
要塞戦のことを書いてみようと思います。
要塞というのは、戦略上重要な拠点を確保するために、平時に築く恒久的な軍事建造物です。
高度な耐久性と防御力を有し、まさに難攻不落に築城することから、「陣地」と区別して「要塞」と呼ばれます。
「城」とも異なります。城は行政機能を持つけれど、「要塞」には、それがありません。
日本では、加藤清正で有名な熊本城などが難攻不落の「城」とされてますが、その「城」から行政上の機能と、見た目の権威性を排除して、戦いを制することだけに特化して築城されるものが「要塞」といえるかもしれません。
築かれれる場所は戦略的要衝です。とうぜんそこは戦地となります。
しかも、そもそも難攻不落に築城してあるのですから、当然そこは激戦地となる。
「セヴァストポリ要塞」という有名な要塞があります。
ここは、黒海の北側に面し、アゾフ海と分かつ、戦略上の要衝地です。
そしてこの要塞は、安政元(1854)年から安政3(1856)年に行われた「クリミア戦争」と、昭和16(1941)年からはじまる第二次世界大戦のときと、2回にわたって大激戦が行われたところでもあります。
日本でいったら幕末期にあたる頃に行われた「クリミア戦争」といえば、ヨーロッパではナポレオン後に起こった第二次世界大戦に匹敵する大戦争です。
フランス、大英帝国、オスマン帝国、サルデーニャ王国と、とロシアが戦い、戦火は、ドナウ川周辺、クリミア半島、からカムチャツカ半島にまで及んでいます。
このとき、最大の戦闘が行われたのが、「セヴァストポリ要塞戦」です。

当時、ロシアの黒海艦隊は、セヴァストポリを根拠地としていました。
当時の戦闘艦隊は蒸気船です。
海に出れば無敵の艦隊でも、港に停泊したら、次に出航するまで、釜を焚いて、エンジンが暖まるまでものすごく時間がかかる。
しかも揺れる船からの砲撃は当たりにくいけれど、陸上からの砲撃は正確です。
要するに、ロシア黒海艦隊が停泊中に敵に攻め込まれたら、あっという間に艦隊が壊滅してしまうから、これを守るために、ロシアはセヴァストポリに、難攻不落の要塞を構築します。
堅牢な要塞そのものに加え、周辺には数千箇所のトーチカをはりめぐらし、万一敵が要塞に達したとしても、内部には二重に堀がめぐらされ、その掘には、上向きの槍を連ねた落とし穴まで用意されている。
内部は、迷路が張り巡らされ、そこを通った敵兵は、壁から繰り出される銃弾で、全滅させられる。
つまり難攻不落の要塞なのです。
安政元(1854)年10月17日、この要塞に英・仏・オスマン帝国の連合軍17万5千が襲いかかります。
要塞守備隊は8万5千。
背後に海を控えていることから、ロシア守備隊は、後背から補給を得、またロシア黒海艦隊も、敵に向かって艦砲射撃を繰り返す。
これに対し、連合軍は、砲撃と歩兵突撃によって、トーチカをひとつひとつ奪い、徐々に要塞に迫ります。
戦いはほぼ1年にわたって続きます。
最終的には、安政2(1855)年9月11日に、連合軍の突撃によって要塞は陥落します。
ロシア軍はセヴァストポリから撤退。
港を失ったロシア黒海艦隊は無力化。
そして、連合軍が黒海の制海権を得ます。
ただし、この要塞戦による連合軍側の死者12万8千名、ロシア側の死者10万2千名、両軍合わせて、23万人の死者を出している。
23万人です。青年期の男たち23万人の死というのは、100万人の都市ひとつが壊滅したに等しい。
要塞戦というのは、それほどまでに過酷なものなのです。
セヴァストポリで起こった2回目の要塞攻防戦は、クリミア戦争の86年後、昭和16(1941)年からはじまる第二次世界大戦で再発します。
昭和17(1942)年6月、ナチス・ドイツは、ソビエト連邦カフカス地方へ侵入するために(ブラウ作戦)、その手前にあるセヴァストポリ要塞の制圧に出ます。
黒海の制海権の確保、ならびに、ソ連カフカス地方への侵入路の確保のためです。
この時代、セヴァストポリを確保していたソ連は、セヴァストポリ要塞をソ連随一、世界最強の要塞として防備を厚くしていました。
そこにナチス・ドイツのクリミア半島の制圧を任されたエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる第11軍がやってきます。

エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥という人は、第二次世界大戦における世界の陸将の中で、最も有能な将帥の一人として知られている人です。
彼は、西方電撃戦の立案者でもあり、クリミア半島とレニングラード攻撃を指揮し、スターリングラード攻防戦後に優位に立ったソ連軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させている。
彼はヒトラーに対してもはっきりと意見を開陳する数少ない将軍であり、その名将ぶりは戦時中のアメリカでも知られ、タイム誌でも醜悪な顔に描かれることなく、常に毅然とした顔で表紙を飾り、「我らの最も恐るべき敵」と評されている。
その、世界の陸将中、最も優秀とされるマンシュタイン元帥が、ナチス・ドイツの精鋭である第11軍を率いて、セヴァストポリ要塞を囲んだのです。
マンシュタイン元帥は、昭和16(1941)年9月24日からの3日間の大激戦の末、クリミア半島東部のケルチ半島、南部のヤルタを制圧し、セヴァストポリ要塞を包囲します。
包囲を受けたソ連軍は、セヴァストポリの防衛のため、黒海艦隊から海軍陸戦隊をケルチ半島に上陸させる。
ソ連上陸部隊は、クリミア半島東端のケルチにいたドイツ歩兵師団を包囲し、これに対して猛攻撃を加える。
放置しておいたらケルチ歩兵師団は全滅し、セヴァストポリ包囲隊は、退路を断たれてしまいます。
マンシュタイン元帥は、セヴァストポリの包囲を解いて反撃に出る(トラッペンヤクト作戦)。
ところがソ連軍は、両側を海に挟まれた細長い地形を利用し、何重もの防衛線をひいて、これを阻止する。
8か月もの長きにわたって続いたこの戦いは、それでも通常の陸戦であり、セヴァストポリ要塞戦の前哨戦でしかなかったのです。
ソ連上陸部隊を粉砕したドイツ11軍は、昭和17(1947)6月7日、ふたたびセヴァストポリを包囲します。
しかし、ソ連は、要塞の守備のため、ドイツ11軍がケルチ攻防戦に向かっている間に、多数の巨大砲塔を要塞北面の据え付け、待ち構えていた。
この砲塔は、戦艦の主砲を陸上に設置したもので、地下に旋回装置・弾薬庫・自動装填装置・兵員の居住区が設けられており、しかも周囲にはトーチカ群が設けられており、いっさいの敵を寄せ付けない。
砲弾の威力は、要するに艦砲射撃そのものです。
人間の背丈より高い巨大な炸裂弾が、陸戦隊のもとに降ってくる。
しかも海上からの砲撃と異なり、固定した陸上からの砲撃は、狙いが正確です。
離れて包囲すれば巨大砲弾にやられ、近づいて爆破しようとすれば、群がるトーチカ群からの機銃攻撃によって、射殺される。
マンシュタイン元帥は、近隣から新旧・大小問わず1,300門もの大砲をかき集め、猛砲撃を加えます。
さらにドイツ本国から80cm列車砲「グスタフ」を持ち込む。
グスタフは、鉄道のレールの上に設置する80cm40口径の大砲で、最大射程47km、弾薬は榴弾に徹甲榴弾をも使用する。
巨大列車砲は旋回できないという問題があったけれど、マンシュタインは、鉄道のレールそのものをゆるやかにカーブさせることで、射角を確保した。
戦艦から取り外した主砲を陸上に備え付けた巨大砲塔対グスタフ列車砲の戦い。
巨大砲弾が飛び交う砲撃船で、砲塔の移動が可能なドイツ列車砲が、次第に威力を発揮します。
マンシュタイン元帥は、グスタフ砲で開けた突破口から、短射程の砲を突入させてトーチカを破壊、そこに歩兵を突入させるという方法で、しらみつぶしにひとつひとつの敵陣地を撃破します。
さらにロケット砲によるトーチカ攻撃、さらには急降下爆撃機による空襲も加え、周辺のソ連巨大砲塔軍に戦いを挑みます。
この攻撃はまる5日間も続き、これによってマンシュタインの第11軍は、セヴァストポリ要塞北面のソ連軍陣地を全て破壊します。
そしていよいよセヴァストポリ要塞に迫る。
そして戦うこと2週間、セヴァストポリ要塞は陥落しています。
この戦いに、ナチス・ドイツが投入した兵力は35万人以上。
そして戦死者は、この戦いだけで10万人以上です。
35万人を投入して、兵の三分の一が死亡した。
要塞戦というものは、それほどまでに過酷なものなのです。
もうひとつ、忘れてはならない要塞戦をご紹介します。
フランスの「ベルダンの戦い」です。
この戦いは、第一次世界大戦の最中の大正5(1916)年2月21日に始まったり、両軍合わせて70万人以上の死傷者を出した。
戦ったのは、ナチスになる以前のドイツ帝国軍とフランス軍です。
ドイツ帝国の参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの発案により目標をパリへと続く街道にあるヴェルダンと定め、この地の攻略はドイツ帝国の皇太子ウルヘルムが担当します。
大正5(1916)年2月21日、ドイツ軍は重砲808門、野砲300門でベルダン要塞に猛烈な砲撃を開始します。
午前7時から始まったこの砲撃は、午後4時まで、まる10時間も続きます。
蟻の這い出る隙もないほどの絨毯砲撃です。
そして正面から歩兵が突撃する。
通常、歩兵部隊の突撃は、敵前100メートルの位地から行うのだそうです。
ところが、ウルヘルム皇太子は、これを500メートルの位地から、吶喊攻撃を敢行した。
さらにドイツ軍は、横方向からも蚕食的な攻撃を行う。
これにより、翌日にはドイツ軍はフランス軍第1陣地の3拠点を奪取し、さらに翌日には隣接する両翼の2拠点を奪取、4日目には第2陣地を突破し、さらに翌日には隣接する数拠点を占領。
そして第3陣地の一部であるドォーモン堡塁を占領する。
初戦の敗退に危機感を抱いたフランス軍は、22日、第2線師団を招いて逐次第1線師団と交代し、新鋭部隊でドイツ軍に対抗します。
さらにベテランのペタン将軍を招いて戦意を向上させ、徹底抗戦を図ります。
両軍はミューズ川をはさんで、執拗な争奪戦を行い、特にヴォー堡塁および死人の丘では、惨烈極まりない戦いが展開される。
6月7日になって、ついにドイツ軍はヴォー堡塁を占領するけれど、英国軍がドイツ軍の背後をうかがうようになる。
8月にはいると、フランス軍が反転攻勢に出て、10月24日と12月15日の総攻撃で、フランスは、ドォーモン堡塁とヴォー堡塁などの失地を回復します。
このベルダンの戦いにおける死者は、フランス軍362,000人、ドイツ軍336,000人、合計、698,000人です。
近代戦における要塞戦というものは、かくもすさまじい戦いになる。
そして、ソ連のスターリンが、ご紹介した「セヴァストポリ要塞を6つ合わせたほどの堅牢な要塞」と評したのが、大連港にある旅順要塞です。
いま、NHKで、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が大河ドラマとして放映されています。
日露戦争の話です。
日露戦争の戦いといえば、旅順要塞攻防戦、奉天戦、日本海海戦が、有名です。
このうち、旅順要塞攻防戦は、乃木大将が担当した戦いです。
司馬遼太郎は、この乃木大将があまりお好きでなかったようで、乃木将軍は部下をただやみくもに死なせた無能な将軍として描いています。
司馬遼太郎は好きな作家です。彼の書いたものは、街道を行くの一部以外、おそらく全部読んでいると思います。
ただし、彼は小説家です。そして「坂の上の雲」も小説です。小説に事実でないことが書かれていているのは当然のことです。
問題は、小説の記述をそのまま信じる側にあります。
旅順要塞攻防戦におけるロシア側兵力は、6万3千です。
そして日本軍は、明治37(1904)年8月19日~明治38(1905)年1月1日まで、四ヶ月半の攻防の結果、1万5千名の死者を出した。
おかしいと思いませんか?

第一次世界大戦におけるセヴァストポリ要塞戦では、10か月におよぶ攻防戦で、要塞を攻める側のドイツは、攻撃側のドイツ軍は、12万8千名の死者を出している。
そのセヴァストポリの要塞戦の、6倍の堅牢さを誇る旅順要塞は、わずか4ヶ月半の戦いで、しかも日本軍の死亡者は、1万5400名と、セヴァストポリの十分の一です。
第一次世界大戦のセヴァストポリの戦いと、旅順攻防戦の両方から様々な事実を学んだ後に行われた、第二次世界大戦におけるセヴァストポリ要塞攻防戦では、攻める側のナチスドイツの死亡者は10万人、しかも10か月の長期戦となっている。
第一次対戦のフランスのベルダン要塞攻防戦では、両軍合わせて死者70万人です。
繰り返しますが、旅順要塞攻防戦における日本側死者は、1万5千名です。
なるほど旅順要塞攻防戦だけをみれば、日本軍は多くの将兵を失うたいへんな戦いを挑んだし、兵の損耗はたいへんな数にのぼるものです。
しかし、世界の要塞戦の中では、これだけ堅牢無比な戦略要塞を攻めながら、わずか4カ月半で、しかも、他の要塞戦からみたら、わずか十分の一、二十四分の一の兵の損耗で、これを落城させている。
司馬遼太郎の小説では、無能な乃木将軍が、ただやみくもに兵を突撃させるだけだったものを、児玉源太郎が20センチ砲をお台場から取り寄せることで、あっという間に要塞が陥落したように書かれています。
しかし、セヴァストポリ要塞や、ベルダン要塞戦にあきらかなように、要塞戦というのは、大砲撃てばなんとかなるというような、そんなナマやさしいものではない、
小説にはなぜか登場しないけれど、実際には旅順要塞戦では、地面の下に坑道を掘って、旅順要塞の内側から崩壊させるという戦法などもとられています。
旅順要塞攻防戦の日本軍の勝利は、そういう様々な陸戦の技術と、勇猛果敢な日本兵、そしてそれらの兵の気持ちをひとつにまとめあげる乃木大将がいたからこそできた、実は、世界に冠たる大勝利戦であったのだといいきることができます。
しかも、乃木大将は、自らの子を二人、この戦争でなくされただけでなく、戦後、なくなられた兵、ひとりひとりのために、弔問の旅などもされている。
当時、日本軍の給料というものは、将軍クラスと兵卒で、わずか2倍程度の給料の格差しかなかったのです。
乃木希典は、そのわずかな給料の中から、弔問のための費用をねん出した。
だから、奥さんの静子婦人も、そこらの女中さんのようなみすぼらしい服をいつも来ていた。
金や給料よりも、もっともっと大切なものを大事にされるお方だったからこそ、兵たちはこの大将のもとなら、ついていける。この大将のモトなら俺は死ねる。
そう思って戦ったのです。
ロシアの、当時の文書には、満洲を制圧後、朝鮮半島を占領し、そのうえで日本を従えて太平洋に打って出る、とはっきりとそう書いてある。
もしそれが実現していれば、日本人はいまごろ、ロシアの奴隷です。
そして東亜の国々も、21世紀のいまなお、貧窮のどん底の、植民地奴隷でいたであろうと思われる。
日本の独立を守りぬき、死力を尽くして戦い、世界の戦史上、輝かしい戦果となっている旅順要塞攻防戦、そしてそれを指揮した乃木大将について、歴史家は、司馬遼太郎の小説や、NHKの大河ドラマ史観ではなく、ちゃんとした眼を見開いて、再度、検証してもらいたいものだと思います。
しかもね、乃木大将は、敵の将軍ステッセルにも最大の敬意を表し、さらには捕虜にして日本に連れ帰ったロシア兵に最大の歓待をしています。
ロシア兵が収容された宿舎には、常に煌々と電気が灯っていた。
ところが、周辺の町には、灯りがなく、いつも真っ暗。
不思議に思ったロシア兵が聞いたそうです。
「どうして周囲の町は真っ暗なのですか?」
収容所の兵が答えた。
「これが普通の状態です」
「われわれは貧しいのです。しかし、陛下を思う気持ちは、誰にも負けません」
それを聞いたロシア兵は、日本の強さの原因は、まさにここにあると思ったといいます。
そうした時代の心を、わたしたち現代に生きる日本人は、もういちど思い返してみる必要があると思うのです。
↓クリックを↓
日本の心を伝える会では、いま会員の募集をしています。
登録無料!! ご入会は、
①ハンドルネーム
②お住まいの都道府県
③メールアドレス
の3つを書いて、assist@nippon-kokoro.com にメールするだけ。
ご入会受付後、メーリングリストへの招待メールをお送りいたします。
この機会に、あなたも是非、どうぞ^^♪


