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中山忠光
中山忠光

天誅組というのは、幕末動乱期に公卿中山忠光(なかやまただみつ)を主将とする尊皇攘夷派38名の浪士の武装革命集団です。
彼らは、文久3(1863)年8月17日に、幕府の大和国五条代官所(現、奈良県五條市)を襲撃し、代官の首を刎ね、代官所に火を放ったあと、桜井寺で「五条御政府」を名乗るのですが、幕府によって討伐され、壊滅しています。
ことの起こりは、文久2(1862)年12月にさかのぼります。
このとき朝廷から幕府に対し、攘夷(外国人を打ち払え)という勅書が授けられました。
ちなみにこの勅書、よく「孝明天皇から出された」と書いている本が多いのですが、間違いではないのですが、誤解を与え易いものなので、ちょっと注意が必要です。
というのは、我が国における天皇の存在は、あくまで権力者に認証を与えるという権力者の上位にあたる存在だからです。
ですから、もちろん勅書が孝明天皇のお名前で出されたことは間違いないのですが、それは「その時点における朝廷内の政治権力者の意向が攘夷であった」ということで、天皇のご意思が攘夷であったということとは意味が異なります。
我が国における天皇の存在は、Chinaの皇帝のような最上位の権力者とは異なります。
あくまで、その権力者に認証を与える権威というのが、天皇の存在です。
この点を間違えるから、孝明天皇は攘夷派だったのに明治天皇は開国したのはおかしいなどといった、怪しげな論説に粉動されたりします。
あくまでも、そのときの朝廷内の権力者が、攘夷派であったということであり、その権力者が孝明天皇の名で勅書を出したというのが、実際の流れです。
さてこの勅書に対して、幕府はなかなか回答を出しませんでした。
というより、出せない。
なぜなら、欧米列強の強力な国力軍事力に対抗するには、300年前の戦国時代の装備では対応できないことを幕府は知っていたからです。
欧米列強に対抗するためには、我が国自体が列強並みの国力・軍事力を確保し育てなければなりません。それには時間もかかる。
列強の火力の前に、刀剣をもって対抗しても歯がたたないことは、清国の阿片戦争が証明済みです。
けれど朝廷からは、矢のように攘夷の催促がおこなわれました。
やむなく幕府は、文久3(1863)年3月、攘夷決行を決定します。
そしてこの日、長州藩は攘夷実行の大義のもと、下関海峡を封鎖し、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えています。
驚いた米仏は、約半月後、報復措置として下関海峡停泊中の長州軍艦を砲撃しました。
あっという間に、長州藩は敗北してしまいます。下関戦争です。
その下関戦争に、公家で、侍従長の中山忠光も参戦していました。
中山忠光は、権大納言中山忠能の七男で、平戸藩主・松浦清の娘・愛子を母に持ちます。
そして、明治天皇の生母・中山慶子様が姉にあたります。
つまり中山忠光は、明治天皇の母親の兄弟・・・つまり叔父にあたられる方です。
長州の敗北で、中山忠光は京へ戻りました。
けれど侍従の職務をほったらかして、勝手に長州藩の旗揚げに同道したことの責任を問われ、謹慎を命じられると、侍従職も剥奪されてしまいます。
中山忠光は野に下り、吉村寅太郎ら38名と決起を語らって京を出発、大阪の港を経由して、船で堺にわたりました。
この船中で、全員で髪を切って決意を示し「天誅組」の名乗りをあげます。
8月15日、一行は、堺の浜に上陸しました。
この場所が、現在の堺市堺区栄橋町の土居川沿いで、そこには「天誅組上陸の地の碑」が建てられています。
西村眞悟先生と天誅組上陸碑
天誅組碑文と西村眞悟先生

翌日一行は高野街道(現高野線沿いの街道)を通って河内をめざし、狭山に入りました。
ところで、天誅組はなぜ、堺へ上陸し、狭山を目指したのでしょう。
その足跡の詳細はわかっていませんが、ただ、天誅組の檄文をみると、おもしろいことがわかります。
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【檄文】
なにぶん干戈(かんか)を以って動かさざれば天下一新は致さず。
然りといえども、干戈(かんか)の手始めは諸侯決し難し。
すなわち基を開くは浪士の任なり。
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(意訳)
武器を持って立ち上がらなかったら、天下一新はできない。
しかし、本来、動くべき大名は、なかなか動こうとしない。
だから、時代を揺れ動かすのは、浪士の任務である。
つまり、彼らは「歴史を動かそう」としたわけです。
そのために堺の港に上陸し、大和の狭山に向かい、そこに「五条御政府」を打ち立てました。
この「五条御政府」は、政府を名乗ると同時に年貢の減免を実施しています。
場所が堺、大和の狭山、年貢の減免と続けば、その意図は明確です。
天誅組は、堺にある仁徳天皇御陵に手を合わせ、かまどの煙の故事にならって年貢の減免を行い、大和に新政府を打ち立てようとしたわけです。
つまり、その意図するところは、天皇親政の実現であったのだろうといわれています。
さて、堺で私財を処分して軍資金を作った古東領左衛門らと合流した天誅組一行は、武具を整え、菊の御紋の入った「七生賊滅天後照覧」と大書された幟一本をつくり、8月16日早朝に、高野街道を通って河内をめざしました。
そして大和の狭山に入った天誅組は、吉村寅太郎が軍使として狭山藩を訪問し、藩主北条氏燕との面会を申し出ています。
一介の浪人ものなら大名が会う必要はありません。
けれど、菊の御紋のはいった幟(のぼり)をうちたて、公家の中山忠光が一行の総裁とあれば、様子が違ってきます。
狭山藩は、協議の上、藩主は急病と偽って面会を断り、家老朝比奈縫殿が代って、面会に応じました。
面会の場で中山忠光は、家老の朝比奈に狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じます。
相談や説得ではありません。命令です。
対応に苦慮した狭山藩はとりあえず天誅組にゲーベル銃などの武具を贈り、天皇御親征(大和行幸)の際には、天皇方に加わると回答しました。
翌17日、天誅組は山中の間道を越えて、幕府天領である大和・五条の代官所を襲撃します。
そして幕府代官・鈴木源内の首を跳ねると、代官所に火を放つ。
18日、幕府天領である五条を「天朝直轄地」とし、この年の年貢を半減することを宣言、自らを「御政府」と称します(五条御政府宣言)。
そして隣国である高取藩に恭順勧告書を送って、高取藩を従えます。
この革命が成功していたら、その後の日本の首都は、大和か狭山になっていたかもしれません。
ところが、この8月18日、京都で政変が起こったのです。
会津、薩摩と気脈を通じた佐幕派の中川宮が巻き返しを図って、孝明天皇の攘夷祈願の大和行幸の延期と三条実美などの攘夷派公卿の参朝禁止し、長州藩の御門警護を解任したのです。
おどろいた長州藩は、宮門に駆けつけるのですが、そこには会津藩と薩摩藩が、がっちりと警護していて長州藩を御所に入らせない。
朝廷の勢力は、攘夷派から佐幕派へと移り、孝明天皇の大和行幸は中止、京の攘夷派はところを追われます(八月十八日の政変)。
朝廷が攘夷派だからこそ、天誅組の「五条御政府」は政権与党たりえるのです。
朝廷が佐幕派になれば、天誅組の「五条御政府」は、ただの暴徒です。
天誅組「五条御政府」は、一夜にして「追われる身」となってしまったのです。
挙兵の大義名分を失った天誅組は、天の辻の要害に本陣を移しました。
そして兵力強化のために、吉村寅太郎が五条の医師乾十郎とともに十津川郷(奈良県吉野郡十津川村)に入り、十津川郷士たちに反乱への加入を説きます。
そして野崎主計ら十津川郷士960人を徴兵する。
ですがこの徴兵は、かなり強制的かつ高圧的なものであったようです。
一方で、先に天誅組に恭順を約した高取藩も態度を急変させ、兵糧の差し出しを断ってきました。
兵力を増強した天誅組は、高取城の攻撃に向かいます。
天誅組方兵力1,000名に対し、二万五千石の小藩である高取藩の兵力はわずか200なのです。
ですから天誅組は「勝てる」と踏んでいました。
ところが地理を熟知していた高取藩に対し、天誅組に地の利がない。
加えて無理やり徴兵された十津川藩郷士たちの士気は低く、軍令に呼応しない。
高取城に襲いかかった天誅組は、わずかばかりの高取藩兵の銃砲撃を受けて混乱し、潰走してしまったのです。
やむなく一行は、天の辻の本陣へ戻りました。
そこへ幕府の命を受けた紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などによる総勢1万4000の討伐軍がやってきます。
さらに9月1日には、朝廷からの天誅組追討の勅令が下されました。
上に、天皇の名で勅令は出されるが、その意思決定は朝廷内の政治権力の意向による、ということを書かせていただきましたが、孝明天皇のご意思がどのあたりにあるかではなく、あくまでも天皇が親任した、朝廷の権力者が、どういう意向であるかによって、天皇のご意向である勅令の方向は180度変わるということが、ここにも明確に現れています。
繰り返しになりますが、我が国における天皇は政治権力者ではなく、政治権力者にその権力を揮うための権威を与える存在である、ということです。
この点を見失うと、日本の国家体制の本質が見えてきません。
さて。9月7日になると、天誅組はやってきた幕府軍の先鋒の津藩兵と大日川で会戦しています。
天誅組は、民家に火を放ちました。戦場撹乱のためだったといわれています。
幕軍は、戦いよりも消火を優先しました。
そして鎮火後、いったん兵を五条へ引きます。
ここは大事なところです。
源平合戦の壇ノ浦の戦いでもそうですが、古来、日本における施政者となる者は、常に「民のためにある」という姿勢を崩していません。
ですからこのときの幕軍も、戦いよりも鎮火を優先しています。
南京城攻防戦で、China国民党の唐智生は、南京守備にあたって外国人記者に「我々は死ぬまで戦う決意である」と語っていますが、実際には、南京の市民の住宅地に日本軍が隠れることを怖れて城内の住宅地をすべて焼き払い、さらに南京に日本陸軍が攻撃を開始すると、ひとり先にいち早く逃げ出しています。
何のために戦うのか。
思想のためなのか、エリートたちの贅沢な暮らしのためなのか、民のためなのか。
その違いは、戦いにあたっての根幹の違いであろうかと思います。
たとえ、戦いであったとしても、どこまでも「民のため」ということを忘れなかった軍と、その一戦のためだけに、民の暮らしを犠牲にしても構わないと考えることと、そこには天地ほどの開きがあろうかと思います。
結局、天誅組は幕軍の前に善戦するものの、多勢に無勢はいかんともしがたく、また十津川郷士たちの戦意は、当初からまるで乏しく、14日には、吉村寅太郎らの守る天の辻を奪われ、19日には棟梁の中山忠光自身が、進退窮まって天誅組の解散を命じています。
そして天誅組の残党は、山中の難路を歩いて脱出を図るけれど、重傷を負っていた吉村寅太郎がこの時点で一行から脱落、24日には奈良県東吉野村の鷲家口で、紀州・彦根藩兵と遭遇して、中山忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入した那須信吾らが討死、藤本鉄石も討死、負傷して失明していた松本奎堂も自刃。
一行から遅れて現場に到着した吉村寅太郎は、27日に鷲家谷で津藩兵に撃たれて戦死。
これによって天誅組は、実質、壊滅しました。
中山忠光は、辛くも敵の重囲をかいくぐり脱出に成功し、27日に大坂に到着して長州藩邸に匿われ、その後、長州に逃れて下関に隠れていたけれど、禁門の変のあと長州藩の恭順派によって元治元(1864)年11月に殺害されています。
天誅組の行動は、後に「大和義挙」と呼ばれますが、その行動の是非について、私は論ずる気はありません。
外国の脅威の前に攘夷を信じて行動を起こしたのは立派だ、と考える人もたくさんいるし(だからこそ「義挙」と呼ばれています)、志は立派でも、何の罪もない五条の代官を一方的に殺害して首を刎ね、事情のわかっていない十津川郷士を約千名も拉致し、幕軍が迫るや町に火を放って民の暮らしを破壊したことは到底許されるべきものではない、という人もいます。
ただ、歴史は「学ぶ」ためにある、というのが私の持論です。
天誅組の行動を通じて、我が国における天皇と施政者の関係、正しきを行うときに必要なことは何かなどを学ぶことは大切なことなのではないかと思います。
そうそう、ひとつ書いておかなければならないことがあります。
天誅組の総裁の中山忠光は、天誅組壊滅後、長州へ流れて、そこで恩地トミという女性と出会います。
二人は恋に落ち、トミは忠光が暗殺された後に、彼の子を産みます。
女の子で、名を恩地仲子といいました。
仲子は、長府藩の藩主、毛利氏の養女となり、父方の中山家に引き取られます。
忠光の正室・富子は、亡き夫の忘れ形見の仲子を大事に育て上げ、維新後、仲子は嵯峨公勝の夫人となり、子をもうけます。
その子が、「嵯峨浩(さが ひろ)」で、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀(ふぎ)の弟である愛新覚羅溥傑(ふけつ)に嫁いだ日本人女性です。
溥傑と浩は、九段会館で挙式し、満洲で終戦を迎えました。
戦後、お二人はChinaと日本と離ればなれになりながらも、互いを信じ、愛する心を失わず、離ればなれになって15年後の1960年に再会、以後生涯にわたって仲のよいご夫婦としてお過ごしになりました。
祖父の忠光は、攘夷のために命を捧げた方でしたが、孫の浩は、日中友好のために生涯をお捧げになられています。
1987年に浩、1994年に溥傑が亡くなり、お二人のご遺骨は日中双方によって分骨され、日本側の遺骨は浩の祖父である中山忠光が祀られている山口県下関市の中山神社に納められています。
お二人の数奇な運命については、このブログの過去記事「国境を越えた愛・・・艱難辛苦を乗り越えて」にありますので、ご興味ある方はご一読ください。
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