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南京で閲兵する松井石根大将
南京で閲兵する松井石根大将

以下は、日心会MLで投稿があった情報です。
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南京大虐殺テーマの2人芝居 下諏訪で2月20日公演

http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/20178

都内の劇団「IMAGINE(イマジン)21」が2月20日午後1時半から、南京大虐殺をテーマにした劇「地獄のDECEMBER-哀(かな)しみの南京」を下諏訪町の下諏訪総合文化センターで公演する。諏訪地方の有志約30人が実行委員会をつくり、「戦争の恐ろしさをきっちり見据えよう」と来場を呼び掛けている。
劇団を主宰する渡辺義治さんと妻横井量子さんが出演する2人芝居。渡辺さんの父は旧関東軍将校として中国人を殺害したことがあり、横井さんの父も軍人を相手に商売を営んだという。劇では2人がそれぞれの父の「罪」を告白するなどして進む。
前売り一般3000円、中高生1000円、当日券はともに500円増。問い合わせは実行委チケット担当の吉村幸子さん(電話090・8087・9423)へ。
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いやなニュースを見つけてしまいました。
実行委員は共産系の人たちでしょうね。
見てしまった以上、真実を知せたいので、近場にメールしました。
ゆるゆるすぎてピントが外れていると思われましたら、ご講義(コメント)下さい。
また、ご協力いただければメールフォームをご使用下さい。
以下文章です。ご自由にお使い下さい。
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「地獄のDECEMBER-哀しみの南京」上演実行委員の皆様へ。
諏訪地方有志の皆様が実行委員会となり、下諏訪総合文化センターで上記公演の運びとなったことを知り、ご意見申し上げます。
一読していただければ、幸いいたします。
南京事件に関しては、今、日中共同研究の渦中にあります。
中国の大虐殺記念館が犠牲者「30万人」と表示していても、日本の研究者の間では「数万~20万人」などの諸説あり、虐殺そのものを否定する研究者もいるのが現状です。
中国と日本の歴史認識として、もっとも意見の食い違う大きな問題ともいえます。
数で言えば、当時の南京市民は20万人、その翌月には安全区を求めて難民が25万人に増えているのです。
当時のもので、映画「ジョン・ラーベ」の主人公・安全区ラーベ委員長から日本軍への感謝状もあります。
東京裁判での証言や大虐殺記念館での写真などは次々と虚偽であると立証されています。
平成7年、南京陥落翌日から翌年にかけて南京城内外を撮影した記録フィルム「南京」(昭和13年(1938)公開)が発見されました。
そこには、日本軍の虐殺などあるはずもなく、南京攻略後の安全区で暮らす南京市民の姿が写し出されていました。
敗戦意識から負い目を感じ、事なかれ主義で、真実からも目を背けていくことは恥ずかしいことだと私は思います。
さらに、偽りの歴史により次代の子供たちに生きていく辛さを背負わせていくことに、私は心苦しいのです。
ご多忙中の折、突然のメールにて失礼いたしました。
実行委員の皆様が歴史と向き合う以上、嘘偽りのない真実に沿った活動をしていただければと思っております。
いつの日か、平成19年日本製作映画「南京の真実」の上映など、諏訪地方の皆様へ史実を伝えていただける機会を作っていただきたく存じます。
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下諏訪町総合文化センターお問い合わせフォーム

https://www.event-nagano.net/pc/inquiry/inquiry.php

下諏訪商工会議所お問い合わせフォーム

http://www.cci.shimosuwa.nagano.jp/22/000073.html

下諏訪町町長宛のメールフォームです。http://www.town.shimosuwa.nagano.jp/scripts/chouchou.asp
下諏訪町町長メールアドレス
chouchou▼town.shimosuwa.nagano.jp
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このことは、項を改めて、また別の機会に詳しく書こうと思うのですが、Chinaが南京で大虐殺があったと主張している南京攻城戦は、昭和12(1937)年12月4日~12月13日に行われた戦闘を指します。
この戦いは、日本軍は、松井石根(まついいわね)大将率いる陸軍中China方面軍12万と、China国民党軍は、最高指揮官唐生智(とうせいち)率いる、南京防衛軍、第23集団軍、ソ連空軍による合計約9万の攻城戦です。
12月4日、上海にいた松井岩根(まついいわね)大将率いる帝国陸軍中China方面軍12万は、南京城郊外まで兵を進めます。
日本軍は、使者を送り、国民党南京守備隊に降伏勧告を行います。
なんの反応もないので、やむなく松井大将は、9日の正午に、南京城内に飛行機で和平開城勧告文のビラをまきます。
10日午後一時まで、待つけれど、城内からは、何の回答も反応もない。
南京城を囲んでから、この時点ですでに6日です。
つまり、松井大将は、6日間もの間、南京城に立て篭もる国民党に対し、和平と降伏の呼びかけを続けたのです。
にもかかわらず、なんの連絡もないから、やむなくこの日の午後から、日本軍は総攻撃を開始した。
日本国内では、松井大将が4日に南京を囲んでいるのだから、もうとっくに南京城は陥落したものだろうと考え、なんと11日、全国的な南京陥落の祝賀行事などが行われています。
実際には、南京城が陥落したのは13日です。
この日、日本軍は南京城内に入場した。

南京城入場式(馬上先頭が松井石根大将)
南京城入場式

松井大将は、南京城入場のあと、12月14日、15日、16日の3日間、南京城内の敗残兵掃討を行います。
このとき大虐殺が行われたのでは? とんでもない。
松井大将は、敗残兵掃討にあたり、次の指令を出しています。
(1) 外国権益に留意せよ。
(2) 住民に対して十分な配慮をせよ
(3) 失火放火に厳重注意せよ。
(1)~(3)を犯せば厳罰に処す。
(4) 将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない
(5) 無用の部隊の侵入は認めない
(6) 掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた
(7) 捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求すること
(8) 捕虜に対しては、通訳役をつけて問題を起さないようせよ
そもそも松井石根大将という人は、昭和9(1934)年4月に、勲一等旭日大綬章を受賞した軍人です。陸軍士官学校を次席で卒業し、陸軍大学は首席で卒業している。
一にも二にもとにかく軍紀にやたらと厳しいことで知られている人です。
若手将校の間では、頑固爺として、敬遠する声すらあった。
それだけ軍規に厳しい大将だったのです。
悪いけれど、国民党の敗残兵は、国民党に捕まって漢奸として斬殺されるよりかは、日本軍に捕まえてもらって、三食、医療手当付きで手厚く保護してもらったほうが、どれだけ幸せだったかしれない。
3日間の敗残兵処理のあと、松井大将は、17日、陸海軍合同で、南京城入場式を行います。
南京城入城式当日の様子
南京の避難民が、日本兵から菓子・煙草の配給を受け、喜んで日本軍万歳を叫んでいるところ。
この自然な笑顔を見てください。
南京城入城式当日の様子

そして18日には、合同慰霊祭をとり行い、敵味方ともに、戦没者の慰霊の儀を行っています。
年末の大掃除では、城内の大掃除を軍民あげて大敢行し、被災によるガラクタをきれいに片づけ、新年の松飾りを司令本部前に飾り、餅をわざわざ日本から取り寄せて、南京市民に配ったりもしている。
南京市民は、このとき市内のあちこちで爆竹を鳴らして新年のお祝いをしています。
これは南京市の治安が回復していたという何よりの証でもあります。
なぜなら爆竹の音は銃撃の音と同じです。
治安が回復していないなら、爆竹なんてとんでないという話になる。
そして入城から半月後の昭和13(1938)年元旦には、南京城内に、自治委員会を発足させ、南京市民の代表である陶錫三会長が次の宣言文の朗読をしています。
一、国民党の一党専政を廃止し、民衆を基礎とする政治を実行す
二、各種親日団体と合作し、日支提携の実を挙げ、もって東洋平和の確立を期す
三、防共政策を実行し、抗日排日思想を絶対に排除し、欧米依存の観念を矯正す
四、産業を振興し、民衆の福祉を増進す
五、広く人材を登用し、民衆自治の徹底を期す
南京自治委員会発会式における陶錫三会長の宣言朗読
南京自治委員会発会式における陶錫三会長の宣言朗読

この発会式では、南京市民は、総出で日の丸と五色旗を振ってお祝いをしています。
発会式の式場には、なんと3万人の参加者がつめかけている。
誰も強制なんてしていません。日本軍によって治安が回復され、街に平和が戻ったことがなにより南京市民たちにとって、うれしかったのです。
ところで、南京城にいた蒋介石たちはいったいどうしたのでしょう。
まだ戦闘が始まってすらいない、日本軍が投降を呼びかけていた12月7日の時点で、蒋介石他、China国民党の首脳陣は、さっさと南京を脱出しています。
大将がいなくなったのです。南京では、南京市の要人や公務員たちまでも、戦闘開始前に、南京を逃げ出す市民たちにまぎれて、そくさくと南京を脱出してしまった。
南京市内には、役人もいない。警察もいない。軍を統率する幹部もいない。
南京城内は、無政府状態となります。
電話もつながらないし、電気・水道も止まってしまう。
取り残された国民党兵士たちは、大将不在で、無政府状態となっていることをよいことに、市内各所で略奪、殺人、強姦を繰り広げます。
さらに、戦闘開始から二日目(12日)に、南京城守備隊長の唐生智(とうせいち)も、兵をそっちのけで、全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出して、さっさと逃げてしまった。
こうなったときの、南京市内の惨状は、推して知るべしです。
そもそも、わたしたち日本人は、軍隊といえば厳しい軍律があり、戦うために訓練され統率され、軍服をまとった兵士たちを想像します。
ところが蒋介石が率いていた国民党軍団というのは、なるほど装備だけはドイツ製の高級装備でいたけれど、わたしたちが一般に想像するような軍隊とはまるで性格が異なります。
これは、南京だけに限ったことではなく、上海をはじめ随所で各国の公使たちが、その実情をつぶさに見聞している。
まず第一に、彼らは武器を持たない同民族の一般市民に対しては、やたらに強かった。
国民党軍は「漢奸狩り(かんかんがり)」と称して、日本軍と通じている、日本軍に一定の便宜を図ったとみなした同民族人を、裁判もなしに、銃殺や斬首でいきなり殺害し、その生首を晒しものにしています。
第二に、国民党は「督戦隊」を組成していました。
「督戦隊」というのは、戦場から退却するChina兵に銃撃を加える部隊です。
国民党軍は、南京城に入り込むと、南京市民から適齢期の男性をいきなり徴用します。
さからえば漢奸であるとして、銃殺か絞首刑です。徴用に応じざるを得ない。
そして徴用兵に、自分たちが豊富に持っている銃や手榴弾などの兵器を与え、最前線で日本軍と戦わせた。
相手は、訓練された日本の正規軍です。方や素人部隊です。国民党の「督戦隊」に、後ろから銃を突きつけられているから、仕方なく撃っている一般市民にすぎない。
正規軍対一般市民です。勝敗は明らかです。
国民党の徴用兵(一般市民)は、途中で武器をほおり出して逃げようとする。
逃げようとする市民徴用兵に対し、日本軍の弾の届かない、後ろに控えている国民党の正規軍兵士(督戦隊)が、「逃げるな!」といって、容赦なく同じChinese達を殺しまくる。
このため日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には督戦隊との衝突が何度も起きています。
第二次上海事件では、上海が外国人公使たちが数多くいたことから、その事実関係が、各国の監視のもとに、ほぼすべてが白日のもとに晒されているけれど、昭和12(1937)年10月13日午後には、次のような事件が起こっています。
この日、上海楊行鎮方面に国民党第十九師(湖南軍)が到着しました。
第十九師は、命令を受けて呉淞クリーク南方に向かいます。
そこには日本軍がいた。
慌てた第十九師は、驚いて後退します。
すると国民党正規軍(督戦隊)が、第十九師を後退させまいとして発砲。
逃げようとする第十九師と、督戦隊との間に、激しい銃撃戦が行われた。
日本軍はカヤの外です。
目の前に、Chinaの師団が現れたと思ったら、いきなり後退し、こんどはその後ろにいる国民党督戦隊と撃ちあいを始めた。同士討ちです。
日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は、必死に督戦隊を攻撃する。
督戦隊も全力で攻撃する。
これによって第十九師と、督戦隊は、双方合わせて数千名に及ぶ死傷者を出しています。
この事件が起こって、国民党は何をやったかというと、事件の八日後に国民党軍法執行総監部命令で、「督戦隊の後方に、さらに死刑の権限を持った督察官を派遣し、前線将兵の取締りを行うとの発表しています。
市民兵に戦わせるため、正規軍が、市民兵の後ろから銃を突きつけ、その正規兵が逃げないようにと、さらに正規兵を監督する督察官が、正規兵に銃を後ろから突き付けるというわけです。
第三に、国民党は「清野戦術」という戦法を行っていました。
「清野戦術」とは、退却に際して敵軍に利用させないために民家などをすべて焼き払ってしまうというものです。ついでにこのとき略奪もしていく。
これは、南京攻城戦においても、国民党兵士が南京から撤退する際に、放火、略奪、強盗、殺人、強姦の限りをつくしている事実を、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が目撃、報告しています。
第四に、国民党は、「便衣兵」を用いていました。
軍隊といえば、軍服を着て、武器を携行しているというのが世界の常識的スタイルです。
ところが、国民党兵士は、農民に偽装して、日本兵を背後から襲うというゲリラ戦法を多用していた。
これは国際法違反です。
軍人は、戦いに際し、常にそれとわかる服装をしなければならない。
当然です。そうでなければ、一般市民との識別がつかない。一般市民を戦いの巻き添えにしないためには、軍服の着用は当然のことだし、軍人も、厚手の軍服をまとうことで、軽微な怪我から我が身を守ることができます。
ところが国民党の「便衣兵」というのは、この国際ルールを破り、人民の背後に隠れて攻撃をする、という不法な「禁じ手」を多用していました。
蒋介石は、昭和51(1976)年のサンケイ新聞によると、昭和13(1938)年の蒋介石自身の日記に、
「虐殺の対象は軍隊だけでなく、一般の婦女子にも及んだ」
「こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は2カ月に及んだ」
「犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである」
と書いているとされているけれど、その肝心の蒋介石自身は、昭和41(1966)年9月に、台湾で日本人のインタビューに答えて、次のように述べています。
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南京には大虐殺などありはしない。
何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。
私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。
松井閣下は冤罪で処刑されたのです。
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と涙ながらに語っています。
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映画 南京の真実 記録映画編(上海~南京陥落)

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