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インパール作戦
インパール999

じつは、このブログでは、これまでのいわゆる「定説」のようなものにたいし、まっこうから異なる「説」をいくつか建てさせていただいています。
たとえば、赤穂浪士における吉良上野介と主浅野内匠頭の確執は、巷間言われているような「厭味な爺の若者いじめ」のようなものではない、と書かせていただきました。
これは、山鹿流という皇室尊崇を説いた学問を学んだ内匠頭と、幕府将軍家こそ大事とする吉良上野介との思想の対立に端を発する事件であると、書かせていただきました。
どういうことかというと、山鹿流というのは、皇室尊崇を説く学問です。
もともと学者だった山鹿素行は、47歳のとき、「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」という本を書きます。
この「中朝事実」を確信したとき、山鹿素行は、「五十年の夢、いっときに覚(さ)め申し候」と述べている。
何を確信したかというと、孔子の教えはありがたいが、考えてみると、そのありがたい教えを実現しているのは、なんのことはない、日本である、と確信した。
~~~~~~~~~~~~
天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、
生々無息、造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。
聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、
人民をして是れによらしむるゆゑん也
~~~~~~~~~~~~
たびたび政権が後退し、虐殺非道が行われるChinaは「中華」などと、とてもじゃないが言えない。ご皇室を尊び、ご皇室の元に君民一体となった国家を築き上げている日本こそが、「中つ朝」、であり、「中華」そのものである、と説いたのです。
で、本の名前が「中朝事実」なのです。
我が国は、天皇が、皇祖、天照大神(あまてらすおおみかみ)の昔より、至誠の道を歩み、人民もまた、自らを戒め、徳に向って生きている。
これぞ、万民すべて安らかで、天下万国すべてが平穏で無事な状態であり、これぞ“天壌無窮”の神勅の意味である。
山鹿素行は、自らの発見への感動のあまり、これを本にし、江戸に指南所を開いて子弟教育をします。
ところがこれに「待った」がかかった。
かけたのは、幕府です。
日本の統治をしているのは幕府であり、天皇こそが日本の長であると説く山鹿流は、幕府にとって都合が悪かったのです。
で、山鹿素行は江戸、所払いになる。
要するに江戸を追い出された。
落ちた先が、播州赤穂藩です。
当時の赤穂藩主は、浅野内匠頭のオヤジさんです。
オヤジ殿は、山鹿素行を、「天下第一の高名な先生である」として、藩の家老待遇で迎えます。
そして、自らの倅(せがれ)である内匠頭や、若き日の大石内蔵助などを子弟として、山鹿素行直々に教育を受けさせた。
つまり、内匠頭や内蔵助は、子供のころから山鹿流を自らの血肉として育ったわけです。
その内匠頭が、ある日、幕府の勅使下向の接待役を命ぜられます。
相方は、幕閣の由緒ある家柄の吉良上野介です。
江戸時代というのは、いまでは考えられないほど、身分の上下がやかましかった時代です。
そうしたときに、天皇の勅使をどうみるか。。。。
勅使は天皇の名代です。
将軍は、征夷代将軍です。
その勅使を、将軍の上とみるか、下とみるか。
吉良上野介は幕閣です。当然、将軍家が上座です。
内匠頭は、山鹿流です。勅使が上座です。
こうなると勅使接待の際の、他の者の席次から料理を出す順序、お部屋の位置にいたるまで、ことごとく違ってくる。
両者は激しく対立します。
けれど、勅使接待役の総責任者は、吉良上野介です。
意見が対立したら、内匠頭の案は退けられます。
いまでもそうだけど、この手の対立というのは、抜き差しならないところまで高まりがちです。昨今の保守同士の理論の対立、たとえば、親米か反米か、女系天皇容認か非容認かなど、同じ保守同士でも、極端な対立が生まれる。
そしてこういう理論的対立は、互いに相手を「絶対に許せぬ!」なんてところまで発展させてしまう。
こらえにこらえていた内匠頭が、ついに怒りを爆発させたのが、殿中松の廊下です。
彼は吉良上野介の額に一太刀あびせてします。
そして停めにはいった梶川殿に、「御止め下さるな梶川殿。五万三千石、所領も捨て、家来も捨てての刃傷にござる。武士の情けをご存知あらば、いま一太刀、討たせて下され、梶川殿」と、まぁ、こういう名セリフが実際にあったかなかったかは別として、彼は刃傷事件を起こしてしまう。
内匠頭は、切腹となり、赤穂藩はおとりつぶし。
旧赤穂藩士たちは、浪人し、ある日、吉良上野介の家に押し入り、意趣を晴らした、というのが、赤穂浪士の物語です。
そしてこの討入の日、内蔵助は、「山鹿流陣太鼓」を叩きます。
後年、歌舞伎や文楽、講談といった江戸の町芸能で、赤穂浪士は盛んに上演されますが、吉良と内匠頭の確執(じいさんの若者イジメ)が、実は山鹿流という思想上の対立に根差したものという「説明」は、まるでされません。
そういうことは、幕府のお膝元の江戸での興行で、いちいち語ることができないからです。
だから、そのあたりの説明は、いっさいなく赤穂浪士は上演され、最後に内蔵助の討入の際に、吉良邸の隣りの上杉のお殿様に、「うぬ。山鹿流陣太鼓の音、内蔵助め、やりおったなっ!」という名セリフで、印象付ける。
このセリフが出たところで、観客は、「ああなるほど、冒頭の爺様の若者イジメは、実は山鹿流があったのか」と知るわけです。
こういうハナシは、芝居では説明されず、芝居小屋の帰り道に、お父さんが子供に言い聞かせる。
それで子供たちは、なるほどと納得する。
「江戸の文芸は、芝居の途中と帰り道に、二度楽しめる」と言われるゆえんです。
ちなみに、明治天皇が崩御された際に、当時まだ6歳だった昭和天皇のお守役だった乃木希典は、昭和天皇のもとを訪れ、涙を累々と流しながらこの山鹿流の講義をしています。
昭和天皇が、そんな乃木の姿を見て、「爺は、どこか遠くにでかけられるのか?」と可愛い声で質問なされた。
乃木は何も答えず、滂沱の涙を流し、その足で自宅に帰ると、妻とともに割腹し殉死しています。
乃木は幕末の長州藩士であり、吉田松陰の松下村熟生です。
その松下村塾は、そもそもが山鹿流兵学師範所です。
塾頭の吉田松陰は、11歳で毛利公の御前で「山鹿流」の講義をし、藩主から過分ともいえるお褒めをいただいた人でもあります。
そして幕末、山鹿流は「尊王攘夷」の言葉を生み、倒幕を実現し、明治国家を建設しています。
いいかえれば、明治という国家の中枢をなした思想が、山鹿流だった。
ですから戦前は、赤穂浪士といえば、多くの人は、吉良と内匠頭の確執は、思想上の対立であったと理解していた。
その子弟たちが起こしたのが明治維新であり、ですから明治国家における中心思想はまさに山鹿流にあった。
このブログでは、他にも、朝鮮進駐軍も、東南アジアにおける華僑も、実は欧米人の現地支配のための道具であった、と書かせていただきました。
言語の異なる現地国家を支配するに際しては、その国の言語に通じた最貧民層のマイノリティ(少数民族)に、ありとあらゆる政治的権限と利権を与え、彼らをいわば「道具」として使うのがセオリーです。
東南アジアにおける華僑というのは、もともとは明が滅んで清が興ったときに、清のいわば「平家の落人狩り」にあってカンボジアやタイ、ベトナムのジャングルの奥地に隠れ住んだ人々がモトになっています。
華人は、ジャングルの奥地で、明人の習俗を保ったまま、約200年間、極貧生活して過ごします。200年の時間は、当然彼らに、現地語も学ばせた。
貧しいジャングル生活です。
家族で互いに支え合わなければ生きていけない。
自分たちの居所を清にご注進する裏切り者が出れば、これはもう殺すしかない。
そうやって、彼らは200年間、ひっそりと隠れて生きてきた。
その華人たちに、欧米列強がここを植民地化したとき、ビルマ人や、ベトナム人といった現地の人々の統治の片棒を担がせます。
華人たちは、それまでの超貧乏生活から一変、政治権力と支配権を握り、大金持ちになる。
統治のためには、人が足りません。
だから遠い親せきを頼って、Chinaから人を呼び寄せる。
一方、Chinaは、清の末期です。治安も悪い。
だから華僑に親戚のある者は、その縁故を頼って、東南アジアに次々と国を捨てて合流していく。
華人たちの人口が増えて行く。そうして支配者である欧米人と華僑のビジネスパートナーの関係が不動のものになっていった。
そこへ日本が登場します。
日本は、人種平等を唱え、東亜各国の独立、植民地支配からの解放を説きます。
それは、華僑たちにとっての利権の喪失を意味します。
だから当時の華僑は、徹底した日本排斥運動を起こす。
その中で犠牲になった者のひとりが、実在したハリマオー、谷豊の妹です。
6歳になる妹は、抗日デモをする華僑の若者たちに、生きたまま首を引きちぎられて殺されます。豊の弟(妹の兄)は、自分の妹の首を、まるでサッカーボールのように蹴りあげて行進する華僑のデモ隊を、その眼で見ている。
戦後、朝鮮進駐軍なるものが、旧日本軍の装備一式を与えられ、彼らが「憧れの」特攻隊の衣服を身にまとい、旧日本軍の三八式歩兵銃を手にして、日本人に対して暴虐の限りをつくせたのも、同じ「現地語を話せるマイノリティによる支配」の構図です。
しかし朝鮮人たちは、やりすぎた。
調子に乗って、日本人に対して暴行や強姦をはたらくのみならず、米軍(GHQ)の兵隊やその家族、妻子にまで手を出し、暴行し、強姦をはたらいた。
そのため、せっかく駅前の一等地を確保し、仕入れ費用ゼロ円で物資を手に入れ、これを売って歩いて、巨額の財産をこしらえたけれど、最後、GHQが去る段になって、さしものGHQからも、「朝鮮人たちは、半島に全員帰そう」という声があがる。
マッカーサーもそう指示したし、吉田茂も、そうしてほしいと進言している。
ところがこれに反対したのが、当時の与党の日本の政治家たちです。
なにせ、莫大な金品が朝鮮人から献金された。
だから、「まー、そこまでカタクナにならなくても、朝鮮人の中にも立派な人はいる(誰だ?)のだし・・・」などとお茶をにごし、結果、朝鮮人たちは二一世紀のいまになっても、日本で、韓国人や北朝鮮人としての徴兵の義務すら負うことなく、のうのうと暮らしている。
要するにこの件でもっとも悪いのは、当時日本にいた与党の売国政治屋たちであるということは、特筆すべき事柄です。
ほかにもいろいろと、このブログでは、いわば現代の「定説」となっている事柄に対して、別な角度から、スポットライトをあててきました。
そしてその中のひとつが、インパール作戦に関する記述です。
インパールでの戦闘は、日本軍の大敗です。9万の将兵が出撃し、戦士3万名、戦病者4万名、五体満足で帰還できた者は、わずか2万にすぎません。
ある意味歴史的敗北戦といえます。
この戦いに関しては、どの本をみても、どのサイトを見ても、擁護する書き方をしているものはひとつもない。
「戦場でもっとも大切な兵站を無視した無謀な戦い」
「牟田口中将は、おバカ」
「はじめから意味のない戦い」
など、もう、あらんかぎりの罵声が浴びせられている。
しかし、不思議なことがあります。
昭和19年の出来事です。
すでに戦線は苦境に至っており、日本は防衛領域の縮小を図ろうとしていた時期だったにも関わらず、なぜ、あらためてインドへ向けて出撃しようとしたのか。
兵站がないのは、行く前からわかっていることです。
にもかかわらず、敢えて、出撃したのはなぜか。
無謀な作戦、意味のない作戦だったというけれど、それならなぜ、英国軍はインド方面におけるその総力ともいうべき15万の大軍を出撃させ、これを迎え撃とうとしたのか。
英国軍15万に対し、日本軍は9万の兵力。それにインド国民軍4.5万人がいた。
にもかかわらず、なぜ日本軍は、インド国民軍を6千名しか戦いに参加させず、4万のインド国民軍を温存したのか。
15万対9万という大軍の歩兵陸戦の大会戦です。
世界史に残る有名な歩兵大会戦といえば、ナポレオン最後の戦いといわれる“ワーテルローの戦い”(フランス軍12万、英欄プロイセン連合軍14万)。1870年のセダンの戦い(フランス軍12万とプロイセン20万の戦い、日露戦争の奉天戦(日本軍25万、ロシア軍31万)があげられます。
兵員規模とその激しさからいって、どう考えても、すくなくとも「勝った」英国軍からしてみれば、世界的名勝負の大規模会戦であるにも関わらず、英国内で、このインパール会戦について、「誇る」という姿は、ついぞお目にかかれない。
こうなると、巷間言われていることと、やはりなにか違いがあるのではないか。
それが、昨日の記事、「勝利の要諦は至誠と愛情と情熱・・・藤原岩市陸軍中佐」です。
実は、昨日の藤原機関の記事は、それ以前にいくつか書いた「武道」に関する記述とセットになっています。
武道に関する記事で、ボクは、武道における「勝ち」は、からなずしも「相手をねじ伏せ、叩きのめし、斬り伏せるもの」ではない、と書かせていただきました。
スポーツにおける「勝ち」は、試合に勝つことです。
そのためには、体を鍛え、技を磨く。
しかし、日本武道における勝ちは、試合に勝てばよいという考え方をとりません。
試合というのは、どんな場合でも、単に「模擬戦」にすぎない。
本当の勝利は「克つこと」というのが、武道における勝利の考え方です。
その場の勝ちだけでなく、最終的、究極的な勝ちをもって、勝ちとする、それが武道における「勝ち」の概念です。
たとえば、小柄な男性が、好きな女性とデートの最中に、大男に囲まれて、女性を差し出せと要求される。小男が拒否する。小男は、ハンゴロシになるまでボコボコに殴られる。
普通なら、寝転がって「うう・・」となってしまう。
しかし「心・技・体」、「心」を鍛えたこの小男は、「俺の女に手を出すんじゃねえ」と言いながら、殴られても殴られても何度も立ち上がる。気を失っているのにまだ立ち上がる。
いいかげん気持ち悪くなった大男たちは、それで気持ち悪くなって、帰っていく。
女性は暴行されずに助かる。
殴り合いの勝ち負けでいったら、このケンカは、大男の勝ちです。小男は負けた。
しかし、大好きな女性を護りきったという点、(目的を達成した)という点からみれば、小男は「勝利」したことになる。
どっちが勝ったといえるのかといえば、両方勝った。
それが武道です。
武家に生まれたら、たとえ武芸に秀でていなくても、たとえ小柄で非力でも、たとえそのとき病んでいても、すでにトシをとっていても、戦うべき時には戦わなければなりません。
相手が野盗の群れのような大軍だったら、戦えば死ぬかもしれない。
しかし、たとえ自分が死んだとしても、野盗が盗みをあきらめて帰ってくれれば、みんなの生活の平穏が保たれる。
そのために自分が死んだとしても、みんなを護るためなら、喜んで戦い、死ぬ。
それは武士における「勝ち」を意味します。
マンガ「明日のジョー」で、矢吹ジョーが、ホセ・メンドーサとの試合で、殴られても殴られても立ち上がるシーンがありました。
ホセは、いいかげん気味悪くなって、さらに矢吹ジョーをボコボコにします。
ジョーは、もはやガードの姿勢をとることすらできない。
それでも立ち上がる。何度も立ち上がる。
普通、常識でいったら、タオルがはいって、試合はジョーの負けです。
マンガの試合結果がどっちだったかは忘れてしまいましたが、なんとなく覚えているのは、この試合で、ホセは、ジョーに対するあまりの恐怖のために、髪が真っ白になり、現役を引退してしまう。
リングの上の勝負ではホセが勝った。
けれども、その結果ホセは引退し、ジョーは、次の対戦に臨む。
ホセも勝った。ジョーも勝った。
ふたりともよく戦った。
要するに武道は「心・技・体」なのです。
スポーツは、逆に「体・技・心」。
なにがあっても負けない強い心、自らの死を賭してでも目的を貫き通す強い心を養う。それが日本の武道であり、武士道の精神です。
スポーツが単に体を鍛え、試合に勝つことを目的としていることに対し、武道は、心を鍛えるために技を習得し、体を鍛える。
まったく発想が逆です。
そうした武道の「心」からインパール作戦を考えると、巷間言われている筋書きとはまったく別なストーリーが、その「作戦」から見えてきます。
インパール作戦は、インド・ビルマ方面における、日本軍のほぼ全軍と、英国のインド駐屯隊のほぼ全軍が会戦した大会戦です。
実際、英国はインパールに15万の兵力を展開し、対する日本軍は9万、この時点でビルマにいたインド国民軍4.5万を合わせると、兵力はほぼイーブンです。
しかし牟田口中将は、インド国民軍の本体をインパールに参戦させていません。
そして、約4.5万のインド国民軍の兵士のうち、どうしても一緒に戦いたいという6千だけを連れて、インパールへ向けて出陣しました。
インド国民軍を合わせれば、兵力はイーブンになるのに、わざわざインド国民軍をおいてけぼりにしている。
ふつう、これはあり得ません。
ただでさえ、火力が足らないのです。
これにさらに兵力不足が重なれば、これはもう、わざわざ負けに行くようなものです。
しかも補給がありません。物資がないのです。
「インパールは補給を無視した無謀な戦いである」などとよく言われますが、補給物資がすでにないことは、牟田口中将以下、軍の参謀たちも、参加した兵たちも、みんなわかっていたことです。
補給路の確保とかの問題ではありません。そもそも補給すべき物資がハナからないのです。
それでも日本軍は、ジャングルのなかを、遠路はるばる行軍します。
そして、インパールの戦場に向かった。
そして2か月を戦い抜いた。2か月というのは、ものすごく長い期間です。
かのワールテルローの戦いだって、たった1日の大会戦です。
補給がないということは、単に食料や弾薬がないというだけにとどまりません。
医薬品もないのです。
場所はジャングルの中です。
山蒜(ひる)もいるし、虫もいる。
マラリアもある、デング熱もある、アメーバー赤痢もある。
そして戦いの早々に、日本軍の指揮命令系統は、壊滅します。
それでも、ひとりひとりの兵たちは、ほんの数名の塊(かたまり)となって、英国軍と戦い続けます。
ここで問題です。
日本軍と撃ちあった英国軍の将兵は、銃弾の音が止んだあと、日本軍の遺体を見て何を感じたでしょう。
自分たちは栄養満点の食事をとり、武器弾薬も豊富にもっています。
そして自分たちのために戦っています。
対する日本軍は、他人(インド人)のために戦い、武器・弾薬もなく、食料もなく、病に侵され、怪我をして血まみれになって、その遺体をみれば、まるで幽鬼のようです。
ガリガリに痩せ細った、まるでガンの末期患者の群れのような姿で、弾のない銃剣を握りしめてそこに死んでいる。
殺しても殺しても向かってくる。
最初のうちは、勝った勝ったと浮かれたかもしれません。
しかし、それが何日も続きます。何回も続きます。
軍はとっくに崩壊しているはずなのに、ひとりひとりが戦士となって向かってくる。
降参を呼び掛けても、降参しない。弾も持たずに、銃剣ひとつで向かってくる。
そんな日々が60日間も続いたのです。
人間なら、誰もがそこに「何か」を感じる。
英国の兵士たちも、「何か」を感じたはずです。
ようやく日本軍は潰走をはじめます。
街道を撤退しはじめた。
マラリアに犯され、敵弾を受けて怪我をし、食い物もないガリガリに痩せ細った姿で、街道をよたよたと下がり始めます。
そこには、日本の将兵の何万もの遺体が転がり、後年その街道は白骨街道と呼ばれます。
ここにひとつ、注目すべき点が2つあります。
ひとつは、「完全潰走常態の日本軍の将兵を、英国軍は追っていない」ことです。
敵をせん滅することがヨーロッパ風の戦いです。
しかし、武器も持たずによたよたと撤収をしはじめた日本兵に対し、英国軍は追撃をしていません。
「できなかった」のです。
病人や半死状態になりながらも苦しい戦いを、戦いきった男たちを前に、騎士道を誇りとする英国軍の将兵は、それを「追いかけ」、「せん滅する」などという非道な精神は、とてもじゃないがもてなかった。
ただ、遠目にそれを見届けることしかできなかった。
ある意味、恐ろしかったのかもしれません。
ホセとジョーの戦いと同じといったら、叱られるかもしれません。
でも、ねずきちには、それと同じ「心」がはたらいたと感じられてならない。
インパール作戦について、現在にいたるまで、英国軍が日本軍を打ち破った誇りある戦いとしてこれを称賛しているという話は、まるで聞きません。
15万対9万の陸戦という、ヨーロッパ戦線おいてすらあまりなかったような世界的大会戦でありながら、英陸軍は、まったくこれを誇ろうとしない。
おそらく、この戦いに参加した、英国の将兵にしてみれば、とてもじゃないが、自分たちが「勝った」などと、胸を張る気にはとうていなれなかったのではないか。
なるほど、戦いのあとの一時期、一度だけ、インドの英国軍がデリーで戦勝記念式典を開催しようとしたことはあります。
しかし、実戦に参加せず、安全な場所にいて指示だけ出していた連中が、得々として戦勝記念祭を開催しようとしても、現地の親英的なインド人たちでさえ眉をひそめたし、実際に戦った英国軍の将兵も、それをこころよしとはしなかった。
英国軍は、なるほど戦いに「勝ち」ました。
しかし、戦いに参加したすべての英国軍将兵たちにとって、その戦いは、ひとつも気持ちの良いものではなかった。
むしろ、どうみても「大勝利」したはずの戦いで、彼らは自分たちの「敗北感」をひしひしと感じていたのではないでしょうか。
すくなくとも、騎士道精神を誇りとする英国の将兵には、それが痛いほど感じられたのではないかと思うのです。
牟田口中将以下の日本の将兵たちも、自分たちの戦いの相手が、騎士道精神を持つ英国兵士なら、かならず伝わる、そう思えたから、彼らは死を賭した戦いをしたのではないでしょうか。
だから「負ける」とわかっている戦いに、敢えて臨んだのだし、最初から死ぬつもりで出撃した。
当時生き残った日本兵が書いたどの本を見ても、戦いの最初から最後まで、日本兵の士気は高かったと書いています。
たとえば、社員数10万人の大手の企業で、負けるとわかっている戦いをした。
実際会社はそれで給料も払えずに倒産したら、そりゃあ社長はボロカスに言われます。
しかしひとりひとりの社員が、あるいは社員全員とはいいません。
中間管理職のみんなが、「自分たちのしていることは、社会的に意味のあることだ」という信念を持っていたら、おそらくその会社は倒産しても社員たちは、それでも製品を作り続けるだろうし、士気も高い。
インパール作戦は、そもそも「インド独立運動を支援する」ために組まれた作戦です。
その頃の日本軍は、すでに退勢にたたされていたのであって、戦線は縮小の方向に向かっていた。
にもかかわらず、インドという大陸に、第十五軍は進軍した。
インドの独立のために。
自らを捨て石とするために。
2つめにあげられるのは、餓鬼や幽鬼のような姿で街道を引き揚げる日本の将兵たちが、誰一人、街道筋にある村や家畜、畑を襲わなかったことです。
お腹も空いていたろうけれど、それでも誰一人、村を襲ったりしなかった。
彼らは、飢え死にしても、武士だった。
インパール作戦について、いろいろな人が、いろいろなことを書いています。
それに対して、インパール作戦に参加し、生き残った人々からは、なんの反論もされていません。
しかし、ひとつだけいえることは、インパール作戦を生き残った人たちは、インパール作戦を、「インパールの戦い」とは、いっさい認めなかったということです。
他の戦いは、たとえば硫黄島の戦いにしても、拉孟(らもう)の戦いにしても、「戦い」です。真珠湾は「攻撃」です。
しかし、インパールはいまだに「インパール作戦」です。
「戦い」は、目的の如何に関わらず、敵が攻めてきたら防戦しなければならない。
だから「戦い」と呼びます。
しかし、インパールは「作戦」です。
「作戦」というのは、目的をもって、能動的に行うものです。
だから「作戦」なのです。
その目的とは、ひとことで言ったら、「インドの独立に火をつけること」です。
インパール作戦には、当初大本営はガンとして反対していた。
それにたいし、「どうしても実行を!」と迫ったのは、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズでした。
チャンドラ・ボーズは、インド独立の志士です。
そして大本営は、チャンドラ・ボーズの意思を受け入れ、「作戦」の実施を牟田口中将に命じます。
牟田口中将以下のビルマ駐屯隊の将官たちは、それが「どういう意味を持っているか」。
その「作戦を実施」することが、自分たちの運命をどのようなものにするか。
彼らは戦いのプロです。
瞬時にしてその「意味」も「結果」も悟ったであろうと思います。
そして、すべてをわかった上で、作戦命令を実行した。
だから彼らは、インド国民軍の主力をまるごと温存したのではないでしょうか。
自分たちは、ここで死ぬ。
あとは君達で頑張れ。
そこに、おおきなメッセージが込めれられているように思えてならないのです。
普通なら、世界中どこでもそうであるように、この種の戦いでは、むしろインド国民軍を先頭にします。それが世界の戦いのセオリーです。
なにせ、インドの独立のための戦いなのです。
インド国民軍を先頭に立てて、なにが悪い。
しかし、牟田口中将以下の日本の将兵は、それをしませんでした。
むしろ自分たちが先頭に立ち、インド兵を助けた。
軍だけではありません。
個別に数名のインド兵を率いた日本の下級将校たちも、みんなそうした。
それが史実です。
「この戦いで、日本は負けるかもしれない。
しかし、ここで戦った日本兵の心は、インドの人々の心に残り、かならずやインドの人々の決起を促すであろう。」
インパール作戦は、まさに「肉を切らして骨を断つ」という武道の奥義に匹敵する作戦だった。
そして「作戦」は成功し、間もなくインドは独立を果たします。
だからインパールは「作戦」なのではないでしょうか。
さらに付け加えるならば、英国軍です。
英国にも日本の武士道に匹敵する騎士道精神が息づいています。
命を賭けた日本の将兵の戦いぶりに接したとき、たとえそれが国益であったとしても、英国の将兵たちは、果たして自分たちがインドを治めていることに、なんの意味があるのか、そんな気にさせられたのではないでしょうか。
作戦の全体を見る者、実際に日本兵と干戈を交えた英国の騎士たちは、インパールで日本の武士たちが示した、その「心」に気付いた。
実際、インパール作戦のあと、英国のインド駐屯隊が示したインド人の独立運動(英国軍に対する反乱軍)への対応は、当時の世界の常識からみて、あまりにも手ぬるいのです。
まるでやる気が感じられない。
ガンジーたちの非暴力の行軍に対して、銃を構えたまま、ほとんど発砲すらせずに、これを通しています。
それ以前の英国軍なら、デモの集団のド真ん中に砲弾を撃ち込んでいる。
そして大東亜戦争のあとに行われた東京裁判では、なんと英国は、まだ独立も果たしていないインドから、わざわざ代表判事を送り込んでいます。
そうです。パル判事です。
そしてそのパル判事が日本を擁護する判決付帯書を書くことについて、当時の英国はまったくこれを容認しています。
なぜでしょうか?
どうして英国はパル判決を黙認したのでしょうか。
ねずきちは思うのです。
世界がどんなに歪んでも、わかる人にはわかる。
パル判決書は、インパールのメッセージを受け取った英国騎士と、戦い、散って行った日本の武士たちがこの世に送りこんだ、正義の書だったのではないか。
ねずきちには、そんな風に思えてならないのです。
おそらく、パル判事や、牟田口氏、インパール作戦の英国側指揮官ウィリアム・スリム中将に、「そうなのではないですか?」と問うたとしても、彼らは、笑って何も語らないと思います。
なぜなら彼らは、まさに武士であり、騎士であるからです。
そして武士であり、騎士であるからこそ、敵味方の将兵に多くの死者を出したことへの悔いを持ち、それがあるから、いっさいの言いわけをしない。
しかしだからと言って、彼らの行った事実を、うわっつらだけみて、安全な場所にいるわれわれ後世の人間が、批判するのは間違いだとボクは思います。
それこそ卑怯者のすることです。
インパール作戦は、まさに世界史に残る「男たちの戦い」であった。
すくなくとも騎士道を持つ英国陸軍には、それがわかった。
わかったから彼らは、世界史に残る大会戦であるインパールの戦いについて、それを無用に誇ったり、記念日を作って祝ったりしない。
ねずきちはそう思っています。
インパール作戦に対する評価として、上記のような評価は、もしかしたら本邦初かもしれません。
異論も多いと思います。
しかし、ひとつだけ言わせてください。
スポーツにおける「勝ち」と、戦いにおける「勝ち」は、まるで異なるものであるということをです。
【参考記事】
◆勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人
 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-712.html
◆チャンドラ・ボーズ
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-668.html
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