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日露戦争が起こる13年前、ロシアの皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、日本遊行中、突然斬りかかられ、右側頭部に9cm近くの傷を負うという事件が起こりました。
世に言う「大津事件」です。
当時の日本には、まだロシアと戦えるような国力はありません。
大国ロシアが怒って日本に宣戦布告してきたらどうなるか。
ニコライ皇太子を乗せてきたロシアの艦隊の軍艦は、神戸港に7隻が停泊中です。
その圧倒的な大砲が火を噴けば、神戸は瞬時に壊滅する。
軍艦が大阪や東京に移動し、砲撃を加えたらば、あっという間に火の海になる。
宣戦布告までいかなくても、その強力な火力で、日本の領土である千島や北海道の割譲を要求してきたらどうなるか。
大津事件は、まさに当時としては驚天動地のとんでもない事件だったのです。
ことのおこりは、明治24(1891年)のことです。
ロシア皇太子ニコライを乗せた軍艦アゾヴァ号(6,000t)が、ナヒモフ号(8,524t)、モノマフ号(5,593t)等を従えて、鹿児島湾にやってきます。
そのロシア艦隊は、当時の日本人にとっては、みたこともないような巨大戦艦です。
厚い鉄板に覆われ、船からは無数の大砲の砲身や銃身がニョキニョキと出ている。
先導しているのは日本の通報艦八重山です。
こちらの船も日本の誇る最新鋭艦です。
だけれど、排水量はわずかに1,609トン。排水量で5倍からの開きがあるということは、見た目の大きさの違いは、ゴリラに囲まれた一匹のウサギ程度でしかない。
これが大国ロシアか・・・誰の目にも国力の違いは明らかです。
皇太子であるニコライは、シベリア鉄道の起工式に臨席するために、インドからウラジオストクに赴く途上で、日本に立ち寄りました。
シベリア鉄道の着工は、そのままロシア陸軍の大軍が満洲からChina、朝鮮に南下してくることを意味します。そして海軍力の誇示は、そこから海を渡って樺太、日本へも侵略することができる。
皇太子の行幸は、逆らったら恐いぞ!という示威活動でもあります。
当時の日本には、幕末にロシア艦が樺太、択捉島、北海道の利尻島を襲って、番人を拉致したり放火、略奪をほしいままにした暴挙の記憶が、ロシアに対する恐怖として残っています。
ロシアは恐ろしい。
そのロシアが、鉄道を敷設して、世界最強の陸軍を東亜に送り込む。
しかも、世界最強の呼び声高い艦隊の砲門を連ねて来日する。
当時の駐日ロシア公使シェービッチは、皇太子一を乗せた軍艦が来日するに際して、軍艦が日本のどの港にも入れるよう、青木外務大臣に強引に迫ります。
日本は、外国の軍艦が入港できる港を、条約によって制限していた。
国内の安全のためです。
当然、青木外務大臣は、ジューヴィッチの要求を拒否したのだけれど、シェービッチは激怒した。
あくまで日本政府が許可しないなら砲撃による武力行使も辞さないぞ!と威嚇したのです。
日本政府は、シュービッチの強硬な態度に、簡単に屈します。
経済力、軍事力、人口、工業力、どれをとっても、当時の日本はロシアに歯が立たない。
もはや要求を飲むしかないのです。
そうであるならば、日本は、むしろこれを逆手にとって、次期ロシア皇帝となる皇太子ニコライを、国賓として最上級の歓待で迎え、日本に好感を抱かせるしかない。
そうすることが日本の安全にとって、むしろ有効だと判断するほかなかった。
一方ニコライは、他の国々への滞在はほんの2~3日なのに、日本だけは30日以上も滞在する予定を組みます。
こちらのほうは、ある意味、気楽なもので、ニコライの叔父のアレキシス大公が、明治6年ごろ訪日し、日本をたいへん好きになった。
で、帰国後ニコライに「東洋に行ったら、是非とも日本に行ってみなさい。その風俗といい人情といい、まさに日本という国は君民が一致し和合した、世界無比の楽園ですよ」と日本をベタ褒めに褒めていたのです。
ニコライは、訪日をとても楽しみにしていた。

ニコライを乗せたロシア艦隊は、4月27日長崎に到着します。
そして5月8日に、鹿児島湾に立ち寄り、5月9日に、神戸港に到着した。
一行は翌日から陸路で京都に向かいます。
日本政府は、とにかく粗相があってはならない。
またニコライに、日本への好感を抱いてもらわなくてはならないからたいへんです。
必死でニコライの接待をし、各地で盛大な歓迎式典を行った。
京都では皇太子に夜景を楽しんでもらうため、東山如意ケ嶽と衣笠山の山腹に、季節外れの「大」という火の文字を浮かび上がらせたりもした。
一行が行く先々で、きれいな花火を打ち上げた。
若い皇太子は、眼を輝かせて、接伴委員長の有栖川宮に「心のこもった歓迎に感謝します」と言っています。たいへん満足されていた。
大文字山の歓待のあと、ニコライ一行は京都から大津に出て、琵琶湖の周遊を楽しみます。
その帰路の午後1時30分。大津の街中で事件は起こります。
ニコライと、共に来日していたギリシャ王国王子ゲオルギオス、有栖川宮威仁親王の順番で人力車に乗り込み、大津市街を通過中のことでした。
警備を担当していた滋賀県警巡査の津田三蔵が、突然敬礼の挙手を解いたと思ったら、腰のサーベルを抜いてニコライを斬りつけたのです。
一太刀を受けたニコライは、人力車から飛び降りると、脇の路地へ逃げ込みます。
加害者津田三蔵は、それを追ってなおも斬りかかる。
追いかけたゲオルギオスが、津田巡査の背中を竹の杖で打ちます。
ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎が、津田巡査の両足にタックルした。
津田が転んだ。
ゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎が、津田が転んだときに落としたサーベルを奪い、津田の首へ一太刀あびせた。
首から血を流した津田に、警備中の巡査らが組みつき、取り押さえた。

すべては一瞬の出来事です。
ニコライは、猛烈な出血で右顔面を真っ赤に染めている。
右側頭部に9cm近い斬傷を負ったのです。
しかし一命はとりとめた。

「たいへんなことが起こった」
現場にいあわせた威仁親王は、即座にこの事件を自分のレベルでは解決できない重大な外交問題と判断します。
威仁親王は随行員に命じて顛末(てんまつ)を急いで書きまとめさせ、東京にいる明治天皇に電報で事件の模様を上奏します。
さらにロシア側に誠意を見せるために天皇に京都への緊急行幸を要請した。
報告を聞いた明治天皇は、直ちに威仁親王に到着までのニコライの身辺警備を命じるとともに、すぐに北白川宮能久親王を見舞い名代として京都に派遣します。
事件翌日には、明治天皇みずからが新橋駅から汽車に乗り、同日夜には京都に到着した。
その夜のうちにニコライを見舞う予定だけれども、ニコライ側の侍医はこれを拒みます。
天皇はひとまず京都離宮(二条城)に宿泊される。
威仁親王の兄の熾仁親王も天皇の後を追って京都に到着。
翌13日、天皇はニコライの宿舎である常盤ホテルに自ら赴いてニコライを見舞います。
さらに陛下は、熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送られた。
小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたのです。
ささいなことで言いがかりをつけて、東亜の一国を制圧し、植民地支配する、これは当時の列強大国の常套手段です。
日本国内には、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」と大激震が走ります。
学校は謹慎の意を表して休校になります。
神社や寺院や教会は、皇太子平癒の祈祷が行われます。
ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超えています。
山形県金山村(現・金山町)などは、「津田」の姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議したりしている。
東京で奉公をしていた畠山勇子は、事件の発生を知り、いてもたってもいられずに、叔父に自分もなにかできないかと相談します。
叔父は「女風情が心配したとて何になる」と諌めるけれど、勇子は、じっとしていられない。
彼女は、その夜10通の遺書を書き、翌日、着物を質屋に入れて旅費を工面し、髪結所で剃刀を研いでもらって、京都へ赴きます。
そして七条停車場に着いた勇子は、人力車をやとい、東西本願寺、三十三間堂、大仏、清水寺、 二条城をまわり、知恩院では、
きょう参る ちなみも深き知恩寺の
景色のよさに 憂も忘るる
と歌を残した。
そして京都府庁前まで来た勇子は、遺書を脇に置いて、剃刀でのどを掻き切って自害を遂げます。享年25歳でした。

島津家の令嬢、島津玲子は、これこそ烈女と褒め称え、畠山勇子の墓にお参りして花を添えています。
日本中の人々が畠山勇子を勇気ある女性と褒め称えた。
一方、京都のホテルでロシア医師による手当てを受けていたニコライ一行は、天皇から差し遣わされた二人のお見舞い医が到着しても、診察を拒否しています。
東京から駆けつけた青木外務大臣、西郷内務大臣が見舞いに伺いニコライに謝罪しようとしたけれど、ロシア側は、これも「面会謝絶」と突っぱねている。
明治天皇も数回、ロシア本国にいるロシア皇帝に状況報告の電報を打たれていたが、まったく返事はない。
陛下がニコライを見舞われた際、「ご健康が旧に復せられたら、東京その他を御巡覧なされることを切に希望します」と述べられたけれど、ニコライは、天皇の見舞いに感謝しつつも、「東京に行くかどうかは、本国の父皇帝の指示に従います」と返事を留保した。
皇太子が旅を中断してしまえば、ロシアとの国交は危機を迎える。
このときニコライ皇太子は、明治天皇の人格に強く魅せられ、あたかも敬愛する師に対するような敬意の念を持ちます。
そしてニコライ自身が、父親皇帝に、その旨を報告する。
陛下のお見舞いの後、ロシア皇帝からの初めての電報がもたらされます。
その内容は、大事に至らなかった事を喜び、「陛下がこのことにつき色々ご配慮下さったことを感謝いたします」というものだった。
一同はホッとします。もしこのとき陛下が動いてくださらなかったら、日本は、そのままロシアに併呑されていた可能性すらあった。
しかし、東京に行くという皇太子ニコライの希望、それを承認したロシア皇帝の指示とは逆に、ロシア公使のシェービッチは、ニコライの旅の継続を強硬に反対します。
そしてロシアの皇后を動かして、ニコライに3日後に日本を離れるよう命令を下させた。
陛下は、お別れに神戸のご用邸で午餐を差し上げたいと招待し、皇太子も喜んで応じようとしたけれど、シェービッチ公使は、ロシア医師に手をまわし、これにも強硬に反対します。
やむをえず皇太子は、逆に天皇をアゾヴァ号での午餐にお招きした。
これはロシア側が陛下を拉致しようとする陰謀かもしれない。周囲の全員が反対する中、陛下は、招待を受け入れられます。
ロシア本国では、外務大臣ギールスが、事件に激怒して当初は断固日本に報復すべし!と繰り返していたけれど、一連の陛下のご対応と現地のニコライからの報告によって、皇帝が態度を軟化。
「日本の天皇、政府、国民の誠意溢れる態度に皇帝も皇后も十分満足しているので、この事件についての賠償は一切要求しない」との公式声明を日本に伝えます。
さて、日本政府です。
犯人・津田三蔵をどう処罰するかは、重大な国交上の問題です。
時の松方内閣は、対露関係の悪化から来る戦争を恐れ 津田三蔵を「死刑」にすべしと要求します。
そうでなければ、ロシア皇帝、ロシア国民を納得させられない。
ところが、日本の刑法には、外国の王族に危害を加えた場合の規定がありません。
一般人に対する殺人未遂をそのまま適用した場合、最高刑は「無期懲役」です。
青木外務大臣は、ロシア公使シェーヴィチに、「無期懲役」と説明します。
シューヴィッチは納得しない。
「終身刑というなら、それでもよろしい。ただし、わがロシアと日本の間になにか途方もない重大な事柄が起こるかも知れず、それは覚悟して欲しい」という。
青木外相は、事件発生直後に、駐日ロシア当局に対して、犯人の津田は死刑に処せられるはずであるという言質を与えていたのです。
シェーヴィッチにしてみれば、いまさら何を言うか!となる。
大臣の中には、いっそのこと刺客を使って津田三蔵を暗殺させては、という意見を言う者まで出ます。
これに対しては元老伊藤博文が、怒声に近い声で「いやしくもわが国は法治国家であり、そのような無法は許されぬ!」と諌めた。
やむなく山田司法大臣は、刑法116条「天皇、三后(太皇太后、皇太后、皇后)、皇太子ニ対シ危害ヲ加へ、又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」をロシア皇太子にも適用すれば、死刑にできると考えます。

しかし、これに待ったをかけたのが、大審院(後の最高裁判所)院長であった児島惟謙(こじまこれかた)です。このとき児島52歳。
児島は、刑法116条は、国家統合の中心たる皇室に危害を与えることは国家の安寧と秩序を害することであるから特別に設けられているのである。条文上、外国の皇族に適用することは不当である、とします。
松方総理は、児島を呼び、悲痛な声で「なんとしても、津田三蔵を死刑にしなければならないのだ」と言います。
しかし児島はこう答えた。
「私個人の感情としては、津田三蔵のような人物は、国家の大罪人として八つ裂きにしてもまだ足りないほどに思っております。
ただし、法律は、国家の精神です。
いかなることがありましょうとも、これを断固として守ることが、国に対する忠義であります」
児島の論を考えるのには、当時の日本の国際社会に置かれた情況を理解する必要があります。
幕末の徳川政権は、諸外国に「治外法権」を与えました。
これは、外国人が日本国内で罪を犯しても、日本には裁判権がない、というものです。
要するに、法治制度が十分発達していない日本は、欧米列強からみれば野蛮国にすぎず、そういう国の裁判制度は信用ができない。だから日本国内で欧米人が罪を犯しても、その被告人に対する裁判権は、欧米が持ち、日本には与えないというものです。
ことのことはつまり、今回の大津事件で安易に法を曲げれば、日本はやはり司法に信用厳正がなく、各国は「益々(ますます)軽蔑侮蔑ノ念増長シテ、動(やや)モスレバ非理不法ノ要求」を日本につきつけ、要求することになる。
国際社会の中で、日本が自主独立を保つためには、むしろこういうときにこそ、法の尊厳と裁判の独立を堅持しなければならないのです。
津田を死刑にしなければ、ロシアと戦争になる危険があり、法を曲げて死刑にすれば、それを口実に欧米諸国はいつまでも日本を見下し、条約改正に応じない。
といって、この頃近衛師団の少尉であった石光真清が書き残しているように、「日本の軍備は、ロシアと比べたら『七五三のお祝いに軍服を着た幼児』でしかない」。
そのロシアが怒っている。

内閣は窮地に陥った中で、同年5月27日、大津地方裁判所で大審院が開かれます。
いきなり大審院ということは、1審で終審となるということです。
これは簡単に言ったら、最高裁判所判事が、大津地裁まで出張して最高裁法廷を開いた、ということです。
おかしな話ですが、政府の圧力で、この件に関する裁判は、地裁を飛ばして、いきなり大審院法廷となった。ちなみに地裁で大審院が開かれたのは、これが最初にして最後)です。
この日、大審院検事総長三好退蔵(みよしたいぞう)は、「皇室に対する罪」により死刑に処すべきものと論告します。
昼12時30分に開廷された裁判は、途中休廷をはさみ、午後6時30分に、結審した。
判決は、謀殺未遂罪により無期懲役。
日本政府はロシア駐在の西公使を通じて、外務大臣ギールスに判決の説明をします。
ギールスは、「はなはだ不快である。わが皇太子に危害を加えた者を、一般人に危害を加えた者と同じ処分をした」とカンカンに怒ります。
西は、日本政府は最大限の努力をした、しかしこれは法の限界であることを理解して欲しいと述べます。
二人の対談は、平行線となります。
ギールスはロシア皇帝に、対談の内容を上奏します。
ロシア皇帝は、
「これは日本の法律にもとづくものである。それい以上なにも言うことはない」と述べた。
つまり、日本の司法権の独立性を認めたのです。
これにより、大津事件による日ロ関係は、ひとまずの決着を見ます。
児島の下した判決は、たちまちは大国ロシアの対日感情に悪影響を与えることが憂慮されました。
しかし、その勇気は、国際的には日本の司法権、ひいては近代国家としての評価を各段に高めたのです。
誰の目にも、法に基づいて日本の下した判断の方が、正しい。
そしてその「正しさ」が、皇太子殺害未遂事件を引き金にしたロシアの南下を食い止め、治外法権の撤廃を目指す明治政府の不平等条約改正交渉にも、プラスの影響をもたらします。
簡単にいえば、他国のいいなりになって、China共産党のナンバー6の習近平のような人物を、無理やり日程を捻じ曲げて陛下に引見させるような、つまり、原理原則を政治的にねじ曲げる政府というものは、世界中、どこの国からも結果として信用されない。
これに対して、司法の独立を貫いた児島惟謙の活躍は、日本がきちんとした法治国家であることを、世界に示すものとなった。
ところで、内閣ならびに世論が全体が、犯人津田を死刑にせよ、と動くなかで、一人反対してあくまでも憲政を護ろうとした児島は、なぜここまでの勇気を持つことができたのか。
それは、明治天皇から直接賜った勅語にあるといわれています。
今般露国皇太子ニ関スル事件ハ国家ノ大事ナリ。
注意シテ速カニ処分スベシ
陛下は「注意シテ」と述べています。つまり、法律の適用を誤って国家の恥としてはならない、とおっしゃられています。
どういうことかというと、国家に法があっても、内閣が戒厳令を発すれば、法律に縛られない処置をとることができる。これは国際的慣習です。
戒厳令がひかれると、すべての国内法の執行は停止され、国内は軍政に置かれる。
津田被告の裁判は、軍事法廷となり、即時銃殺にすることも可能になる。
ところが、明治天皇は、あらかじめ上にある勅語を発布された。
陛下が、大審院裁判長に、この勅語を下賜されたということは、陛下のご意思は、戒厳令ではなく、司法によって厳正な裁判をせよ、という意義です。
つまり、内閣府による戒厳令は発布しえない。
逆にいえば、法廷で法に基づく厳正な裁判が行われなければならない。
津田の裁判を担当した7人の判事は、内閣の必死の説得にも関わらず、児島に賛同し、116条適用を不当として、全員一致で無期懲役の判決を下したのです。

さて、終身刑の判決を受けた津田三蔵は、事件から4か月後の同年9月29日、北海道釧路刑務所で絶食、肺炎にて病没します。享年38歳でした。
逮捕された犯人の津田三蔵巡査は、伊賀上野藤堂家に仕えた代々の藩医の家柄です。
西南戦争では陸軍伍長として出征し、左手を切りつけられながらも活躍して軍曹に昇進し、勳七等を与えられている男です。
彼にとって西南戦争は、命を賭けて戦った戦いで、
「いつの日か西郷がロシアと共に日本に攻めてくる」が口癖だったと言います。
実際、この当時、西南戦争で自刃した西郷隆盛が生存しているとの風説がまことしやかに流されていて、西郷をロシアで見たという人が現れたりしていた。明治24(1891)年4月1日付朝野新聞にそんな記事が書かれている。
さらにニコライ来日の際、西郷が一緒にやってくるというデマが出て、下の絵のような錦絵が売りに出されてもいた。

事件当日の朝、津田三蔵巡査は、妻の作ってくれた、いつもの美味しいご飯と味噌汁をほおばり、
「御通行が早く済めば、すぐに帰ってくる。今回の警備は、旅費をくだされるので、自分としては喜んでいる」と述べています。
津田の妻は、「あなた気をつけてくださいね」といって津田三蔵を見送った。
その津田が担当した警備地は、滋賀県大津市の三井寺観音堂です。
そこには西南戦争の記念碑が建っています。
西南戦争でともに戦った彼の戦友が眠っているのです。
そこへニコライを含めたロシアの随行官一行がやってきました。
津田たち警官は、全員敬礼をして、一行を出迎えます。
後ろでは、記念の花火が、ド~ン、ド~ンとあがっている。
そのとき、ニコライの随行官のひとりが、西南戦争の記念碑に唾を吐きます。
理由はわかりません。痰が喉に絡まっただけなのか、それとも日本を小馬鹿にする気分があったのか・・・。
これを見た津田三蔵は目を疑います。
津田は目を見開き、そのロシア人を睨みつけた。
花火の音は、津田三蔵の西南戦争の大砲の音と記憶を引き出します。戦闘で死んで行った仲間の姿が脳裏に浮かぶ。
睨みつける津田に気づいたロシア人の随行員は「文句あるのか?!」といわんばかりに、一瞬、むっとした顔を津田に向けます。
日本人の外交官や通訳がやわらかく声をかけると、そのロシア人は、笑いながら彼を侮辱するようなしぐさを見せてをまた日本外交官と会話をはじめた。
日ごろ冗談で言っていた津田の持論がこのとき頭をもたげます。
目の前の一行は、危険な西郷の一行でもある。そんな思いが彼の脳裏を満たした。
気がつくと、津田は衝動的に、サーベルを抜き、奇声をあげていた。
「慰霊碑に唾を吐きかけるとは何事かっ!許さぬ、断じて許さぬ! 死ねっ!」
彼は、まずロシア人一行の総大将であるニコライに斬りかかり、返す刀でロシア人一行を皆殺しにしようとした。そしてまず、ニコライに向けて斬りかかっていた。

事情をしれば、津田の気持ちは、いまの我々にも痛いほどわかります。
しかし当時、津田の動機は隠蔽されています。いっさい報道されなかった。
津田に同情する日本人が出てくれば日露の関係は、さらに最悪になるからです。
津田は、国賊だったのです。
日本中、全国民が、津田を悪人と考えた。
たしかに津田のしたことは、許されるべきことではありません。
しかし津田の妻は、夫の気持ちを知っていた。
悪いのはロシアの随行官だ、夫ではない。
たしかに、津田が皇太子ニコライを殺していれば日本国は滅んでいただろう。
でも、夫が、慰霊碑に唾を吐きかけられて我慢できなかった夫の思いは、痛いほどわかる。
世界を的に回しても、たったひとり、彼女だけが津田三蔵の理解者だったのです。
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