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渡辺錠太郎陸軍教育総監
渡辺錠太郎陸軍教育総監

先日、埼玉県の狭山が丘高校に、名物校長として名高い小川義男校長先生を訪ねさせていただきました。
小川校長といえば、ベストセラー「あらすじで読むシリーズ」などでご存じの方も多いと思います。カリスマ校長として教育界では知らない人のない人物ですが、このブログでは、「人間を矮小化してはならない」という記事で、小川校長の書かれた一文をご紹介させていただきました。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-641.html
小川校長の素晴らしい人格に、まさに感服したことに加え、驚いたのが、生徒たちの礼儀正しさ。
いちおう我々は「先生に案内されて廊下を歩く中年のおじさん達」だったのですが、その我々に、行きかう生徒たちが、みんな明るく元気の良い声で「こんにちは」と声をかけてくる。実にすがすがしい。
たまたま外に出たときに、片足にギブスをはめて松葉づえをついている生徒がいたのですが、小川校長は、「○○君、君の足の具合はどうかね?」とやさしく声をかけておられた。
全校生徒の顔と名前をちゃんと一致しておられる校長に、ますます感服した次第です。
学校というのは、教師や校長の一念によって、かくも校風というものが違うものかと、関心したのですが、忘れてならない学校のひとつに、「ノートルダム清心学園」という私学があります。
幼稚園から小中学校、高校、大学、大学院まで一貫した教育施設を持つマンモス学校です。
この学校の建学の理念は、「どんなにつらい境遇にあっても、それを与えられた十字架の一つとして受け止め、笑顔で自分の花を咲かせる」というものです。
そして、この学校の理事長が、渡辺和子さんです。
渡辺和子さんは、昭和2(1927)年のお生まれです。
9歳のとき、昭和11(1936)年2月26日に、父親を亡くしています。
そうです。二・二六事件で、杉並区上荻窪の自邸で殺害された陸軍教育総監(陸軍大将)渡辺錠太郎、その人です。
渡辺大将は、愛知県小牧市のご出身です。
煙草店を営んでいた和田武右衛門の長男として生まれます。
家が貧しかったために、小学校さえも中退しています。
19歳で農家の渡辺庄兵衛の養子となった渡辺は、「俺は勉強して医者になるんだ」と、陸軍に看護卒として入営した。
当時は、陸軍上等看護長になると医師開業免状を与えられたのです。
小学校さえ満足に出ていないのに、独学で毎日熱心に勉強をする渡辺青年の姿をみた中隊長は、渡辺に陸軍士官学校の受験を勧めます。
21歳のとき、渡辺は陸軍士官学校に第八期生として入学します。
そして29歳で陸軍大学を卒業した時には、なんと首席です。
陸大を卒業した渡辺は、歩兵第36連隊中隊長に任官し、翌年、日露戦争に出征します。
そして帰国後、大本営参謀となった渡辺は、翌年には元老山縣有朋の副官に任ぜられる。
41歳で歩兵第三連隊付きとなった渡辺は、その後、軍事研究のためにドイツへ留学、ドイツ大使館付武官補佐官、オランダ公使館武官などを歴任したあと、大正9年まで、欧州に滞在しています。
「海外の軍事情勢に精通し、平素給料の大半を洋書の購入に費やすほどの勉強家で学者軍人と呼ばれたほどの人であった」と陸大52期の桑原嶽さんが著書「市ヶ谷台に学んだ人々」に書いています。
昭和10(1935)年7月、渡辺錠太郎は、陸軍教育総監に就任します。
そしてその翌年の2月26日、二・二六事件が起こります。
東京市四谷区仲町3丁目(現:東京都新宿区)の内大臣斎藤實を襲撃した青年将校の一行は、途中二手に分かれ、高橋太郎少尉と安田優少尉率いる兵三十名が、軽機4、小銃10、拳銃若干を持って、赤坂離宮前から軍用トラックに乗り込んで、杉並区上荻窪の渡辺邸に向かいます。
午前6時、渡辺邸到着。
渡辺邸の正面入り口には、牛込憲兵分隊から派遣されて警護に当たっていた憲兵伍長及び憲兵上等兵がいたのだけれど、青年将校らは、これに機銃で対抗。警護兵二名を殺害します。
その間に裏口から回った一隊が、屋内に侵入。
すると、そこに渡辺錠太郎大将の妻すず子婦人がいた。
安田少尉「閣下に面会したい。案内してください」
すず子夫人「どこの軍隊ですか。襟章からみると歩三ですね(一緒に参加した高橋 太郎少尉は歩兵三連隊第一中隊・46期、後に死刑)。
帝国軍人が土足で家に上がるとは無礼でしょう。
それが軍隊の命令ですか。
主人は休んでおります。お帰りください」
安田少尉「私どもは渡辺閣下の軍隊ではない。
天皇陛下の軍隊である。どいてください」
すず子夫人は、立ちはだかったままそこをどかなかったそうです。
このとき、渡辺和子は、まだ9歳の少女です。
両親と一緒に寝ているところに、襲撃に気づいた両親が起き上がる。渡辺大将が咄嗟の判断で、和子を部屋の隅の机の下に逃がし、その間にすず子婦人が、裏にまわっていた。
銃殺された渡辺錠太郎大将
銃殺された渡辺

安田少尉らは、すず子夫人を突き飛ばし、渡辺大将の寝所に向かいます。
そして襖(ふすま)を開けると、いきなり軽機関銃で渡辺を撃ちます。
渡辺大将は、横になりながらこれに拳銃で応戦。
襲撃隊は、その渡辺大将の足を狙って、軽機を発射します。
軽機に狙い撃ちされた渡辺の片足は、骨と皮だけになる。
それでも応射をする渡辺に、襲撃隊は全身十数カ所に傷を負い、体には銃弾43発が撃ち込まれ、さらに、二刀を浴びて、こときれます。
この一部始終を、わずか9歳の渡辺和子さんが、すぐ近くで見ていた。
和子さんの証言です。
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彼等は機関銃を据えて父に向って射ち出したのです。
父は横ばいになりながら、ピストルで防戦したと記憶しております。
彼等はまず、父の脚をねらったように思います。
父が動けないようにするためでしょう。
私には、しかしまだ、何が、何のために起ったのか、よくわかりませんでした。
それで、自分の身をかがめて、時々顔を出して見ていました。
ふっと気がつくと、機関銃の音がやんでいました。
彼等はそれから父に斬りつけたのです。
みんながいなくなったあとに、父、渡辺錠太郎が、片手にピストルを持ったまま、畳の上によこたわっていました。
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和子さんはそれから血の海の中で、父の死体にとりすがり「お父様、お父様」と二、三回声をかけたそうです。
そして母を呼んだ。
ふたたび和子の証言です。
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お父様が、お父様が、と叫びながら、私は部屋の中を歩きまわっていました。
私は泣いていたと思います。
天井まで、父の肉が飛んでいたのや、雪が深かったのや、雪の中に点々と赤い血が落ちていたのを憶えています。
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渡辺錠太郎大将の長女政子さん(当時33歳)の証言です。
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母は両手をひろげ、兵たちが父の寝室へ行くことをさえぎったのでございます。
ところが、そのさえぎりもきかず、縁側づたいに父の寝室のほうへ回り、そこに機関銃を据えて、撃ったのでした。
父の体に当ったタマの数は四十三発。
肉片が天じょうにまでとびちり、それはむごい仕打ちでございました。
右フクラハギの肉は、機関銃の夕マでとぱされてなくなり、顔から肩にかけてはとどめのカタナ傷が二つ。
後頭部にはやはりとどめのピストルの一発がうちこまれ、穴があいておりました。
 
机のカゲにかくれた和子は、さぞかし、こわかっただろうと思います。
まだオカッパの少女でございましたが、そのオカッパ頭を押さえて、伏せていたそうでございます。
そのとき、机をブチ抜いて通って行ったタマが一発ございまして、その穴のあいた机は、いまも父の家にございますが、妹の話では、オカッパ頭をかすめて行くのがわかったそうでございます。
もし、もう少しそれておれば、妹も死んでいるところでございました。
なにしろ、狭い家でごぎいますから、家中璧といわず天じょうといわず夕マの跡だらけで、本当にむごいことをしていくと思ったものでございました。
それに皮肉なことにはあの軽機関銃の採用は、父がその必要性をはげしく説き、それが入れられて日本の軍隊でも使うことになったものでございますよ。
父は第一次世界大戦をオランダで見て、戦後ドイツの日本大使館にいたのですが、武器の発達をつぶさに見て、帰国後、その採用かたを具申したのでございます。
ところが、当時の風潮は軍縮時代でございましてね。
これを言ったため、父は参謀本部におれなくなり、静岡の連隊から満洲へとばされたものでした。
自分が採用方を言った軽機関銃に自分がやられる。
それも機関銃というのは、外で使うべき武器なのに、それをあの将兵たちは十メートルもはなれていない部屋の中で使い父を撃ったのです。
それと三十名の将兵の中に歩兵三連隊の兵がまじっていましたが、ここは父がいた部隊で、そのエリ章を見たときは、さぞかし父も無念であったろうと思います。
母はエリ章を見たとき、わが目を疑い、Chinaの兵隊がきたのかと錯覚さえ起したそうでございます。
将兵たちが引きあげて行った庭の雪の上にも血の跡が残されており、それを見たときは私は一体、このさき、日本はどうなるかとそんなことばかり思っていました。
母も明治の女といいますか、軍人の妻ですもの。
とり乱したりはいたしませんでしたねえ。
ただ、ボウ然の一語でございました。
午前中に検死がすまされ、父の遺体はホウ帯巻きにされましたが、二月二十八日に密葬、三月二十六日に葬儀をいたしました。
それにしましても、機関銃で四十三発もうったうえ、とどめの刀きずまで残し…。
数日経って「兵に告ぐ」という告が出たとき、やっと、私たちの不安はいくらか停まったのでございました。
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事件の生々しい情況が伝わってきます。
二・二六事件の背景については、松本清張が「 昭和史発掘(8)」の中で次のように書いています。
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農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和6年と昭和9年に大凶作があって深刻化した。
農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。
農村出身の兵と接触する青年将校が、兵の家庭の貧窮や村の飢饉を知るに及んで軍隊の危機を感じたというのはこれまでくどいくらい書いてきた。
そして青年将校らは考えた。
結局独占資本的な財閥が私利私欲を追求するために、こうした社会的な欠陥を招いたとし、それは政党がこれらの財閥の援助をうけて庇護し、日本の国防を危うくする政策を行っているからだとの結論に達した。
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昨今、過去の歴史について、いろいろ脚色がなされ、なにやら二・二六事件の若手青年将校たちは右翼であったかの如くに言われている節があります。
しかし、当時若手に流行していた考え方は、ご皇室尊崇ではなく、マルクス・レーニン主義による階級闘争主義です。
つまり、軍の内部にさえ、コミュニスト(共産主義者)的思想がまん延していた。
資本主義者が貧民を作っているのだから、貧民は決起し、資本主義者を殺してもよい。
敵対する者、自分たちと異なる階級(上とか下)の者に対してなら、なにをしても許されるというのが、共産主義です。
共産主義革命の実現のためには、対抗勢力は抹殺せよ・・・これが階級闘争主義です。
これに対し、二・二六事件の青年将校たちに対して陛下から戒厳司令部によって下された訓告は、以下のものです。
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下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ泣イテオルゾ
2月29日 戒厳司令部
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陛下の大御心は、血なまぐさいクーデターをのぞんでいません。
文中に明らかな通り、父母兄弟との関わりを大切にせよ、という。
人は決してひとりで生きているのではない。
父母兄弟がいて、自分がある。
その父母兄弟を泣かすことがあってはならない。
これが大和人、すなわち「和」の考え方です。
ふたたび、和子さんの証言を掲載します。
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私は、父を殺した人に対しては、憎しみを持ってはおりません。
けれども、直接手を下さないで、彼等を繰っていた人が憎いと思います。
ただ、父を殺した人達について云えば、男なら男らしく勝負をなさったらどうか。
父の脚を撃ってまず動けなくし、それから磯関銃というのは、あまりに残忍です。
父を殺すのに、少しは礼儀というものを知っていてほしかったと思います。
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陰で操っていた人というのは、コミュニスト達です。
日本人なら、正々堂々、男らしく勝負せよ、と和子さんは語っておられます。
日本人は常に正々堂々。親兄弟を大切にし、和と礼を尊ぶ。
そして「「どんなにつらい境遇にあっても、それを与えられた十字架の一つとして受け止め、笑顔で自分の花を咲かせる」、それが日本人だと、ボクは思います。
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