きず」は、尾崎行雄の「人生劇場」の台詞です。
佐三自身、どうにもならない、廃業するしかない中で、若い頃、事業のチャンスを得た。その成功体験が、佐三自身の信念になっていたのかもしれません。
出光興産は、復員者してくる社員のクビを切らないため、何でもします。
ラジオも売った。醤油も売った。酢も売った。
畜産や養鶏にも手を出した。
思いつく限りのことに手を出した。
しかし、付け焼刃の仕事は、どれもうまくいきません。
どうしようもなく追い詰められて、一部の社員には自宅待機命令を出さざるを得なくなります。仕事がないのです。
それでも佐三は、佐三は戦前に集めた書画骨董を売り払い、銀行から可能な限り借金をして待機組にすら給料を払い続けます。
復員後、気力を失い、郷里に引きこもっていた青年がいたそうです。
その彼が、出光に辞職の手紙を書こうとした時、父親が彼を烈火のごとく叱ったそうです。
「お前が兵隊に行っている6年間、出光さんは給料を送り続けてくれたんだ。
それが辞めるとは何ごとか!
すぐ、出光さんにお礼の奉公をしろ。
6年間、ただで働いて、それから帰ってこい!!」
青年は思い直したといいます。
待望の石油事業に復帰する機会は、意外に早く訪れます。
GHQ(占領軍本部)が、旧海軍のタンクの底に残った油を処理し活用せよ」と指令を発したのです。
タンクの底に入って、油を汲み取る作業です。
タンク内にはガスが充満し、窒息や中毒の危険があり、しかも爆発の危険もある。
普通なら誰もが請けない。請けない仕事だから日本人にオハチが回ってきたのです。
佐三は「これで石油界に復帰する手がかりができた」と喜びます。
全社員を動員してタンクの底さらえ作業を開始します。
廃油にまみれ、泥まみれになり、鼻腔を悪臭がつく。手足がただれる者もいる。
たいへんな作業です。
しかし誰もねをあげない。
俺たちは石油屋だ、油の扱いは俺たちの仕事だ、という誇りに満ちていたといいます。
「底さらえ」作業は、約1年半に及びます。
出光興産は、廃油2万キロリットルの汲み取りに成功します。
このときの丁寧な仕事ぶりはGHQと、その背後にいる米国石油メジャーに強烈な印象を残します。
これが、後に正式に石油界に復帰する足がかりとなり、出光蘇生の原点となる。
いまでも「タンク底にかえれ」は出光興産の合言葉となっています。
昭和28(1952)年3月のことです。
この時期、イランは英国資本の油田を強制的に摂取して国有化したため、英国と国交断絶状態になっていました。
英国海軍は報復のため、ペルシャ湾を航行するタンカーを監視し、イランから石油を積み出そうとするタンカーを拿捕しようとしていました。
このことは、イランにとっても、肝心の石油を売ることができないという、状況を招いてもいました。
いま、イランに行って石油を積み出せば、石油を安く仕入れることができ、さらにイランと日本の国交を切り開くことができる。
佐三は、当時出光興産が所有していたただ一艘のタンカー「日章丸二世」に密命を与えます。
日章丸二世が向かう先は、サウジアラビアということになっています。
しかし、船長と機関長の2名だけが、実はイランに向かうと知っている。
成功すれば、一艘の積荷で、二億円の儲け。
タンカーが拿捕されて失敗すれば、4~5千万の赤字となり、さらにただ一艘のタンカーを失うことで出光興産は倒産します。
日本は、この前年に、占領から独立したばかりです。
その日本が、連合国の一員である英国の横面を張り倒す行動に出るのです。
神戸を出航した「日章丸二世」は、18日後、ひそかにイラクのアバダンに入港します。英国の監視下にあった港に入港したのです。
このニュースは、まさに世界のトップニュースを飾ります。
そして世界中が注目する中、イランの石油を満載した日章丸は、夜陰にまぎれ、他船との交信さえも一切止めて、ひそかにペルシャ湾を抜け出します。
そしてインド洋を横断し、約一カ月かけて、無事、川崎に入港します。
このニュースは、占領に打ちひしがれていた当時の日本人の心を奮い立たせます。
そして、世界に日本の海運技術の凄味を見せつけた。
また、イランと日本の信頼関係の絆を深めます。
これに対し、英国アングロイラニアン社が「待った」をかけます。
積荷の石油は、英国のものであるというのです。
そして東京地方裁判所に提訴する。
この裁判のとき、佐三は東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に次のように述べています。
「この問題は国際紛争を起こしております。
 私としては、日本国民の一人として、
 俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、
 裁判長にお誓いいたします」
日本人、ここにあり!です。
裁判に勝利した佐三は、昭和31(1956)年、徳山湾に日本一の製油所を建設します。
製油所建設の竣工式に、佐三は大恩人である日田重太郎を招待します。
すでに82歳の高齢になっていた日田に佐三は、
「すべてあなたの御恩のおかげです」と述べた。
日田は、
「あなたの努力と神様のご加護じゃよ」と言って、佐三に手を差し出した。
佐三はその手をしっかりと握りしめ、離さなかった。
日田が神戸に住んでいた頃、佐三は神戸支店員を毎晩、日田家に派遣し、年老いた重太郎の晩酌の相手を命じていました。
夏には軽井沢にある出光の別荘を日田のために提供しています。
淡路島で行われた日田の葬儀は、出光興産の「社葬」として、佐三自ら参席し、生涯の大恩人に報いている。
佐三は、日田への恩を、生涯をかけて報いたのです。
昭和56(1981)年、95歳で出光佐三は人生の幕を下ろします。
佐三を支え続けた側近の一人石田正實は、安らかに眠る佐三の横顔を見ながら、
「この人は、生涯ただの一度も私に『金を儲けろ』とは言われなかった。
40年を越える長い付き合いだったのに……」と呟いて落涙したそうです。
あとは言葉にならなかった。
佐三は、終生「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の一介の「店主」を押し通した人です。
佐三のモット-は、
 「人間尊重」
 「大家族主義」
 「黄金の奴隷たるなかれ」
 「生産者から消費者へ」だった。
若き日、師匠から教わった教えをそのまま、生涯にわたって実践した。
佐三は、皇室を崇敬することが極めて篤く、また出光興産の東京本社には佐三の郷里の氏神である宗像神社が祭っています。
佐三が逝去したおり、昭和天皇は、佐三に次の歌を贈っています。
~~~~~~~~~~~~
 国のため
 ひとよつらぬき 尽くしたる
 きみまた去りぬ
 さびしと思ふ
(出光佐三逝く 三月七日)
~~~~~~~~~~~~~
会社は、ひとつの家族。地域も家族。国家も家族。
それが日本流の考え方です。
ねずきちの友人で鉄工所を営むある社長は、不況のあおりで工場の受注が減り、売上がピーク時の5分の1になったけれど、彼は必死で従業員の雇用を守り続けた。
自分の給料なんてありません。
それでも社員の給料は払い続けた。
そして自分の子供がまだ小さくて、生活費がないと困るからと、彼は夜間の運転手のアルバイトをして、自分の家族の生活も守り抜いています。
別な社長は、やはり社員の雇用を守りぬくため、会社の売上はそっくり社員の雇用のために使い、自分の生活費は夜間警備のアルバイトをして賄っている。
企業は、資本家(無産階級)と労働者(有産階級)の闘争の場である、と説いているのは、共産主義です。
経営者が(CEO)と称して巨利を得、景気が悪くなると生産調整と称して簡単にクビを切るのが、西洋風の企業です。
しかし、日本の流儀は違います。
日本人にとって、会社は「家族」です。
西洋風でもない。共産主義風でもない。
日本風の商家の考え方は、「社員は家族」という考え方です。
なにごとも西洋かぶれするのではなく、私たちはいまあらためて、日本流経営学というものを学んでみる必要があるのではないでしょうか。
 ↓クリックを↓
人気ブログランキング
戦慄!民主党 <沖縄ビジョン> SAVE OKINAWA!!

日本の心を伝える会では、いま会員の募集をしています。
登録無料!! ご入会は、
①ハンドルネーム
②お住まいの都道府県
③メールアドレス

の3つを書いて、assist@nippon-kokoro.com にメールするだけ。
ご入会受付後、メーリングリストへの招待メールをお送りいたします。
この機会に、あなたも是非、どうぞ^^♪
日本の心をつたえる会ロゴ

コメントは受け付けていません。