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満洲国新京・吉野町界隈の風景
満洲国新京・吉野町界隈の風景

鹿児島の高崎弥生さんの「実録・遥かなる回想」を、またご紹介させていただこうと思います。
この本からは、以前、「石頭予備士官候補生の戦い」をこのブログでご紹介させていただきました。
URL=http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-757.html
今日は、この本の著者の高崎氏の満洲渡航のいきさつや満州での恋物語を通じて、当時の日本人の「気分」を学ばせていただこうと思います。
高崎さんのご家庭は、もともとは海運貿易でたいへん栄えていたお家なのだそうです。
しかしある日、友人の借金の保証人になったことから巨額の負債を背負ってしまう。
一家は一転して貧窮のどん底に突き落とされます。
長男の高崎さんは、学業優秀、身体剛健な若者でしたが、中学の授業料も遅滞し、「左記の者、授業料未納につき出校停止」と学内に掲示されるのは毎度のことだったといいます。
高崎さんが子供心に「これで学校をサボれるゾ」などと笑っていると、
「高崎っ! これを持っていけ!」と、財布を投げ出してくれた先生もいた。
そんなあたたか味に触れて、高崎さんは停学になっても、みんなに後れを取るものかと、懸命に自習し、見事、上位の成績を維持し続けます。
貧しさゆえに、授業を受けれないだけではありません。
家では毎日、幼い弟や妹の世話をします。勉強も、妹をおんぶしながらです。
中学までは、家から片道8km、往復16kmあったそうです。
自転車など買うお金はありません。
もちろん電車もなければ、自家用車なんてものもありません。
高崎さんは、毎日徒歩で学校に通います。
ある日のことです。
学校の教練で整列中に、配属将校が高崎さんの足をやんわりと踏んだそうです。
そしてニヤリと笑いながら、
「高崎、お前、特上の革靴を穿いてきたナ!」
靴が破損し、履いて行く靴がなかったからと、高崎少年は、素足に墨をなすりつけていたのです。
「どうだ、上等の靴を譲ってくれんか」
「せっかくですが、非売品なので、売ることは苦痛(クツ・靴)です!」
さすがの将校どのも、大笑い。
本の中で高崎さんは、当時を振り返り、
「貧乏は、私に不屈の精神とユーモアを植え付けた」と述べておられます。
さて、高崎さんは、中学を優秀な成績で卒業後、成績を惜しんで上級校への進学を勧める教師の薦めに応えず、実務的な商業高校へと進学します。
そして昭和16年、商業高校を首席で卒業する。
代表謝辞を読みながら涙を流し、家計を助けるためにと、好待遇の満洲の会社に就職します。
就職当時の高橋さん
満洲製鉄入社の頃

そしてひとり、満洲へと向かいます。
始めてみる異郷の地。
当時の満洲・大連は、色彩豊かな洋館が立ち並び、ゆったりと広い街並みには、アカシアの街路樹が甘い花の香りをただよわせていた。
そして大連から、特急あじあ号に乗り込んだ。
特急あじあ号については、以前、このブログでもご紹介させていただきましたが、当時、機関車の最高時速がせいぜい80km/hだった時代に、なんと時速130km/hで爆走する世界最速の弾丸特急です。
【関連記事】=夢の超特急「あじあ号」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-663.html
1等客車には、冷暖房完備、車輪は直径2メートル。宮殿とみまごうばかりの豪華ラウンジも装備されています。
もっとも高崎さんが乗ったのは三等車です。
乗賃が安いかわりに、乗客の質も悪い。
車内には、ニンニクの強烈なニオイがただよい、乗客はやたらと白いヒマワリの種を噛んでは床に撒き散らす。
日本のいまどきの列車は、どこも清潔だし、乗り心地もよく作られているけれど、今の調子でシナ人や朝鮮人の乗客が増えてきたら、やはり同様に、車内は不潔で、臭いものとなることを、日本人は覚悟しなくちゃいけません。
それが嫌なら、ChineseやKoreanの入国に、厳しく制限を課すべきです。
あじあ号の三等車で、当時16歳の高崎さんは、ひとり歌を歌います。
♪ボクも行くから、君も行け
 せまい日本にゃ住みあきた
 海の彼方にゃChinaがある
 Chinaにゃ四億音の民が待つ
あるいは、
♪心猛くも 鬼神ならぬ
 人と生まれて 情けはあれど
 母を見捨てて波こえてゆく
 友よ兄らといつまた会わん
♪波のかなたの蒙古の砂漠
 男多恨の身の捨てどころ
 胸に秘めたる大願あれば
 生きて帰らん望みはもたぬ
前者が「馬賊の歌」、後者が「蒙古放浪歌」です。
当時、内地から満洲へと向かう人たちの「気分」がよくあらわれている歌だと思います。
在職中の満洲製鉄本社ビル
在職中の満洲製鉄本社ビル

あじあ号にゆられること八時間。
ようやく満洲の首都「新京(長春)」に到着します。
新京の本社ビルで新入社員教育を受けた高崎さんは、なんと本社の秘書課兼人事課勤務を命ぜられます。
他の新入社員の羨望をかったそうですが、いきなり重要ポストに着いたのには、卒業校の恩師(先生)から会社に、
「この者を採用しなければ貴社の損失云々・・・」と最大級の推薦状が来ていたのだそうです。
これを知った高崎さんは、「このうえは、母校の名誉にかけても期待に報いよう」と情熱を燃やします。
そして母校に書き送った高崎さんの礼状は、全校生徒に朗読されています。
入社後、高崎さんは、弟や妹の学費を稼ぐために、食い盛りの腹を空かせながら、寮の昼食を抜き、毎月給料から20円余りを家に送金したそうです。
当時の小学校の校長先生の給料が30円の時代です。
満鉄の高級もすごいですが、昔はいまよりももっと重役と一般社員の給料格差が少なかったという点も見逃せません。
給料の多寡より、人としての威厳や貫禄、能力が大切にされていたのです。
はじめて、家に給料を送金したときには、お母さんから泣かんばかりの礼状をもらったそうです。
夜もろくろく寝れずに、仕立物の内職をするなど、苦労の連続だったお母さんの喜ぶ顔が浮かんで、それが若い高崎さんにとっての最高の生き甲斐だった。
そのためにはどんな苦労もいとわない!
「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」
当時、高崎さんが弱気になるたびに念じ、自らを叱咤した言葉だそうです。
つばめや、すずめが、どうしてこうのとりや白鳥の志を知ろうか。
高崎さんは、憧れの本社で、時を惜しむように必死に職務に熱中します。
威厳に満ち、雲の上の存在のような貫禄充分の重役。
素晴らしい情熱を持つ上司たち。
美しい秘書の女性たち。
たまには、会社直属の鉄廟子病院長との会食などがあり、二十余人のうら若い美人看護婦たちに囲まれ、メシもノドを通らず冷や汗タラリだった日もあったとか。
19歳の入隊前の青春のヒトコマです。
そんな高崎さんが、次第に職務に馴れたある日のこと、若く美しい白系ロシア人のエレベーターガールから声をかけられたのだそうです。
ドギマギして名乗るのがやっとだったのだけれど、日を重ねるにつれうちとけて、話し合うようになった。
戦後、なだれこんできたソ連の囚人兵たちとは違います。
革命で国を追われたロシアの貴族たちが、当時、ハルピンや、新京など、満洲東北部に亡命し、絨毯や毛皮商などを営んでいたのです。
そんな旧ロシア貴族の娘さんが、たまたま満鉄本社のエレベーターガールをやっていた。
彼女は、貴族の令嬢にふさわしく、見るからに優雅で抜けるように白い肌、青い瞳で、物腰もやわらかく、とても魅力的な女性だったそうです。
高崎さんには、とても手の届かない高根の花に思えていたのだけれど、その彼女が、いつも発売と同時にすぐに売り切れる洋風の高級タバコのマーキュリを買い置いてくれて、高崎さんにそっとプレゼントしてくれたのだそうです。
高崎さんはタバコを吸わなかったのだけれど、せっかくの彼女の好意なので、素直に受け、これを内地に送ったそうです。
マーキュリーは、内地で、まるで宝石のように珍重されたそうです。
彼女とのカタコト交じりの語らいは、さして不自由もなく、いつか二人はデートするようになります。
美しい都大路を夕日が真っ赤に染める。
そよ風がわたる大同大街の並木道を、互いに肩を寄せ合いながらそぞろ歩く。
通り沿いにある児玉源太郎記念公園の池のほとりを、一緒に歩くと、建国大学から美しい歌声が聞こえてくる。
そんなところを二人で歩きながら、ロシア王朝時代の物語などを語り合いながら、時間を忘れて、お二人は楽しくデートされたそうです。
19歳の若い青春。
異郷の地で知り合った、異国の恋人。
たがいに指一本触れぬまま、熱い思いを抱いて、昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発します。
高崎さんは地方に転勤となる。
二人に別れの日が訪れます。
♪ニレの並木の夕月に泣いたとて
 夢は夢ゆえ かえりゃせぬ
 胸に嘆きを せつない夜を
 泣いて謳うよ 満洲ブルース
当時流行した「満洲ブルース」です。
大東亜戦争は、初戦に華々しい戦果をあげたものの、昭和17年6月のミッドウエー海戦以降、制海権を奪われ、日本は追い詰められていきます。
このため大本営は、満洲に駐屯する「関東軍」から次々と兵力を抽出し、南方戦線に転用します。
弱体化した「関東軍」に大本営が下した命令は「静謐確保(せいひつかくほ)」。
つまり、静かさを保ち、ソ連に参戦の口実を与えるな、でした。
高崎さんは、本業の満鉄の仕事に従事するかたわら、戦地にいる兵隊さんたちのために、慰問袋をこさえて、幾度も送ります。
ところが、高崎さんのお名前が「弥生(やよい)」さんであるため、慰問袋で女性と間違われて礼状をもらってしまったことがあったそうです。
戦地の兵隊さんを落胆させるのもいけないと、女性社員に代筆を頼んで返事を書いてもらったところ、なんと今度はその人からプロポーズされてしまった!
よもやと思ったけれど、ある日、その本人が思い詰めて来訪してきてしまいます。
仰天して逃げ回ったけれど、ついにとっつかまってします。
仕方がないので、「高崎ヤヨイは、男でござる」と開き直ったのだとか。
いまとなっては笑い話かもしれないけれど、いつ死ぬかもしれない戦地の兵隊さんの真剣な気持ちと、あたたかな心のこもった慰問袋をめぐるひと騒動であったかと思います。
そして、ついに昭和19年9月、高崎さんのもとに関東軍ハルピン入隊せよとの命令がきます。
かねて覚悟はしていたといいますが、この頃になると、赤紙召集すらなく、口頭通知だったそうです。
内地の両親に別れを告げるいとまもなく、連日の送別会の宴に続き、いよいよ出発の朝には、社前の広場を埋め尽くすほどの見送りの社員や、関係者が集まり、盛大な壮行会が催されたそうです。
女子社員たちによって集められた寄せ書きの避難るを肩にかけ、万感の思いを胸に出征の挨拶をした。
緊迫する戦況下では、もはやここに集まってくれた人たちとは、今生の別れとなるのです。
おもわずこみ上げるものを、ぐっとこらえて、電車に乗り込めば、日の丸の旗、旗、旗がひしめいている。
高崎さんは、「いまなお、あの日の光景が彷彿と胸中を去来する」と書いています。
昭和19年10月1日、関東軍ハルピン二〇九部隊に入隊した高崎さんは、そこで一定の訓練の後、ソ連国境守備隊、綏西(すいせい)二七三部隊に転属になります。
そこで幹部候補生を受験し、見事合格した彼は、部隊全員が整列するなか、「左記の者、本日付をもって転属を命ずる」と、牡丹江省石頭予備士官学校へ入校します。
石頭予備士官学校の生徒たち3600名は、すでに武器すらない中で、昭和20年8月9日、突如、日ソ不可侵条約を破って百二十万の大軍で攻めてきたソ連の戦車隊と、工事用のダイナマイトの束を抱いて、肉弾突撃を敢行します。
一分でもソ連の大戦車隊を釘づけにし、満洲開拓団の婦女子たち民間人を逃がそうとした。
彼らは、玉音放送があったことすら知る由もなく、転戦に次ぐ転戦を続け、ようやく八月下旬ごろになって、鏡泊湖に近い山中で、状況不明のまま、突然、「完全軍装を解け!」と命令が下り、部隊長から、終戦の詔勅が伝達された。
生き残った者、わずか三十余名。そして彼らはソ連兵に拉致され、シベリアに抑留されます。
【関連記事】石頭予備士官候補生の戦い
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-757.html
昨今、「自分のために働く」、「自分のために勉強する」のだとよく言われます。
しかし、人というものは、自分のためだけに努力できるほど、強いものではないです。
部活で疲れて帰宅して、サァこれからテストの勉強をしようと思っても、やっぱり眠ければ寝てしまう。
だって、勉強は自分のためなのだから、自分が、まぁ、成績はこのへんでいいかナ、と思ったら、寝るのも自分のためです。
しかし子のために、夜更けまで内職をしてくれたお母さん同様、弟や妹たちのために、あるいは家族のために、そう思うからこそ、人間、踏ん張れる。火事場の糞力だって出せる。眠い目をこすってでも、努力することができる。
要するに昨今の日教組やマスゴミの、「自分のために~」などという言葉は、日本人を骨抜きにするための世迷いごとでしかないといえると思います。
貧しくて学費が払えないのを、笑顔で財布を投げてくれた先生。
「どうだ、上等の靴を譲ってくれんか」と笑顔を向けてくれた教練の将校。
本人の努力もさりながら、挑戦的とも思える最大級の賛辞を書いてくださった先生。
恩師の心に報い、母校の名誉のためにもと必死に働く青年。
子供たちのためにと、毎日夜遅くまで、内職仕事をしてくれた母。
幼い弟や妹の学費にと、もらった給料をほとんと全部、家に送金していた青年。
ロシア貴族の家に生まれながら、ソ連の革命によって満洲に追われたロシアの家族。
まじめに働く青年と、そのロシア貴族の美女との淡い恋と、別離。
出征と、今生の別れ。
ダイナマイトを抱いたソ連戦車隊との凄惨な戦い。
ひとついえるのは、すくなくとも、そうしたひとつひとつのエピソードが、ことごとく、人として、家族への、学校への、恩師への、そして会社への、あるいは、避難民への
「信頼に応えて生き抜こうとする精神」
に裏打ちされている、ということではないでしょうか。
そして、戦後日本、とくに最近の日本に一番欠けているもの。
それが、
自分ひとりの人生ではなく、人は、親兄弟や恩師、先輩、家族、子や孫、友人など、いろいろな人に支えられて生きているということ。
その支えに自ら進んで応えて行こうとするところに、たぶん人間としての不屈の精神と成長が生まれ、温かみや、心からの本当の笑いやユーモアが生まれる。
高崎さんは、謙遜して、
「貧乏は、私に不屈の精神とユーモアを植え付けた」と述べているけれど、それは決して貧乏ということではなく、ほんとうは、人として、もっとも豊かなことといえるのではないか、と思います。
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