
「岸壁の母」という曲があります。満洲に駐屯していた息子の帰りを待って、舞鶴の港に立つ母親の心を歌った曲です。
(唄)
♪母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
(セリフ)
また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない……
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……。
帰れないなら大きな声で……
お願い……
せめて、せめて一言……
この「岸壁の母」という曲は、昭和29(1954)年に菊池章子が歌って、なんと当時で100万枚を超える大ヒット曲になりました。
菊池章子さんというのは、「こんな女に誰がした」という歌詞で昭和22(1947)年に大ヒットした「星の流れに」を歌った往年の大歌手です。こちらの曲は、終戦直後の女性の悲しさを歌った名曲でした。
その菊池章子さんが「岸壁の母」をレコーディングした。
プロの歌手です。どんなときでも、同じように歌えるというのが、当時の歌手の誇りです。
ところが、演奏が始まると同時に泣き出してしまってどうにもならない。そのため何度も何度も録音をやり直し、ようやくレコーディングできた。
その後も放送や舞台で歌うのですが、そのたびに涙で声が曇ってしまったといいます。
なぜかと聞かれた菊池さんは、「事前に発表される復員名簿に名前が無くても、もしやもしやにひかされて、という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら、涙がこぼれますよ」と語られました。
「岸壁の母」はその後、昭和47(1972)年に、こんどは二葉百合子の浪曲調の歌として再度レコーディングされました。このときも再びミリオンセラーの大ヒット。LPレコード、シングル、テープを合わせてなんと250万枚という空前のヒット曲となりました。
そしてあまりのヒットから、昭和51(1976)年には、中村玉緒主演で映画化され、昭和52(1977)年には、市原悦子主演でドラマ化もされています。
この曲のモデルは、実在の人物で、「端野いせ」さんというお母さんが、たまたま舞鶴港で当時のラジオの取材に応じたのがきっかけでした。
端野いせさんは、明治32(1899)年のお生まれで、石川県志賀町のご出身の方です。
函館の青函連絡船乗組員の端野清松さんと結ばれ、娘が生まれますが、昭和5(1930)年、夫と娘が相次いで他界してしまいます。
で、家主で函館の資産家であった橋本宅から、新二少年を養子に迎えて昭和6(1931)年に上京し、東京の大森に住みます。
養子となった息子の新二少年は、立教大学を中退し、軍人を志して昭和19(1944)年に、満洲国に渡ります。そこで関東軍の石頭(せきとう)予備士官学校の生徒なります。
関東軍というのは、東京や埼玉、千葉の関東地方とはなんの関係もない名称です。日本がChinaから租借した遼東半島のあたりが、その昔、Chinaで関東州と呼ばれていたことから、この地方の守備隊として関東軍の名前がついています。
牡丹江省にあった関東軍石頭予備士官学校は、生徒数3600名、教官は半数が尉官か見習い士官という陸軍の予備士官学校です。
昭和20(1945)年8月9日未明、終戦を眼の前にして、突然、一方的に日ソ不可侵条約を破ったソ連軍が、満洲地方になだれ込みます。
この日、石頭予備士官学校にも、早朝から、けたたましく非常呼集のラッパが鳴り響きました。
校庭に全員整列。校長から「本日未明、ソ連軍来襲、目下交戦中」の非常事態が伝達されます。
3600名の生徒は2組に分けられ、歩兵砲、機関銃隊1600名は、荒木連隊長の指揮下に、残り1600名は学校長小松大佐のもとに、東京(とんきん)城に布陣します。
対する敵のソ連軍は、投下兵力158万人の大部隊です。
兵力は2つに分けられ、第一極東戦線は、メレンコフ元帥が直接率いました。
第一極東戦線だけで、歩兵4師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲3500門、ロケット砲430門、戦車約1000両、他に空挺部隊などを持つ、ソ連最強軍団です。
このときの戦闘の模様が、当時まさにその石頭予備士官学校の生徒であった高崎弥生氏の「実録 遥かなる回想」に記載されています。
以下、引用します。
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ついに候補生にも出撃命令が下った。
いまこそ祖国のために一命を捧げる時が来たのだ。
かねて覚悟はしていたとはいえ、悲壮な思いが、ひしと胸に迫り、完全武装を急ぐ手が震えた。
一瞬、故郷の父や母の顔が瞼をかすめた。
「長い間お世話になりました。国のため、先立つ不孝をお許しください」
おそらくこれが今生の別れとなろう。こみあげる熱い思いをぐっとこらえ、私はひそかにわかれを告げた。
「悠久の大義に生きるを本文とすべし・・・」
死ぬことだけを教えられた日々・・・今こそ祖国のために一命を捧げるのだ。
東京(とんきん)城方面へ行軍中、避難の在留邦人達がトラックに満載され「お願いしま~す」「頑張ってくださ~い」、悲痛な声で叫びながら、祈るようなまなざしで次々と通り過ぎて行った。
軍隊を唯一の頼みに、すがりつかんばかりの必死の叫びに、胸をしめつけられるような、全身に激しい闘志と責務に奮い立った。
夜を徹して駆け足行軍が続き、翌未明、「隘路口(あいろくち)」到着。
敵戦車を迎え撃つべく、一文字山峡に布陣。
正午ごろ、山麓の川辺で大休止となり、石頭出発以来、満足に食っていなかった私達は、やっと米にありつき、久しぶりにハンゴウ炊きをしながら、熱くてたまらず、一緒に水浴びをしていた。
そこへ突如、山陰から飛来したソ連機が攻撃してきた。
爆弾が落下、大地を揺るがす轟音とともに砂塵が吹きあがった。
いましも湯気のあがるハンゴウに敵弾が命中。川面に機銃掃射のしぶきがあがり、静かだった山峡はたちまち戦場と化した。
軍服をまとう暇もなく、慌てて身を伏せた。
重機関銃の傍らにいた私は、対空射撃の命令とともに、素裸のまま機関銃発射の握把をとった。
真っ先に狙われる重機関銃。
しかも初陣に素っ裸とは・・・。
死ぬにも死ねない気持ちが先に立ち、不思議と怖さはなかった。
乏しい弾薬とみて、おもいきり低空へ降下してきた敵機から、乗りだすような敵兵めがけて、夢中で発射。
小癪な!撃たれる前に撃ち落とせ! 体内の血が逆流し、炎のような闘志が全身に煮えたぎった。
敵弾よ、それまでは当たるな! 必死に祈りながら、ただもう懸命に撃ち続けた。武器弾薬欠乏と思いこんでか、思いもよらぬ対空射撃にに驚いた敵機が山蔭にかくれた隙に、ただちに部隊は出発。
この戦闘で、青木中尉他、多数の死傷者が出た。
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重機関銃というのは、重さが50kgもあります。
その重機関銃を、担いでの駆け足行です。
当時の関東軍は、必要な武器弾薬兵器を南方戦線にことごとく送っていて、いわば案山子(かかし)軍団状態です。
そのなかで、わずかに残った重機関銃です。
弾薬も、僅かしかない。
ちなみに、この戦闘の直前まで、日本は満洲のインフラ整備のために、ダムや道路、鉄道線路の敷設をしています。
つまり、歩兵銃を含め、当時の満洲に残った関東軍に残されていたのは、不十分な武器、弾薬以外と、工事用のダイナマイトくらいしかなかった。
こうした状況をはっきりと掴んだ上で、ソ連軍は158万の大軍を投下してきています。
それまで、互角の装備では、日露戦争や、それ以降の国境付近の衝突事件等で、ソ連兵はコテンパンにやられている。だから日本軍が怖かった。
東京(とんきん)城方面に向けられたソ連軍は、航空部隊や戦車部隊を含めて約50万の大軍です。
これを、歩兵銃の弾もろくにない、重機関銃の弾薬さえも欠乏している石頭予備士官学校の生徒たち3600名が迎え撃ちます。
続けて引用します。
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事態は急変した。
敵が近くまで迫ってきたのだ。
支給された爆薬は、ランドセルくらいの大きさで、中にはダイナマイトがびっしり詰まり、30cmくらいの導火線がついていた。
いわゆる「急造爆雷」である。
その先にマッチ棒を3本、木綿糸でしっかりとくくりつけた。
敵戦車が接近したら、マッチ棒をすって点火させてから、爆薬を抱えたまま全力疾走で突っ込む作戦である。
点火後、3~4秒で爆発する。
これを「対戦車肉迫攻撃」といい、略して「肉攻」と呼んだ。
敵は明朝になれば必ず攻めてくる。
来ればどうなるかは、もう誰もがわかっていることだ。
あと数十時間の生命である。
蛸壺のなかに寝転んで暮れゆく空を見上げていると、なぜか故郷のこと、母のこと、兄弟のこと、幼いころのこと等が次々思い出されてくる。
8月13日、代馬溝陣地を突破したソ連重戦車が、ついに磨刀石にその姿を現した。
地面を揺るがせながら、道路を一列になってゆっくりと我が陣地内に侵入してきた。
この道路の両側には、草や小枝で擬装した蛸壺の中に「急造爆雷」を抱いた候補生が潜んでいた。
戦車が近づくと、次々と「先にゆくぞ」と叫んで、敵戦車に突入して行った。
戦車には自動小銃を構えた歩兵が随伴していて、蛸壺を見つけたら、中に潜む肉攻手を狙い撃ちするので、飛び込むまでにやられる者もあれば、同時に爆薬が炸裂し、敵もろとも吹き飛ぶ壮絶凄惨な戦闘が始まった。
味方の重機関銃も猛然と射撃を開始し、小型迫撃砲も一斉に発射された。
この重機関銃陣地をつぶそうと、敵の戦車砲、機関銃が集中砲火を浴びせてくる。
後方の高台に布陣をしている友軍砲兵が援護射撃を開始し、榴散弾(りゅうさんだん、弾の中に多数の散弾がつめてあり、炸裂して人馬を殺傷する)を浴びせかける。
敵は炎上する戦車を道路下に突き落として、次々と進撃してくる。
蛸壺の中では、爆薬を抱えた数百名の候補生が息を殺して潜んでいる。
やがて、肉攻壕の土が、ボコボコと戦車の地響きで崩れ始める。
耳を聾するキャタピラの音、重油の焼け焦げる匂いが胸をつく。
敵の随伴歩兵がトラックから降りて、自動小銃を構えて、戦車の周りに見え隠れして続々と向かってくる。
ソ連兵の自動小銃が肉攻壕を狙えば、肉攻手は、即座に自爆だ。
重機関銃隊が、銃の偽装の小枝をそっと払った。
たちまち味方の重機関銃がうなった。榴弾筒部隊も発射した。
二十数名のソ連兵がぶっ倒れた。
ひるんだ敵の歩兵が戦車から退いて行った。
肉攻手が爆弾を抱えて踊り出た。
ひとりの肉攻候補生が、蛸壺を飛び出すと、爆雷を道路に置いて伏せた。
ソ連戦車は急ブレーキをかけて爆雷の3M手前で停まった。
候補生は、ほふく前進して爆雷を戦車の下に押し入れようとした。
戦車の直前で、爆雷は轟音を発し、半身は高さ20Mまでも白煙とともに砕きあがり、鮮血を撒き散らしながらぐるぐると回転して、またもとの位置に落下した。
東満洲の軍都、牡丹江の防衛最前線として磨刀石に布陣した石頭予備士官学校候補生の、ソ連戦車体当たり戦法は、こうして開始された。
またひとり、小さな体で四角い爆薬の包みをかかえて飛び出していく。
一瞬、ものすごい閃光がひらめき、白焔が戦車をつつむ。
そして、またひとり・・・
突然、戦車の砲頭の下から吐き出す紅蓮の火炎に巻き込まれ、すさまじい轟音とともに自爆した。
肉攻陣地があることを察知したのか、敵戦車はしばらく前進を躊躇(ちゅうちょ)したが、こんどは火炎放射機で周囲の肉攻壕を焼き払いながら、その上に乗っかってグルグルと回転しはじめ、敵の歩兵も散開して肉攻壕に、自動小銃をを撃ち込んで進んでくる。
味方の重機関銃が銃身も裂けんばかりに撃った。
敵戦車の砲身や機銃が、一斉に味方の重機関銃小隊に集中した。
第一分隊の銃手、即死。
重戦車の巨砲が向きを変え、味方の陣地に向かって水平射撃の位置に砲身を構えた。
五体を揺るがすような炸裂が山野をゆるがした。
体は壕に叩きつけられ、舞い上がった土砂で半分ほど埋まった。
陣地における指揮連絡はまったく寸断され、日が暮れて、生き残った者同士が、負傷者をかばいながら引き揚げてくるが、集合場所さえ定まらない乱戦となった。
川上哲次候補生は、手記にてこのように報告している。
「道路上に、3~40両の敵戦車が轟音をあげてあらわれた。まるで動く岩のようであった。またひとりの肉攻手が、爆薬をかかえておどりでた。戦車はとまらない。
肉攻手の姿が一瞬見えなくなった。
次の瞬間、肉攻手は、戦車のキャタピラに腕を挟まれ、逆さ宙づりになった。
おもわず息をのむ。
そのとき爆薬が炸裂した。
ピカッ、グワーン!
閃光が走り、ものすごい煙に包まれ、敵戦車は立ち往生した。
恐ろしくなったのであろう。ソ連兵は戦車から飛び出し、逃げ出した。
勇敢な肉攻手が2~3名、壕から飛び出し、敵の戦車に躍りあがり、掩蓋(えんがい)から中にはいる。
戦車の砲塔が、ぐるりと後ろを向いた。
ズドーン!
すぐそばまできていた後続の戦車めがけて、ぶっ放したのである。
「やった!」と壕の中では歓声があがった。
続いて戦車めがけて一発! そしてまた一発!
分捕り戦車は猛然と火を吐いた。
痛快極まるとはこのことか。
たちまち5~6両の敵戦車を粉砕してしまったのである。
後続の敵戦車群は大混乱となり、後退した。
そのときの勇士は、鈴木秀美候補生、一之瀬候補生、和泉伍長の3名である。
鈴木候補生は、敵戦車の構造をよく知らず発砲の折、砲座で顔面を強打し、大腿部も負傷していた。
彼は、戦車から外に出て、中隊長や戦友に向かい、
「自分は負傷してこれ以上戦えない。速射砲の分隊長として、砲と運命を共にする責任がありながら、砲は射撃不能となった。自分はここで砲とともに自爆する。天皇陛下万歳!」
そう叫ぶと、10キロの爆弾を抱きしめ、壮絶な爆死を遂げた。
猪俣大隊長は、戦車砲撃の直撃を受け、一片の肉も留めぬ壮烈な戦死を遂げられた。
代わって大隊の指揮は、梅津眞吾中尉がとられ、敵戦車に果敢な奇襲攻撃をかけられたが、ついに陣地は敵戦車に蹂躙され、死傷者続出の事態となった。
梅津中尉は、もはや組織的な戦闘は不能と判断し、生存者を集めて、後方の山中に入り、脱出した。
8月15日、掖河(えきか)の本体にたどり着いたときは、磨刀石出撃時に750名いた猪俣大隊の候補生は、わずかに105名になっていた。
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この戦いで、「岸壁の母」で歌われた端野いせさんの息子、端野新二候補生も、消息を絶ちました。
終戦後端野いせさんは、東京都大森に居住しながら、新二の生存と復員を信じて昭和25(1950)年1月の第一回引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港するたびに、舞鶴の岸壁に立って息子の帰りを待ちわびます。
昭和29(1954)年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行しています。
ひとついえることは、候補生のみなさんは、十分な装備も武器もなかった。
戦えるだけの武器も弾薬もなく、あるのは、少量の武器弾薬とダイナマイトだけだった。
しかも多勢に無勢です。圧倒的な兵力差です。勝負は初めからついている。
しかし、彼らは、自分たちがここで一日でも、一時間でも、一分でも多く敵を釘づけしようとした。
そうすることで、牡丹江に向かって、続々と避難している在留邦人たちが、すこしでも早く、すこしでも遠くまで安全に逃げ伸び、日本に帰還できるからです。
そしてそのために、彼らに残された戦いの方法は、民生用に残っていたダイナマイトを、子供のランドセルくらいの塊にして、それを両手で抱えて、肉攻突撃をしかなかった。
それでも彼らは立派に戦いきりました。。
彼らは命令があったから散華されたのではありません。
もっと崇高な使命のために、戦った。
命令はそのきっかけにすぎません。
彼らの気高い魂を、彼らの勇気を、私たち日本人が語り継がないで、いったい誰が語り継ぐのでしょうか。
いつかかならず、彼らの勇気が、彼らの行動が、日本中を感動の渦に巻き込む日がくる、かならず来ると、ボクは信じています。
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