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藤原岩市陸軍中佐
藤原岩市

大東亜戦争の頃、東南アジア地域における「F機関」といえば、ビルマやマレーシア、インド、インドネシアなどの独立運動を支援した、日本の防諜活動機関として有名です。
ところがこのF機関、発足当時が6名で、最大増員時でも、人数はわずか30名ほどしかいませんでした。
F機関のリーダーは、藤原岩市陸軍中佐です。
そして藤原中佐からして、現地の言葉は話せないし、それ以前にはマレーやインドの地を踏んだこともない。
現地関係者とも、事前には何の縁もなかった。
彼の部下たちにしても、それ以前に海外勤務の経験はありません。
この種の防諜活動の実務経験もない若手ばかりです。
後年、藤原中佐は、英国人将校の質問に答えて、次のように語っています。
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私は開戦直前に、何の用意もなく、準備もなく、貧弱きわまる陣容でこの困難な任務に当面し、まったく途方に暮れる思いでした。
そして、自分にできることは、敵味方の違いを越えた純粋な人間愛、そして誠意、またその実践しかないと思い立ちました。
英国もオランダも、この植民地の産業の開発や、立派な道路や、病院や学校や住居の整備に、私たちが目を見張るような業績をあげています。
しかしそれらは単に、自分たちのためのものであって、現地の人々の福祉を考えたものではない。
そこには絶対の優越感と驕りがあるだけで、現地の人々に対する人間愛や思いやりがありません。
東亜の人々は、愛情と自由に飢えています。
だから私は、私の部下と共に誓い合ったのです。
敵味方、民族の違いを越えた愛情と誠意を、人々に実践感得させる以外に道はないと。
そして、至誠と愛情と情熱をモットーに実践してきました。
すると人々は、あたかも慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように、われわれにしがみついてきたのです。
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藤原中佐の心は、マレーシアを独立に導き、インドもまた、独立に導きました。
彼の行動は、至誠と愛情と情熱に貫かれていました。
それがインドの民衆の心を揺り動かしたのです。
インドの独立といえば、日本では最大の功績者はガンジーであるといわれています。
たしかにガンジーの非暴力運動も効果をあげたのは事実です。
しかし人間というものは、単に非暴力や不服従といった哲学や道理だけでは、国民的決起行動という命がけの集団的行動に至ることはありません。
そもそも約300年間もの長きにわたり、インドは英国の支配を受けていたのです。
300年の間、インドの人々は英国人の下で去勢された家畜のように生きるしかなかった。
誤解をおそれずにいうなら、去勢された家畜が非暴力を謳ったとしても、施政者にとっては怖くもなんともないし、飼い主に対する強力な抵抗運動を支える力にはなりません。
まして、永い年月にわたる支配=被支配の構図の中には、様々な利権構造もあるし、確立された社会制度もある。
それらを超えて、人々が命がけの独立運動に動いた背景には、ガンジーの哲学と闘争だけでなく、民衆の運動の起爆剤となる事柄が必要だったのではないでしょうか。
そしてインドにおいて、その起爆剤となったもの・・・それは間違いなく藤原中佐が構築した「インド国民軍」であったといわれています。
インド国民軍(Indian National Army、略号:INA)というのは、大東亜戦争の中で、日本の支援の元に構築されたインド解放のための革命軍です。
インド国民軍は、リーダーにチャンドラ・ボーズを仰ぎ、その総兵力は最盛期には、45000人にも達しています。
インド国民軍は、「自由インド」「インド解放」をスローガンにして「自由インド仮政府」を樹立し、昭和18(1943)年10月には、米英に宣戦布告を行っています。
そして日本軍とインド国民軍が呼応して行った作戦が、昭和19(1944)年3月から6月まで行われた「インパール作戦」です。
インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールでの軍事作戦には、92000名の兵力が動員されました。その中には約6000名のインド国民軍が参加しています。
これに対し英国軍は、約15万人の兵力を投下。重火器装備をそろえ、日本軍の進出限界点(攻撃の限界点)であるインパール平原で一気に反攻し、これをせん滅する作戦を固めます。
すでに大東亜戦争の末期です。
英国軍の豊富な火力に対し、日本軍にはろくな装備がない。
しかも補給路を完全に遮断されたてしまいます。
糧食の補給もなく、銃弾さえも乏しい中で、日本はインド国民軍兵士とともに、三か月もの長きにわたって、死地を戦い続けます。
そして大敗した。
日本軍の犠牲者は、戦死38,000名、戦病40,000以上です。
インド国民軍兵士は、なんとかチンドウィン河まで帰還できた者が2600名。そのうち即時入院を要する傷病者が2000名。その後戦死400名。餓死および戦病死1500名です。
インパール作戦は完全な失敗作戦だったとよく言われます。
インパール作戦といえば、牟田口中将が馬鹿だった、無策だった等々、いろいろな書きものを見ると、ボロクソに書かれています。なかにはインパール作戦は、作戦目的すらなく単に牟田口中将が功をはやっただけ、意味のない作戦だったなどと、しかめつらしく解説しているものもあります。
たしかに多くの日本兵と、インド兵が亡くなり、部隊も潰走しました。
敗軍となったのです。何を言われても仕方がない。
味方の将兵に、大損害を出しているのですから、その責任は重大です。
しかしこの作戦が、まるで意味のない作戦で、単に牟田口中将の功名心だけの無策な戦いにすぎなかったとするなら、どうして英国軍が15万もの大軍を展開し、重火器を備え付けて徹底した防御線をひいたのかの説明がつきません。
つまり、この作戦は英国側にとって、それだけ脅威のある、必死の防衛をしなければならない「重大な」、「的を得た」作戦だったのです。
インパール作戦の作戦目的は、第一に英軍反攻の集結地を潰す事にあります。第二がインド革命の支援、第三が援蒋ルートの遮断です。
ちなみにインパール作戦の作戦目的について、あたかも援蒋ルートの遮断だけにあったかのように書いているものも多いですが、これは違います。
当時、仏印・香港・外蒙・ビルマ(ラングーン~昆明)は日本が制圧しており、既存の援蒋ルートはほぼ遮断されています。
この当時に残っていた援蒋ルートは、輸送機のヒマラヤ越えルートだけです。
輸送機のヒマラヤ越えだけが狙いなら、航空機作戦を行えばよく、陸軍の大部隊が進軍する必要はない。
進軍するには、進軍を要するだけの理由が必要です。
そしてその理由の最大のものは、「英軍反攻の集結地を潰す」というものです。
仮にもし、インパール作戦が日本側の勝利に終わっていたらどうなったかというと、英軍は反攻の拠点を失い、さらにインド国民軍本体約4万名のインド侵攻を招き、これにインド国内の革命分子が呼応する。
そうなったときには、英国領インドの国内に、どれだけの兵力が誕生するか想像もつかない事態を招き、英国のインド支配は、根底からこれを揺さぶられることになります。
それがわかるからこそ、英国も必死の防衛をしたのであり、だからこそ日本軍に倍する15万もの大軍を、英国本土からはるばる派遣したのであり、ヨーロッパ戦線でたいへんな時期にありながらも、インパールに重火器を取りそろえて、この戦いでの完全勝利を期したのです。
もし日本軍の進軍が意味のないものなら、余計な兵力を割く必要もないのだし、それでもあえて気になるというなら、空爆でもして損害を与えておけばよいのです。
英国が大軍を割いたのには、それなりの理由があったし、日本軍にもれっきとした作戦目的があったのです。
そもそも大本営の南方作戦には、当初からインド攻略は含まれていません。
まして大東亜戦争後期になると、むしろ戦線は縮小したかったというのが実際のところです。
しかし日本は、チャンドラ・ボーズの必死の意見を入れ、インパール作戦を敢行しました。
そしてその際、4万5千人のインド国民軍のなかの6千人だけを作戦に参加させました。
つまり、3万9千人のインド国民軍の兵力は温存した。
そして、苦戦が予想される作戦行動には、日本の精鋭部隊を送り込んでいます。
東南アジア地区を担当した牟田口中将は、たいへん頭の良い歴戦の勇士です。
おそらく彼の頭の中には、もはやこの時点で、日本の敗戦と、東南アジア地区からの撤退は、すでに読めていたのではないか。
そしてこの時点で、インドネシア、ビルマ、ベトナム、マレー、シンガポールの独立は確保していた。
あとは、東洋の大国、インドの独立だけです。
彼は、チャンドラ・ボーズの意見を入れ、大本営の反対を押し切り、乾坤一擲、日本軍の東亜最後の戦いを、このインパールに賭けたのではないか。
インパール作戦に勝てば、英国のインド駐屯隊は、その主力が壊滅し、インド国民軍がインド国内になだれ込み、民間の義勇兵を募る。
インドは、いっきに独立へと向かうことができる。
仮に、インパール作戦に負けたとしても、帝国軍人が最後まで必死の戦いをする姿をみせることで、インド国民軍はその姿を学び、インドの独立のため、必死の努力をすることを覚える。
勝った英国は、インド国民軍の大弾圧をするだろうし、そうなればインドの民衆も、もはや黙っていない。いちど点いた炎は、そうやすやすとは消えず、インドは独立を勝ち得ることができる。
ならば自分たちは、誇り高き帝国軍人として、インド独立のための最後の捨て石になろうではないか。
このインパール作戦に従軍したインド人の兵士と、日本人隊長の物語があります。
以前、「勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人」という題で書かせていただいた物語です。
まだお読みでない方は、是非ご一読ください。
彼らがなんのために、なぜ、苦しい戦いを敢えて挑んだかがわかります。
衆寡敵せず。
インパール作戦は、日本軍の潰走に終わりました。
しかし、この作戦がもとになって、インドの独立が起こったという史実を、冷静に評価してみる必要があるのではないかと思うのです。
インパール作戦のあと、英国は、インド国民軍の生き残り将校を、軍事裁判にかけると発表します。
軍事裁判というと聞こえはいいが、要するに、一方的に断罪し、処刑するという意味です。
支配者が、被支配者の抵抗軍を重刑に処すことで、彼らの抵抗力を奪う。これには、先例があります。安政4(1857)年に起こったセポイの乱です。
セポイというのはペルシャ語で兵士を意味します。インドでは英国軍におけるインド人傭兵のことをセポイと呼びました。
この年、英国は新式の銃を導入し、セポイたちに持たせます。
その銃で、セポイたちは、ムガール帝国の再興を期して蜂起したのです。
激しい戦いの末、英国はセポイの反乱を完全に制圧します。
そしてムガール皇帝を廃止して、インドを英国の完全統治下に置きます。
セポイの処刑の様子。
英国兵はインド人を大砲の前にくくりつけ、そのまま発砲することで、セポイの五体をバラバラにして殺害した。
セポイの反乱03

歴史は繰り返す。
英国軍はインドの独立のために蜂起したインド国民軍の兵士を、同じように虐殺すると宣言したわけです。
「これでインド人たちは再びおとなしくなるに違いない」
そう思った英国の思惑は、たちまち外れてしまいます。
発表を聞いたインド人たちが、「インド国民軍こそ愛国者たちだ。彼らを救え!」と、続々と蜂起したのです。
インド全域で、民衆たちは反イギリスをかかげ、独立運動の炎を燃え上がらせます。
民衆は議会を糾弾し、ミニコミ誌の拡散や集会を行い、また全国的規模で、デモ行進を行った。
首都デリーでは、英国の対日戦勝記念行事を、市民がボイコットしてしまいます。
インドの独立を目指して戦ってくれた同胞を殺した英国を、なんで俺たちが祝福しなきゃなんないんだ!?
こうしてインド人たちの独立運動は、もはや誰も止めることのできない勢いとなっていったのです。
つまり、インパール作戦は、インドの民衆の心に火をつけたのです。
インパール作戦での犠牲は、つらい犠牲です。
しかし、その結果、インドの国民は蜂起したのです。
蜂起に際して、ガンジーの非暴力主義は、多くの人たちの支えになります。
ガンジー流の戦いは、女性でも、子供でも、老人でも、武器を持たず、暴力を用いずとも、戦うことができる。
そのことが、国民運動を老若男女の境なく参加させ、インドの独立運動に大拍車をかけます。
ガンジーの非暴力運動があったからインド人の国民蜂起があったのではない。
ガンジーは、間違いなく、蜂起した国民運動に、方向を与えたのです。
インド国民軍の必死の戦いが人々の心に火をともしたのです。
その心の火が、次々に連鎖して、全国民的運動となった。
その運動に「非暴力」という方向を与えたのが、ガンジーであるといわれています。
やがて、英国はインドを手放しました。
第二次世界大戦で英国本土も焼け野原になっていたのです。
それ以上の消耗戦を戦いぬくだけの余力は、さしもの英国にもなかったのです。
このとき、インド国民軍のために弁明をなしたパラバイ・デサイ博士は、次のように述べています。
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インドはほどなく独立する。
その独立の契機を与えたのは日本である。
インドの独立は日本のおかげで三〇年早まった。
~~~~~~~~~~~~
古来、日本では「戦いに勝つ」ということにおいて、ただ相手を叩き伏せればよいという考え方を採りません。
「勝利」というのは、相手を叩きのめしたり、殺したりすることをいうのではなく、最終的に目的を達成したかどうかで決まる。
ただ単にケンカに勝つというのは、匹夫の勇であり、ほんとうの勇は、身を捨ててでも大を活かすこと。それが日本の武士道です。
インドは、日本軍とインド国民軍が、命を的にして必死の戦いをしたことがきっかけとなって、約300年間の奴隷状態から解放されました。
約8万名の日本兵とインド国民軍の犠牲者は、決して無駄ではなかった。
彼らのおかげで、インドは独立することができたのです。
そして彼らを動かした力とは、藤原岩市陸軍中佐の、至誠と愛情と情熱が出発点だった。
戦いというものは、汚い手を使ってでも勝てばよいというものでは、絶対に、ない。
多くの人を動かし、大きな事業を成功させるのは、常に、至誠と愛情と情熱であるのだと、ボクは思います。
いま、日本は、この国誕生以来の最大の危機を迎えています。
いまこそ日本は、戦後政治の総決算を行い、新たな百年、千年に向けて、日本国固有の歴史・伝統・文化に基づく道義国家の建設を図らなければならないときに来ていると思います。
そしてその戦いの要諦は、まさに、至誠と愛情と情熱にある、といえるのではないでしょうか。
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