
慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発します。
この年の8月20日、会津城下を目指した新政府軍は、会津藩を中心とする幕軍の裏をかいて会津藩境の母成峠(ぼなりとうげ)から侵攻し、激戦「母成峠の戦い」が行われます。
この日、幕軍は新政府軍が、表街道から来るとみて主力を配備、裏街道にあたる母成峠には、戊辰戦争の初期から転戦してきている播磨国赤穂藩出身大鳥圭介率いる伝習隊700名が守備を守ります。
そこへ板垣退助率いる新政府軍の主力部隊2000が殺到する。
峠の坂の下で行われた前哨戦では、新政府軍の銃撃の前に会津藩兵が潰走するけれど、大鳥圭介率いる戦い慣れした伝習隊と新撰組が戦いを白兵戦にもちこみ、新政府軍を敗退させます。
翌日早朝、濃霧の中を新政府軍は、本体と右翼隊にわかれて母成峠を目指します。
大鳥圭介は兵力を縦深陣地に配備し、新政府軍の本体を峠の坂道に誘い込み、白兵戦で新政府軍本体に壊滅的な打撃を与えます。
ところがそこへ、新政府軍の右翼からの攻撃部隊が銃撃を開始する。
数にまさる新政府軍本体は、この側面攻撃で勢いを巻き返します。
夕方頃にはほぼ勝敗が決し、峠は新政府軍に制圧されてしまう。
潰走した伝習隊の生き残りたちは、猪苗城(いなわしろじょう)へ撤退する。
しかし城代の高橋権大夫は、少数で小城を守るより、若松城で殿をお守りするのだと、城に火を放って若松へ向かいます。
伝習隊はこれを援け、道中に火を放って敵の進軍を遅らせます。

そして8月23日、会津藩若松城下に、敵侵入の早鐘が鳴り響いた。
この日、中野竹子(22歳)は、妹優子(16歳)らとともに若松城に駆けつます。
しかし、すでに城門は閉ざされ、彼女たちは入城させてもらえません。
そこへ藩主松平容保公の姉、照姫様が会津坂下の法界寺においでになるとの報がもたらされます。
「照姫様をお守りしなければ!」
日ごろ鍛錬を重ねた薙刀(なぎなた)道場の娘たちです。
竹子らは、娘たちだけでその場で「娘子隊(じょうしたい)」を結成します。
すでに彼女たちは、各々の意思で、頭髪を短く切り、頭には白羽二重の鉢巻きをしています。
竹子の着物は青みがかった縮緬、妹優子は紫の縮緬です。
依田まき子は浅黄の着物、妹菊子は縦縞の入った小豆色の縮緬、岡村すま子は鼠がかった黒の着物で、それぞれが袴(はかま)を穿いていた。
そして全員、腰に大小の刀を差し、薙刀(なぎなた)を手にしていました。
娘子隊二十余名は、会津坂下の法界寺に向かいます。
ようやく寺に着いたが、照姫様はいない。
やむなく法界寺に宿泊した娘子隊一行は、翌日朝、会津坂下守備隊萱野権兵衛に「従軍したい」と申し出ます。
いくら薙刀の遣い手の女子たちとはいっても、敵(新政府軍)は銃で武装しています。
萱野権兵衛は、
「ならん!、絶対にならん!、お前たちは城へ帰れ!」と拒否した。
けれど、中野竹子らは、去ろうとしません。
「参戦のご許可がいただけないのであれば、この場で自刃します」
やむをえず萱野権兵衛は、翌日になって彼女達を衝鋒隊に配属します。
8月25日、涙橋に、新政府軍(長州藩・大垣藩兵)が殺到します。
近代装備と豊富な銃で攻撃してくる新政府軍に対し、守備隊は必死の突撃を繰り返す。
ようやく戦いは白刃を交えた白兵戦となります。
彼女たちも男たちに交じって、奮戦した。
このとき、一発の銃弾が竹子の額に命中します。
竹子が倒れる。
額の血が、草を真っ赤に染めます。
息も絶え絶えに竹子は、妹の優子を呼びます。
そして「敵に私の首級を渡してはなりませぬ」と、介錯を頼む。
16歳の優子は、とまらない涙をぬぐいながら、姉の首を打ち落とします。
優子は、姉の首を小袖に包んで坂下まで落ち延びます。
そして法界寺の住職に姉の首の葬送を頼んだ。
武士(もののふ)の
猛(たけ)き心に比(くら)ぶれば
数にも入らぬ我が身ながらも
中野竹子の辞世の句です。
書いた短冊が薙刀の柄に結いつけてあったそうです。
竹子を失った一行は戦陣を離れ、その後入城を果たし、多くの女性たちとともに必死で篭城し戦いました。

娘子隊は、彼女たちが自らの意思で戦いました。
なぜ戦ったのか。
自分の住んでいる土地に、他所から軍隊が攻めてきたらです。
彼女たちは、大切なものを守るために戦った。
鳥羽伏見をはじめ、戊辰戦争で亡くなった夫や兄たちを殺した連中と、自分たちの意思で戦ったのです。
ちなみに、会津の「婦女隊」(別名:娘子隊(じょうしたい)」について、会津藩が組織的に女性まで戦わせたようにいう人がいますが、これは違います。
若い娘までハナから兵団に加えるということは、会津藩が自ら兵力不足をアピールするみたいなものです。
軍学的にもそんなバカなことはしない。あたりまえのことです。

戦いは市街戦に移ります。
燃え上がる炎は、城下の家々を焼きます。
城に撃ち込まれる大砲。傷つく兵士、血に染まり泣き叫ぶ子供たち。
流れ弾丸に斃(たお)れる市井の人々。怒号と砲声、うめき声と悲鳴。
会津藩の士族は、老幼・婦女子1100名。
対する新政府軍は、越後口から進んできた兵も含めて総数1万数千人です。
市街地には死体や傷を受けた武士、民間人があふれた。
その中を、敵味方の区別なく救助し看護する女性がいました。
名を、瓜生岩子(うりゅういわこ)39歳(当時)です。
彼女は両軍のおびただしい傷病兵を見て、放置しておくに忍びず、傷兵や窮民の介抱に努めます。
「敵も味方もない。怪我人は怪我人です」
その働きは新政府軍の大将板垣退助の耳にも達します。
板垣退助は岩子に会おうとするけれど、戦乱の中で、それは叶わなかった。
会津若松城の戦いは、終わったけれど、敗戦によって賊軍となった会津藩士の遺体は埋葬も許されないで、町中に放置されてしまいます。
生き残った者も、家を失い家族を失い、食べる者もなく、街はすさみきっていました。
子供たちに教育も与えられない。藩校も寺子屋も、いまはありません。
あれほど清潔で統制のとれていた会津が、いまや町は荒れ放題です。
岩子はいたたまれず、新政府の民政局に、幼年学校開設の許可を求め、新政府の民政局に日参します。せめて子供たちにキチンとした教育を受けさせたい、というのです。
毎日通った。
そして半年ほどたったある日、民政局から、ようやく幼年学校開設の許可を得ます。
岩子は、さっそく私費を投じて校舎完成させます。
そこで教師を雇い、習字、珠算などの教育をはじめた。
また学校の敷地を利用し、元藩士たちに養蚕などの技術を教え、自力更生の道を開かせます。

ところが2年後、明治4(1871)年の小学校令発布予告によって、幼年学校は閉鎖を命ぜられます。
私費を投じまでしたのに、岩子は、なにもかも失ってしまった。
でも、岩子は負けません。
翌明治5年、岩子は、荒廃と貧困に苦しんでいる会津の人たちを救うために、ひとり東京に出ます。
そして東京深川の教育養護施設の運営や、児童保護、貧者救済の実際や経営等を半年ほど学びます。
救貧事業をするといっても、岩子自身が一文無しに近い。
彼女は、帰国するときには、有り金をはたいて魚の干物を買い、その干物を行商しながら街道をくだった。
会津に帰った岩子は、喜多方の廃寺を無償で借り受け、後を絶たぬ貧窮者に手を差し延べます。
こうして岩子は、二百余名の孤児の母となり、後半生を社会運動に捧げます。
菩薩の化身とも、日本のナイチンゲールとも称讃された。
岩子は、混乱期の社会福祉運動の先駆けとして、わが国女性初の藍綬褒章受章します。
そして、明治30(1897)年、68歳で生涯を閉じます。
文中登場した大鳥圭介は、赤穂の人で、徳育を旨とする閑谷(しずたに)学校はに学び、医学と漢学を修めた人です。
中野竹子も瓜生岩子は、会津藩の「什(じゅう)」教育を受けて育った女性たちです。
「什」には誓ひ(掟)があって、子供たちは、毎日これを大声で復誦した。
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一 年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
一 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
一 虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
一 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
一 弱いものをいぢめてはなりませぬ。
一 戸外でモノを食べてはなりませぬ。
一 戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
「ならぬ事はならぬものです」
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戊辰戦争で伝習隊を率いて、最後の最後まで転戦した大鳥圭介。
戦乱の中で、22歳の若い命を散らせた中野竹子。
会津の戦いで傷ついた兵士の介抱をし、さらに会津の教育再生と福祉に生涯を捧げた瓜生岩子。
こうした素晴らしい人格の生まれた背景には、やはり、当時の徳の高い教育があったのではないかと思います。
教育とは、高度な知識を手に入れることだけが目的のものではありません。
ましてや、テストで高得点を取ることを目的としたものでもない。そんなものは手段でしかない。
江戸時代の聖人中江藤樹は、教育の意義は、子供たちに道義を教え、心の曇りを取り、日々のおこないを正しくすることであると説いています。
最近学校では、「やってみて、ためしてみて、自分で善悪を覚えなさい」と教えるのだそうです。だから万引きも、「まずやってみて、ためしてみて、善悪を覚えなさい」・・・なのだそうです。
そして道徳教育というのは、「価値観を矯正し、思想・良心の自由を阻害するもの」であるのだから不要、と説くそうです。説いているのは日教組です。
日本は、根本から再生しなおさないとダメなのかもしれませんね。
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