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日本刀0009

「日本刀(Japanese Sword)」という呼称は、実は、海外製の日本語です。
もともと日本では、刀(かたな)か剣(つるぎ)と呼んでいました。
ですから、刀鍛冶(かたなかじ)はいるけれど、日本刀鍛冶(にほんとうかじ)はいません。
「日本刀」という呼称が最初に用いられたのは、北宋の詩人、欧陽修(おうようしゅう 1007年~1072年)の「日本刀歌」です。
この歌は、宋では焼かれ、散逸してしまった書物が、日本にはいまだに存在しているのは嘆かわしいことだ、という主題の漢詩です。
その詩の中に、Chinaの商人が宝刀と呼ばれる日本の刀を、日本まで買い付けに行くことが歌われている。
Chinaの北宋の時代といえば、日本では平安時代です。
そんな時代にも、日本刀は、高い評価を得ていました。
時代が下って、幕末から明治になると、日本画とともに日本刀が西洋に数多く流出します。
日本刀の「吸い込まれるような」切れ味というものは、世界中、どこにもない鋭いもので、これが西洋で大評判になります。
で、日本画が西洋の絵画と区別して「日本画」と呼ばれるようになったことに呼応して、日本刀も、「日本刀」と呼ばれるようになったのだそうです。
おもしろいことには、日本刀は西洋でしきりに研究され、その成分分析や、切れ味の分析が事細かに行われるのですが、結果として西洋人が、日本刀を作ることはありませんでした。
理由は、「鍛えて焼きを入れることができなかった」のです。
工芸品や技術品は「マネをしたらできる」ほど甘いものではありません。
さりげない部品のひとつ、鉄の鍛え方ひとつをとっても、長い年月をかけた創意工夫あります。
トヨタが最新鋭の工場設備をChinaに作ったけれど、Chinaトヨタで作ったエンジンは、トラブル続出になっている。
機械を使ったらできる。ロボットを使えばできる、教えたら簡単にできる、そんな甘いものではないのです。
鉄を溶かすためには、1800度の高熱が必要です。
西洋では、コークスを使って鉄を溶かし、鋳型に流し込んで刀を作ります。
しかし日本の燃料は木炭です。これは最高でも1200度にしかならない。
ですから、鉄は完全には溶けません。
完全には溶けないから、鉄をたたくことによって均質にし、さらに刃の部分に焼きを入れて、そこだけ硬さを増して、薄く研いだときによく切れるようにしているのです。
これはたいへんに手間のかかる作業です。
加えて、叩きにものすごい技術がいる。ただやみくもに叩けば刀になるというものではないのです。
このたたきによって、鉄の重さがどれくらいになるかというと、なんと、3分の1です。
鉄の中の不純物を減らすため、刀鍛冶は、全体の重量が3分の1になるまで槌(つち)で刀身を叩くのです。
そして刃の部分以外に粘土を塗って火の中で焼きます。
真っ赤に焼けた刀身を、水につけます。
すると粘土のない刃の部分は硬くなり、粘土に包まれた刀全身は柔軟性のある柔らかさを持つようになります。
さて1543年、ポルトガル人を乗せた貿易船が種子島(鹿児島県)に流れ着きました。
鉄砲伝来です。
当時16歳だった島主・種子島時尭は、2丁の鉄砲を買いました。購入金額は、いまの相場に換算すると約1億円だそうです。つまり、鉄砲1丁を5000万円で買った。
なぜ2丁買ったかというと、1丁は鉄砲として使うために、もう1丁は研究するためです。
種子島時尭は、家来に命じて鉄砲作りを徹底的に研究させ、翌年には、国産の鉄砲を作ってしまいます。
ポルトガル人にしてみると、鉄砲1丁が5千万円です。
これは大儲けできる。そう思って、彼らは1億円相当の銀を得て、ポルトガルに帰ります。
そして翌年には、船に鉄砲を山盛りにして再び日本にやってきた。
鉄砲のない日本に鉄砲を売れば、大もうけできると、踏んだのです。
ところがこの鉄砲は、まるで売れなかった。
なんと日本では、その頃には、すでに改良を施した高性能の鉄砲を量産化していたのです。
同じ16世紀、南アメリカのインカ帝国にもスペイン人が鉄砲を持ってやってきました。
そして、スペイン人にやられ、数年足らずのうちにインカ帝国は滅亡し、文明の痕跡しか残っていません。
ちなみにインカは、黄金文明だったといわれています。
ものすごく金が豊富だった。いわば金ピカ文明です。
人類が誕生してから、現在にいたるまで、人類が採掘した金は、25Mプールに換算すると、ちょうど3杯分になるのだそうです。
ところが、そのうちの2杯分は、実は日本で産出している。
いまの日本は「金」がありませんが、これは明治のはじめに日本の金が銀と交換されて海外に大量に流出したせいです。
ですから言い換えると、インカ以上に金の豊富な日本は、16世紀、まさに黄金の国ジパングだった。
ところが、インカは滅亡し、日本は生き残っています。
インカはたった150人のスペイン人の銃によって滅ぼされました。
日本は、 たった2丁の鉄砲から、翌年には国産第1号の鉄砲を完成させ、翌年の後には、世界有数の改良型の高性能鉄砲保有国になってしまっていたのです。
こんなことが起こったのは、当時の世界で、日本だけです。
なぜ、そんなことができたのか。
実はそれは、日本は古くから、日本刀を製造する高度な鉄の加工技術があったからです。
当時の刀鍛冶たちは、刀を大量生産するシステムをすでに作り上げていました。
その技術集団が、こんどは鉄砲作りに取り組んだのです。
鉄砲伝来から32年後に、長篠の合戦(1575年)が行われます。武田軍と織田軍が相対した。
このとき、武田軍、織田軍とも、それぞれ武田の旗、織田の旗のほかに、両軍とも日の丸を掲げています。我こそは日本を代表する武家である、という印です。
この長篠の戦では、織田軍は、3000丁もの鉄砲を揃え、三列交代式鉄砲連射というヨーロッパですら使われたことのない戦術を用いています。
当時の鉄砲は1発撃つごとに、銃口から火薬と弾を詰め込みます。薬きょうに弾を込めて、後ろから叩くという銃弾が登場するのは、これよりもずっと後の時代です。
銃口から弾を込めるということは、最初の弾を1発を撃ったら、2発目を撃つ頃には敵の騎馬隊が到着してしまう。
そこで信長は、鉄砲隊の前に柵を作り、騎馬隊がすぐに突入できないようにしておいて、3000丁の鉄砲を3列に分けて配置した。
そして1発目を撃つと、すぐに引き下がって2列目のものが撃つ。同様に3列目のものが撃つとことによって、間をあけずに鉄砲を連射します。
信長のこの三列交代式鉄砲連射の戦法は、世界初の戦法です、
銃の本場である西洋で、この戦法が使われ出したのは、なんと1917年、第1次世界大戦の終わり頃です。なんと、信長の鉄砲隊の342年も後のことです。
さらに関ヶ原の戦い(1600年)では、なんと5万丁の鉄砲が火を噴きます。
この頃の日本は、すでに世界最大の鉄砲生産国になっていたのです。
関ヶ原当時、日本の所有する鉄砲の数は、世界中の鉄砲の数の何%をしめていたかというと、これがなんと、世界全体の5割です。
鉄砲が日本に伝わってから約60年後には、日本は世界最大の鉄砲保有国になっていたのです。
日本の技術力の高さは、今に始まったことではありません。
300年も400年も昔から、変わらず、世界一流の技術力を持ち続けているのです。
それこそが、日本の底力です。
もうひとつ付け加えます。
日本は戦国時代、それだけ大量な鉄砲や刀剣類を作っていながら、当時、それらを作るために大量の森林資源を伐採していながら、禿山(はげやま)を作っていません。
火力を得るために森林の伐採をしているのですが、同時に植林をしている。
なぜなら植林をしないと、崖くずれや洪水が起こるからです。
戦国大名たちは、そういう土木林業の育成も同時に行っています。
もちろん、日本が高温多湿であり、森林が育ちやすいという環境にあったことも事実ですが、欧米や朝鮮半島、China等では、食事の火を得るために木を伐採し、土地の砂漠化を招いたり、禿山を作ったりしていることと比べると、なにやら天地の差があるように思えます。
当時、戦国大名の間で流行ったのが、茶道です。
茶道は、緑の中に草庵を営み、そこで、正装して、威儀を正して、酒も飲まずに、苦いお茶をすすります。
安い抹茶は、ただ苦いだけですが、高級な緑茶、これはいちど飲んだらわかりますが、まさに新緑の香り、濃厚な緑の香りがします。
つまり緑の中で草庵を営み、その中で緑(自然)への感謝の意をもって濃厚な緑のお茶をいただく。自然への感謝をする。武器を得るために伐採した森林への感謝を捧げる。
だから、正装して、威儀をただしてお茶をいただいた。
だから、茶道は礼儀の道、自然との一体の道となったといわれています。
日本刀の刀鍛冶の技術、世界最大の鉄砲保有、緑への感謝、そういったものが渾然一体となって日本の文化を築いている。
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