
昨日、日心会関東会議のあとの懇親会で、会長からひとこと、というお話をいただいたので、皆様に次のようなお話をさせていただきました。
それは、歴史に対する姿勢というお話です。
歴史というのは、過去の事柄です。
その過去の歴史をめぐって、ときおり意見の対立が生まれます。
たとえば、インパール作戦は無謀な戦いであったとか、そうではないとか。
あるいは、源頼朝はすごい人物だったとか、いやそうではないとか。
はたまた乃木大将は、すごい人だとか、いやそうではないとか。
2・26事件で決起した青年将校たちは正しかったとか、間違っていたとか。
それら歴史をめぐる「対立軸」というものは、いずれも歴史を「評価する」という姿勢から生まれてきているように思います。
しかも「結果」のわかった未来(現在)から、過去を見て「評価」している。
過去に対しては、だれしもが天才になれます。
そりゃ、そうです。
だって、結果が分かっている。
うまくいった行動なら、それは「だたしかった」といえるし、失敗した行動や、多数の死者が出た行動には「まちがっていた」と「評価」することができる。アホでもできます。
しかし、どの場合においてもいえるのは、その「評価」をしている「未来(現在)の」人物は、すくなくとも歴史に名を残したその当事者ほどの苦労もしていず、その当事者ほどの切羽詰まった環境にもいない、ということです。
過去の歴史を「評価」する、というのは、ボクに言わせれば、階級闘争主義に汚染された歴史観でしかない。
そもそも結果の出ていることがらに、いまさら「評価」もへったくそもないわけで、結果は、結果として受け入れるほかないです。
大切なことは、ボクたちは、過去の歴史から謙虚に「学ばせていただく」ということです。
それがいちばんたいせつな姿勢だと思っています。
「評価」は傲慢です。
そして傲慢は、謙虚さを失わせます。
たとえば、インパール作戦についてです。
この作戦には、いまなお賛否両論があります。
作戦は「是」だったか「否」だったか。
結果はあきらかです。
日本軍が敗退した。これが事実です。
だから責任者の牟田口中将はバカだったとか、インパール作戦は間違っていた、いやそんなことはない、などと喧々諤々議論したところで、後世の人間にとっては、なんの意味もないです。
ただ、後世に生きるわれわれにとっては、日本軍が崩壊し、誰もが怪我をし、飢え、マラリアに犯され、帰還する街道は、後に「白骨街道」と呼ばれるほど、日本の軍人さんたちの遺体が累々と横たわっていたという事実。
その苦しい逃避行においてすら、街道筋に散在する民家や村に、日本人に襲われたという記録がまったくないという事実が示されています。
銃を持っているのです。何日も食わず腹を空かせていたのです。マラリアに冒され熱があったのです。何日も女を抱いていなかった。
そして眼の前には、民家があり、そこには牛もいて、作物もあって、それなりの食い物もあったし、女もいたのです。
にも関わらず、数万の日本兵の誰一人、それらの村を襲わなかったし、女も犯さなかった。
最近、チリで大地震があり、生き残った住民たちが生きるために商店を襲う暴徒と化している姿が報道されました。
生きるか死ぬか、食えるか食えないかというぎりぎりの生存競争の現場において、すくなくともインパールの日本兵たちは、誰一人、自らの命がなくなってでも、他人を襲って食い物や女を奪うという行為をしなかった。
それって、なぜなの?って思うのです。
そこが大事だって思うのです。
もちろん、軍学者や、自衛官という「戦い」を職務とする人たちにとっては、そうした作戦への反省や評価・総括は必要なことです。
なぜなら、彼らは戦いの専門家です。
専門家には、純粋に軍学上の問題として、こんどこそは絶対に勝てる戦いをしていただかなければ困る。当然のことです。
それは「評価」ではなく、次の戦いへの「備え」という明確な目的を持った検証です。
しかし、軍人でも兵学の専門家でもないぼくたち一般庶民にとって大切なことは、どうして日本の軍人さんたちは、何万人もいながら、武器まで携帯していながら、お腹を空かせていながら、民家を襲わなかったのか?、そちらのほうが、はるかに貴重な事実であるように思います。
軍の隊律が厳しかったからではありません。
すでに指揮命令系統は完全に崩壊していたのです。
みんながてんでバラバラに逃げている最中のことなのです。
おそらくそこには、当時の帝国軍人さんたちの「現地の人々のために自分たちは戦っているんだ」という、「誇り高い矜持」があったのだとボクは思うのです。
だから、どんなに飢えても、どんなにつらく苦しくても、そして武器を持っていても、日本人は近隣の民家を襲ったりしなかった。
だから自分も、どんなに苦しくても、どんなにつらくても、泣きごとをいわず、弱者をいじめず、たとえ自らの命が犠牲になっても、人々を護り抜くことができるような、立派な人になりたいと思う。
歴史を学ぶということは、そういうことなのだと思うのです。
長い歴史のなかで、まさに「命がけ」で築いてきた歴史について、それを「いいか、わるいか」とか、「ただしいか、ただしくないか」などと「評価」しても、悪いがなんの得にもならない。
大切なことは、いまをいきるわたしたちが、いまを生きるために、過去の、その時代をまさに「命がけで生きた」人たちから、謙虚に「学ばせていただく」。
そのことこそが、歴史に向きあう、もっとも大切な姿勢なのではないかと、ボクは思うのです。
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