
売国左翼や反日主義者、朝鮮半島などでは、日本人の警察官というものは、まるで悪の権化のように思っているかのようです。
ところが台湾にいきますと、いまでも高砂族のあいだで、警察といえば守り神のように慕われています。
戦前の台湾の警官といえばエリート中のエリートだったのです。
警官になるのは、現在の東大に合格するよりむずかしいことでした。
台湾の警察官は、それだけ名誉ある職業であり、人々から尊敬される職業だったのです。
その台湾で、神として祀られている警察官がいます。
その警官の名前は、廣枝音右衛門(広枝音右衛門)といいます。
音右衛門は、明治38年の生まれで、神奈川県小田原市で生まれた方です。
逗子の開成中学、日本大学予科と進み、昭和3年、23歳のとき、佐倉歩兵第57連隊に入隊し9、軍曹となりました。
任期満了で除隊したあと、湯河原の小学校教員などをしていたのですが、昭和5年、台湾にわたり競争率100倍という超難関の台湾総督府の巡査となりました。
そして台湾・新竹州の巡査として勤務した。
この時代、台湾の察官は、治安活動だけでなく、台湾の人々を内地の日本人と同等の教育、文化水準に引き上げるという、行政上の役割も担っていました。
昭和17年5月、音右衛門は、警部に昇進し、新竹州竹南の郡政主任として勤務します。
そしてここで、大東亜戦争の戦線拡大にともなって台湾で結成された総勢二千名におよぶ海軍巡査隊・総指揮官を拝命します。
海軍巡査隊は、昭和18年12月8日、高雄港から特務艦「武昌丸」に乗り込んで、フィリピンのマニラに向かいました。
マニラでは厳しい訓練の日々が続きます。
音右衛門は、隊長として、常に部下の先頭に立厳しい訓練を率先して受け、部下たちひとりひとりを励まし続けました。
そんな廣枝隊長を部下たちは、とても慕った。
巡査隊の任務は、物資の運搬、補給などの後方支援です。
戦況は刻々と悪化し、ついに昭和20年2月、マニラ市近郊に米軍が上陸してきます。
米軍と戦闘すること3週間、ついに弾薬も尽き、玉砕やむなしの情況となります。
海軍巡査隊にも、フィリピン派遣軍司令部から棒地雷が支給され、
「これで敵戦車に体当たりし、全員玉砕せよ」
との総攻撃命令が出されます。
音右衛門にも家族がいます。
台湾には、妻と3人の子供たちがいる。
音右衛門は苦慮したうえで、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添(りゅういてん)を伴って、米軍にひそかに交渉を行います。
そして二千人の部下たちを前に、こう言った。
諸君。
諸君らは、よく国のために戦ってきてくれた。
しかし、今ここで軍の命令通り犬死することはない。
祖国台湾には、諸君らの帰りを心から願っている家族が待っているのだ。
私は日本人だ。
だから責任はすべて私がとる。
全員、米軍の捕虜になろうとも生きて帰ってくれ」
二千人の部下たちは、一同、言葉もなくすすり泣きます。
音右衛門の気持ちが痛いほどわかったのです。
音右衛門は、部下たちへの訓示のあと、ひとりで壕に入ります。
そして、拳銃をみずからの頭に向けると、頭部2発撃ち、自決した。
昭和20年2月23日午後3時頃のことです。広枝音右衛門、享年40才。
音右衛門の決断によって、海軍巡査隊の台湾青年ら二千名は、生きて故郷の台湾に帰還することができました。
このときの恩を忘れない台湾巡査隊の面々は、戦後、台湾新竹州警友会をつくり、台湾仏教の聖地である獅子頭山にある権化堂に、広枝音右衛門隊長をお祀りします。
そしてさらに広枝隊長から受けた恩義を、末永く語り継ぐべく茨城県取手市の弘経寺に、広枝隊長の「顕彰碑」をも健立する。

「顕彰碑」には、以下の文章が彫られています。
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泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す
時に2月24日なり
その最後たるよく凡人のなしえざるところ。
せんなるかな戦後台湾は外国となりたるも
この義挙により生還するを得た数百の部下達は
吾等の今日あるは、
あのとき、隊長の殺身成仁の義挙にありたればこそと
よろしく称讃し、この大恩は孫々に至るも忘却することなく
報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと
昭和51年9月26日隊長ゆかりの地、霊峰獅子頭山権化堂にてその御霊を祀り、
盛大なる英魂安置式を行う。
この事を知り得て吾等日本在住の警友痛く感動し、
相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝え
その遺徳を顕彰せんとしてこの碑を健立す
元台湾新竹州警友会
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昭和58年5月、小隊長をつとめた劉維添(りゅういてん)氏は、かつての隊長の自決の地であるフィリピンを訪れました。
そこで彼は、隊長終焉の地の土を集め、茨城県取手市に住む、ふみ未亡人に、その土を手渡された。(ふみさん平成元年2月、76歳で永眠)
こうして広枝隊長は、獅頭山の権化堂に神様として祭られ、鬼籍の人となったふみ夫人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人たちの手によって、台湾・権化堂に祭られました。
自らの命に代えて、二千人の部下の命を守った広枝音右衛門氏。
こうした歴史を、私たち日本人は、決して忘れてはならないのだと思います。
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