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木炭バス
木炭バス0711

昭和16年に、日本はABCD包囲網による経済封鎖を受けました。
このため当時でも年間2千万バレルの石油が必要だったのに、米国の輸出規制によって戦時中の昭和19(1944)年には164万バレル、昭和20(1945)年に至っては、ついに輸入量がゼロとなっています。
飛行機を飛ばすにも、船を走らせるにも、冬の暖房にも、輸送などにも、石油は近代国家に欠かせません。
ところが日本はその石油の輸入ができなくなってしまったのです。
日露戦争くらいまでは、世界の資源エネルギーの主役は石炭でした。
それが第一次世界大戦頃から、主役が石油に交替しはじめました。
日本は、石炭は自国内で産出できます。
けれど、日本に石油はありません。
これは、エネルギーの最先端にある軍にとって、きわめて重大な事態でした。
飛行機も戦艦も戦車も輸送船もトラックも、石油がなくては動かないからです。
しかも日本は、その石油の多くを米国から輸入していました。
昭和12年といえば、4月にはヘレン・ケラーが来日して、日本人女性中村久子に「私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と激賞し、また同じ月には日本とヨーロッパを始めて結ぶ航空路の開発のために、97式飛行機が「神風号」という名で初の飛行を成功させています。
また10月にはパリ万博で日本館が設計賞を受賞しています。
こうして日本がまさに世界の一等国としての地歩を固めていった一方で、同じ昭和12年の7月には盧溝橋事件、廊坊事件、通州事件が相次いで起こりました。
8月にはChina国民党の徴発による第二次上海事変が勃発、12月には南京城の攻略戦が行われています。
China国民党の背後には、これを操ることでChinaを最後には植民地化して利権を得ようとする米英の一部政治家たちによる企みがある。このことは当時の世界のまさに常識でした。
けれど日本は、石油を米国に依存しています。
ということは、万一の有事の際、日本は石油を輸入できなくなる。
すでに、自動車やバス、トラックなど国内の物流に大きな力を得つつあった時代です。
石油を断たれることは、日本の軍事活動が制限されてしまうということであるとともに、国内の様々な物流、つまり庶民生活にも多大な影響が生まれてしまう。
そこでこの年、農林水産省が中心となって「木炭ガス発生装置の普及奨励事業」が展開されました。
機関車、トラック、タクシー、バスから、なんとオートバイまで、民生用にはできるだけ、石油ではなく「木炭」を使おうというのです。
木炭を使って内燃機関(自動車のエンジンのような機械)を動かすという技術は、エンジンが誕生した頃までさかのぼる古い技術です。
簡単にいったら、焚き木を不完全燃焼させたときに出る煙から煤(スス)を取り除き、そのガスを燃焼室に送り込んで圧縮し、爆発させる。
いまでも天然ガスで走らせているタクシーなどが、この「ガスを使ったエンジン」を使用しているのですが、ただ、天然ガスと違って、木炭ガスは、とんでもなく手間のかかるエンジンでした。
焚き木を燃やして煙を出すのですが、必要な煙が出るまでには、釜が十分に暖まらなければなりません。
このためエンジンの始動に、ものすごく時間がかかりました。
一応、カタログ上は、「木炭への着火、ガス発生までに最良な状態なら5分程度、良好な状態なら10分以内にエンジンが始動する」と書いてあるのですが、実際には、焚き木の積み込み、着火、燃焼状態の確保等に時間がかかり、実際にエンジンを始動するまでには、熟練者で1時間、一般の人の場合だと、2時間近く時間がかかったようです。
定期バスはともかく、これで日常に使用するオートバイまで走らせていたわけですから、まさに先人の苦労やいかばかりか、といった感じがします。
そしてさらに、得られる出力は、性能はいちおうこれまたカタログ上は45馬力とされているのだけれど、釜の炊きが悪いと10馬力出るか出ないかでした。いまだと原チャリのエンジンが、性能の良いものだと同じくらいありますから、簡単に言ったら、原チャリの牽引で30人乗りのバスを走らせていたようなものだったわけです。
それで、薪をいっぱいに積んだときの航続距離が、だいたい50kmくらいです。
しかも木炭バスは、エンジンが温まるまで走れない。
走っても、釜の具合でよくエンジンが止まる。
そのたびに車掌さんがバスから飛び降りて、釜のなかの火を長い鉄の棒で突いて木炭をならしながら走っていました。
石油の輸入ができなくなってからのことではありません。
石油の輸入が、将来厳しくなるかもしれない。
そうなったとき、お国のために石油は、戦艦や戦車や飛行機などに使う大切なものだから、自分たちは、なんとかして石油を使わなくても良くなるように工夫しようとしたのです。
自分のいまの目先の利益だけを優先しがちな現代人と比べて、昔の日本人は、そういう意味でも凄かったと思います。
ちなみに、すこし脱線しますけれど、日本に鉄砲がもたらされたとき、日本が種子島という火縄銃を造ったとうのは誰でも知っている有名な話です。
これは日本刀を造る技術の蓄積があったからこそできたことなのですが、ところが問題は火薬です。
当時の火薬は、硝石75%、硫黄10%、木炭5%の配合割合だったのですが、その肝心の硝石が日本で産出しません。
ですから戦国大名たちは、当初は、ポルトガル人たちから火薬を買っていたのです。
その火薬一樽は、日本人の若くて美しい女性50人と等価で交換でした。
このため日本人女性が奴隷としてヨーロッパで盛んに売買されるようになり、この実情をヨーロッパで直接見た天正少年使節団などが、たいへんなショックを受けたという記述などが残っています。
ところが、しばらくすると、日本は火薬の輸入を辞めてしまいました。
なぜ辞めたのかというと、なんと、硝石を国産の自前で作ってしまったのです。
硝石というのは、もともとヨーロッパでは、家畜小屋の地面に浸透した家畜の排泄物が微生物の作用によって発酵し、硝酸カリウムとなったものです。
で、日本でどうしたかというと、農業用に下肥を発酵させた肥料を昔から使っていましたから、その技術を応用して、屎尿から硝石を自作してしまったのです。
ただし、ただ買って来るのと違い、出来上がるまでに6年くらいかかったそうです。
それでも作ってしまう。
おかげで日本は、他の植民地となった国々のように、奴隷を輸出するという必要性さえもなくなり、結果として庶民の安泰を保っています。
以前、船大工さんをしておいでの方のところに訪問した際、十数年ぶりに和船の注文を得たとき、和船を作るのに必要な「妻夫釘(めおとくぎ)」という名の特殊な形状をした釘が、和船製造には必要なのだけれど、いまではもう、作られていないし売ってもいない。
そこで、父親の船大工さんに、「入手できない」と言ったら、「だったら自分で作れ」とあっさり言われて、実に驚いたという話を聞いたことがあります。
必要なものがあれば、買って来るのではなくて、たとえ時間がかかっても、努力してなんでも自分で作ってしまう。
いま日本の中小の町工場が、職人技の凄さで世界に冠たる技術を誇っていますが、それも、もともと「必要なものがあれば、なんでも自分で作ってしまう」という日本人ならではの姿勢が、いまに生きているものなのだろうと思います。
先日、安倍総理が選挙の応援演説の中で、世界一細い注射針のことをお話されていました。
糖尿病患者さんなどは、日に何度もインシュリンの注射をしなければなりません。
その注射が、とにかく「痛くないように」との思いから、何度も金型を調整して、ついに、世界一細い注射針を作ってしまった。
なんと針の直径0.2ミリです。
(普通の予防接種などに使われる針は0.4ミリ)
話は脱線しましたが、石油が不足する。
それがわかったとき、それなら石油の代わりに焚き木を使って車を走らせてしまおう。
そのためにどんなに時間や労力がかかったとしても、お国のためにがんばろう。
そういう心が、当時の日本には、全国津々浦々までしっかりと根付いていたわけです。
さて終戦後、まだ間もない昭和22(1947)年9月1日のことです。
午前8時頃、長崎市の北側の山中にある打坂峠(うちさかとうげ)の急な坂道を、大瀬戸発、長崎行きのバスが満員の乗客を乗せて登っていました。
この頃の打坂峠は、もちろん舗装などされいていないデコボコ道です。
道は狭くてくねくね曲がり、道路勾配は20%もあったのだそうです。
いまの道路構造令では第20条で、道路勾配は最大12%以下と定められています。
勾配5%の坂が20メートルもあったら、もはや坂の向こうはみえないくらいの急な坂になるのです。
打坂峠の20%という坂道が、どれだけ急な怖い道だったかが伺われます。
バスが坂の半ばに差し掛かったとき、突然エンジンが停まってしまいました。
運転手は直ぐにブレーキを踏みました。
ところが、ブレーキが利かない。
サイドブレーキも利きません。
エンジンもかからない。
上り坂の途中です。
バスがバックで坂を転げ落ちないよう、運転手はギアを前進に入れようとしました。
ところが前進ギアも入らない。
あとでわかったことですが、ギアそのものが壊れてしまっていたのです。
上り坂でいったん停止したバスは、ズルズルと坂道を後退し始めました。
運転手はバスを止めようと必死に操作しますが、バスはドンドン下がって行きます。
急な坂道なのです。
しかも曲がりくねっている。
乗客は30人あまりです。
このままでは大惨事になると思った運転手は、車掌をしていた鬼塚道男(おにづかみちお、当時21歳)さんに向かって、
「鬼塚!直ぐに降りろ!石ころでん棒きれでん、なんでんよかけん車の下に敷け!」
と叫びました。
その声を聞くやいなや、鬼塚車掌はバスから飛び降りました。
そして近くにあるものを片っ端から車輪の後ろに置きました。
バスが後ろに転がり落ちるのを、なんとかして止めようとしたのです。
ところが急な下り坂で加速がついたバスの車輪は、木片を弾き飛ばし、乗り越え、石を粉々に砕(くだ)いて、後退してしまいます。
乗客たちには、なすすべもありません。
「こいは、もう、おしまいばい!」
乗客全員が、そう思ったとき、バスは崖っぷちギリギリのところで止まりました。
そこは高さ20メートルの険しい崖(がけ)でした。
あとすこしで、大事故になるところでした。
運転手も乗客も、みんなほっとしました。
運転手はバスから降りました。
そして、「鬼塚!どこに、おっとか!」と声をかけました。
返事がありません。
乗客たちも、降りてきました。
そしてひとりの乗客が、「バスん後ん車輪に、人のはさまっとる」と指差しました。
車輪の下に、鬼塚車掌が横たわっていました。
彼は自分の体を輪止めにしてバスを止め、崖からの転落を防いだのです。
朝の10時過ぎ、自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちた。早く救助に!」と長崎バスの時津営業所に駆け込んできました。
時津営業所の高峰貞介さんは、すぐにトラックに飛び乗って、急いで現場に駆けつけました。
バスは、落ちてはいませんでした。
崖、ギリギリのところで止まっていました。
運転手いました。
真っ青な顔をしていました。
ジャッキで、バスの車体を持ち上げていました。
高峰貞介さんは後に事故の様子と鬼塚さんについて次のように語っています。
=======
たしか、朝の10時少し過ぎだったですたい。
自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちとるばい、早よう行ってくれんか」って、駆け込んで来たとです。
木炭のトラックの火ばおこしてイリイリしてかけつけると、バスは崖のギリギリのところで止まっとったとです。
もうお客はだれもおらんで、運転手が一人、真っ青か顔ばしてジャッキで車体を持ち上げとったですたい。
「道男が飛び込んで輪止めになったばい。道男、道男」って涙流しとったです。
当時の打坂峠は胸をつくような坂がくねくねと曲がっとりましたけん、わしら地獄坂と呼んどったです。
自分で輪止めにならんばいかんと思うたとじゃなかでしょうか。
丸うなって飛び込んで。
道雄の体をバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せました。
背中と足にはタイヤの跡が付いていましたが、腹はきれいでした。
十秒か二十秒おきに大きく息をしていたので、ノロノロ走る木炭トラックにイライラしながら、しっかりしろ、しっかりしろと声をかけて。
9月といっても一日ですから、陽がカンカン照って、何とかして陰をつくろうと鬼塚車掌に覆いかぶさるようにして時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声を出しました。
その晩遅くに、みかん箱でつくった祭壇(さいだん)と一緒に仏さんを時津営業所に運んで来たとです。
道男君は、おとなしかよか男じゃったですたい。
木炭ばおこして準備するのは、みんな車掌の仕事ですけん、きつか仕事です。
うまいことエンジンがかかればよかが、なかなかそげんコツは覚えられん。
よう怒られとりました。
それでもススだらけの顔で口ごたえひとつせんで、運転手の言うことばハイ、ハイって聞いとったです。
ばってん、そげん死に方ばしたって聞いた時には、おとなしか男が、まことに肝っ玉は太かって思ったもんですたい。
=======
鬼塚車掌は、炎天下のトラックの荷台で熱風のような空気を大きく吸い込んだのが最期でした。
この事故が起こった昭和22年のことです。
日本はまだ敗戦の虚脱状態にありましたし、長崎では、原爆被害のあとで、病院通いをする人もたくさんいました。
闇市への買い出し、市内の病院に被爆(ひばく)したお子さんを連れて行く母親、そういう30人あまり乗客でした。
その乗客たちの命と引き換えに、鬼塚さんは若い命を閉じました。
みんな生きるだけで精一杯の時代です。
原爆が落ちて日もない。
他人のことなんかかまってる余裕なんてなかった時代です。
それでも乗客たちはみんな、口々に身代わりになってくれた鬼塚車掌さんや、たすけてくれたバス会社の人たちにお礼を述べました。
けれど、物資が不自由な時代です。誰も何もしてあげることは出来ませんでした。
鬼塚道雄さん(当時21歳)
鬼塚道雄車掌

それから26年が経ちました。
昭和48年のことです。
新聞の投書欄に、そのときの乗客だった方が、感謝の思いを綴った記事が載りました。
その記事を、たまたま長崎自動車(長崎バス)の社長が眼にします。
社長は、その日の内に緊急の役員会を招集しました。
「私が発起人になる。浄財を集めて、鬼塚さんを供養する記念碑を造ろう!」
こうして一年後、事故が起きた打坂に、記念碑とお地蔵さんが建てられました。
救命地蔵(長崎市打坂)
救命地蔵

以降毎年、鬼塚車掌の命日となった9月1日に、長崎自動車では社長以下、幹部社員が地蔵の前で供養を行っています。
また、近くにある時津幼稚園の年長組みの園児たちも、毎年地蔵尊にお参りして、花を手向けて小さな手を合わせています。
時津幼稚園の山口理事長は、「近年、子供の犯罪が問題化しており、園児達に小さい頃から命の尊さを感じとって貰いたい」と鬼塚車掌の話を子供たちにして園児達の地蔵尊へのお参りを実施しているそうです。
鬼塚道雄車掌さんは、バスを止めようとして、若い命を散らせました。
それは「自分の命を粗末にした」ということなのでしょうか。
命は、たったひとつしかない、たいせつな、かけがえのないものです。
けれどみんなのために役に立つこと。
そのために自分の命を使うこと。
それは、間違ったことなのでしょうか。
鬼塚さんの勇気のおかげで、30人の乗客乗員の命が救われました。
あと数メートルで、バスが崖から転落する。
鬼塚さんには、他に選択肢はなかったのだろうと思います。
そのときに、自分の命よりも、乗客の命を優先する。
そういうことこそ、人間として、もっとも勇気ある行動といえるのではないでしょうか。
99年に埼玉県の狭山市で自衛隊機が墜落しました。
そのときパイロットは、自分の命よりも、墜落したときに民家に被害がでないように配慮することを優先しました。
大東亜戦争における特攻隊戦死者は、海軍4156名、陸軍1689名、その他回天、震洋、海上挺身隊、空挺隊などを加えると、特攻作戦による日本人戦没者は1万4千名をこえます。
誰のためでもない。
みんなを守るために、命を散らせました。
足りないものがあれば、我慢して、自作してでも作ってきた日本。
人を守るために自分の命さえも惜しまなかった日本。
そして、そういう先人達の偉業を、歴史を忘れないでいる日本。
いま、私たちが取り戻すべき日本は、まさにそういう日本なのではないかと思います。
(鬼塚道雄さんのお話については、『伝えたいふるさとの100話』を参照させていただきました)
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09年9月1日の打坂地蔵尊

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