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ハバロフスク市
ハバロフスク市

(昨日までのあらすじ)
シベリアに抑留された日本兵たちは、祖国への思いを胸に、10年間、ソ連兵の横暴に堪えた。
しかし、日に日にソ連兵の横暴はつのる。
このままでは仲間の命が危ない。
ついに769名の日本人は立ち上がった。

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2月3日、第16収容所所長が交代しました。
マルチェンコ大佐の後任に着任したナジョージン少佐は、着任当初は、いかにも温和な態度で、彼の表現を借りれば「日本人の立場に入り込んで事の解決に努力する」と言明していました。
しかし事件の原因の説明、私たちの要求の説明という段になると、用事があるといって引っ込んでしまって出て来ない。
そして何かというと
「私は新たな立場で着任した。
 従って以前のことについては
 何も知らない。
 君らの要求に対する回答は、
 今度できた新指導部の命令がくるまで
 どうにも動けない」
と言い逃れていました。
しかも、
「作業については当分言及しないことにする」
と言明したかと思うと、3日もすると、
「作業だ。作業に出れば万事解決する」
と作業強要の態度に豹変する。
1月31日に異動してきた病院長のミリニチェンコ中佐はまだマシで、従来のソ側の非をさとり、石田らの病院関係にたいする改善要求を素直に聞きいれ、彼のできる範囲内で、真剣に改善に骨折ってくれました。
日本人軍医を信頼して、その起用を計画もしてくれました。
病人食の支給にも大いに努めてくれました。
注射、投薬等も多量に施してくれました。
入院を宜告されていたが、まだ入院できないでいる約30名のために、新たな病窒拡張を計画してくれました。
病院炊事を拡大し、医務室日本人勤務員の過労を見てとり、勤務員の増加の計画もたててくれました。
病院勤務員の手当の増額についても努力してくれました。
そしてソ連人病院勤務者の態度が一変して親切になりました。
しかし、「計画」だけでした。
「計画」されたものは、まるで実施されませんでした。
一部実施されたものも2週間たらずのうちに、また、もと通りに戻ってしまいました。
ミリニチェンコ中佐の上役である、ハバロフスク地方官憲当局者が、彼の申請をことごとく却下したからです。
ミリニチェンコ中佐がソ連側の非をさとり、どんなに改善に真剣に取り組もうとしても、彼の上司の見解、決定が変更されない限り、彼一人がいくら躍起となっても、所詮、無駄骨折りになるのです。
それが政治主導の正体です。
ハバロフスクには、中国人、朝鮮人、蒙古人がかなりの数、収容されていました。
彼らの代表が、ある時、闘う日本人を訪ねて共闘を申し込んできました。
「私たちはこれまで、
 日本人は何と生気地がないのかと
 思っていました。
 日本に帰りたいばかりに、
 何でもソ連の言いなりになっている。
 それだけでなく
 ソ連に媚(こ)びたり、
 へつらったりしている。
 情けないことだと思いました。
 これがかつて、
 私たちの上に立って支配していた民族か、
 これが日本人の本性かと、
 実は軽蔑していました。
 ところがこの度の一糸乱れぬ
 見事な闘いぶりを見て、
 私達が誤っていたことに気が付きました。
 これが日本人だと思いました。
 私達も出来るだけの応援をしたい」
石田さんは、この言葉に感激しました。
そしてこれまでの自分たちが軽蔑されるのは当然だとも思いました。
ソ同盟万歳を叫び、赤旗を振って労働歌を歌い、スターリン元師に対して感謝状を書くといった、同胞のこれまでの姿を、石田さんは改めて思い返しました。
いくつもの抑留者の手記で述べられていることなのですが、戦いに敗れて、同じように強制労働に服していたドイツ人は、収容所側の不当な扱いに、毅然とした態度をとりました。
ある手記によれば、メーデーの日に、日本人が赤旗を先頭に立てて祝賀行進していると、一人のドイツ人捕虜の若者が、その赤旗を奪いとって地上に投げ、
「日本の国旗は赤旗なのか」と怒鳴ったそうです。
このドイツ人の若者は、同じようにソ連から理不尽な扱いを受けている仲間として、日本人が共通の敵であるソ連に尾を振る姿が許せなかったのです。
しかし、自分の身よりも他人を気遣う日本人には、ドイツ人達のような行動がとれない。
自分が一線を飛び越えることで、他の日本人の仲間、他の虜囚たちに迷惑をかけることを、どうしても気遣う。
自分が暴走するのは簡単です。
しかしそのことで、仲間たちみんなに迷惑がかかったら、取り返しがつかないのです。
なぜなら、ひとりひとりに、みんな祖国の家族が待っているのです。
だから、耐えたし我慢したのです。
自分がつらいときは、他人もつらい。
だから我慢する。
そうしてみんなが一緒に日本に帰る。
だから10年間、言いなりになってきたのです。
でも日本人には、内なる力があります。
その内なる力に火がついたとき、日本人は変わります。
ひとりひとりが自らの意思で闘い、命を賭けて戦うのです。
昭和31年2月が終わろうとする頃、石田さんたちの作業拒否闘争は膠着状態となっていました。
作業拒否を宣言してから2ヶ月、中央政府に対する請願文書の送付も、現地収容所に握りつぶされているのか、まるで中央政府から返答がありません。
日本人たちの団結は固く、志気も高い。
しかし何とかこの状態を打開しなければという危機感が高まります。
石田さんたちは、知恵を絞りました。
人材には事欠かきません。
元満州国や元関東軍の中枢にいた要人もいるのです。
かつて陛下の軍隊として戦った力を、今は新たな目標に向け、新たな大義のために役立てているのです。
収容所側を追い詰め、中央政府に助けを求めざるを得ない状態を作り出す手段はないか。
そして、ひとつの結論を導き出しました。
それが「断食をする」というものでした。
収容所の日本人全体が断食して倒れ、最悪死に至ることになれば、収容所は中央政府から責任を問われます。
収容所は、そういう事態を最も恐れるだろう。
それで現状のこう着状態を打開できるかもしれないと考えたのです。
こうして全員一致で断食闘争が決まりました。
密かに計画が練られ準備が進められました。
健康で生きて祖国に帰ることがこの闘争の目的です。
断食をいつまでも続け、自滅してしまったのでは元も子もありません。
ただでさえ、みんなの体力も落ちているのです。
そこでみんなが少しずつ蓄えていた日頃配られた食料の一部や、小麦粉から密かに作った乾パンなどを、貯蔵し、秘かに断食闘争に使おうということになりました。
完全な断食によって、体力を消耗し尽くし、倒れてしまったら元も子もないからです。
そして断食闘争に入った場合、相手が変化して中央政府が何らかの行動が入るまでに、およそ一週間と見通しをつけました。
闘争代表部は、断食宣言書を作り、収容所のナジョージン少佐に渡しました。
「作業拒否以来70日が経過しました。
 この間何等誠意ある対応はみられません。
 ソ連邦政府の人道主義と平和政策を
 踏みにじろうとする地方官憲の卑劣な行為に対して
 我々は強い憤激の念を禁じ得ません。
 そこで自己の生命を賭して、
 即ち絶食によって
 中央からの全権派遣を請願する以外に
 策なきに至りました。
 3月2日以降、我々は断固として
 集団絶食に入ることを宣言します」
そして断食闘争に耐えられない病弱者を除き、506名が断食に入りました。
このような多数が一致して断食行動に出ることは、収容所の歴史にも例のないことで、収容所当局は、狼狽(ろうばい)しました。
彼らは態度を豹変させ、何とか食べさせようとして、なだめたりすかせました。
しかし日本人の意志は固い。
ある者は静かに目を閉じて座し、ある者はじっと身体を横たえて動かない。
それぞれの姿からは、死の決意が伝わり、不気味な静寂は侵し(おか)難い力となりました。
収容所の提供する食料を拒否し、乾パンを一日二回、一回に二枚をお湯に浸してのどを通します。
空腹に耐えることは辛いことです。
しかし零下30度を越す酷寒の中の作業に長いこと耐え、様々な辛苦を耐えてきたことを思いました。
そうすることでみんな堪えました。
一点、これまでの苦労との違いがあります。
これまではソ連の強制に屈して奴隷のように耐える苦労でした。
しかし今度の苦労は、胸を張って仲間と心を一つにして、正義の戦いに参加しているのだという誇りがあることでした。
一週間が過ぎたころ、収容所に異質な空気が漂ってきました。
そして3月11日午前5時、気温零下35度の冷気の静寂をただならぬ物音が打ち破りました。
「敵襲!起床!」
不寝番が絶叫しました。
「ウラー、ウラー」
威嚇の声がしました。
すさまじい物音で扉が壊されました。
ソ連兵がどっとなだれ込んできました。
「ソ連邦内務次官ポチコフ中将の命令である。
 日本人は戸外に出て整列せよ!」
入り口に立った大男がロシア語で叫びました。
並んで立つ通訳がそれを日本語で繰り返しました。
日本人は動きません。
ソ連兵は、手に白樺の棍棒を持って、ぎらぎらと殺気立った目で、大男の後ろで身構えていました。
大男が手を上げてなにやら叫びました。
ソ連兵が日本人に襲いかかりました。
ベッドにしがみつく日本人。
腕ずくで引きずり出そうとするソ連兵。
飛びかう日本人とロシア人の怒号。
収容所の中は一瞬にして修羅場と化しました。
「手を出すな、抵抗するな」
誰かが日本語で叫ぶ声がしました。
この言葉が収容所の中でこだまし合うように、あちらでもこちらでも響きました。
長い間、あらゆる戦術を工夫してきたなかで、合言葉のように繰り返されたことが「暴力による抵抗をしない」ということでした。
棍棒を持ったソ連兵の、扉を壊してなだれこむ行為は、支配者がむき出しの暴力を突きつけた姿です。
その暴力に暴力で対抗しら、もっと容赦ない暴力が引き出されることは明らかです。
だから咄嗟の事態でも、
「我慢しろ、手を出すな、全てが無駄になるぞ」
という声が日本人の間にこだましたのです。
引きずり出されてゆく年輩の日本人の悲痛な声が、ソ連兵の怒鳴る声の中に消えて行きました。
柱やベッドにしがみつく日本人をひきはがすように抱きかかえ、追い立て、ソ連兵は、全ての日本人を建物の外に連れ出した。
収容所の営庭で勝者と敗者が対峙しました。
敗れた日本人の、落胆し肩を落とした姿を見下ろすソ連兵指揮官の目には、それ見たことかという冷笑が浮かんでいました。
ソ連がこのような直接行動に出ることは、作業拒否を始めたころからずっと警戒し続けていたことです。
そして断食宣言後もずっと、中央政府の代表が交渉のために現われることを期待していました。
それが予想外の展開になったのです。
「もはや命がないのか。。。」
誰もがそう思いました。
「首謀者は前に出よ!」
石田三郎さんは、ポチコフ中将の前に進み出ました。
ボチコフは、中央政府から派遣された将官でした。
威厳を示して椅子座っています。
石田さんは敬礼をして直立不動の姿勢をとりました。
そして将官の目を見詰めました。
沈黙が流れました。
一面の緊張が漂いました。
「こいつがソ連の中央政府の代表か」と、石田さんの心には、走馬灯のように、かつて満洲になだれ込んだときのソ連軍の暴虐や、混乱、逃げまどう民間人の姿、長い刑務所での労苦、収容所の様々な出来事などがよみがえりました。
悔しさ、悲しさ、怒り・・・
こみあげる感情の中で、石田さんは、気が付きました。
ポチコフ中将の態度が、これまでのソ連軍とは何か違うのです。
石田さんは、この時ひとつのことに気が付きました。
さっきソ連兵が収容所に踏み込んできたとき、彼らは白樺の棍棒を手にしていました。
銃を使っていませんでした。
石田さんは、気づきました。
そして胸を張って発言しました。
「私たちがなぜ作業拒否に出たか、
 そして私たちの要求すること。
 それは中央政府に出した
 数多くの請願書に書いた通りです。
 改めて申し上げますと・・・」
ポチコフ中将がその言葉をさえぎりました。
「それらは読んで承知している。
 あらためて説明しなくもよい。
 いずれも外交文書としての
 内容を備えている」
「しかし」とポチコフ中将は、鋭い目で石田さんを見据えました。
「お前たち日本人は、
 ロシア人は入るべからずという
 標札を立ててロシア人の立ち入りを拒んだ。
 これはソ連の領土に
 日本の租界をつくったことで許せないことである」
これは石田さんが拉致されるのを阻止しようとする青年たちが、自分たちの断固とした決意を示すために収容所の建物前に立てた立札を指しています。
石田さんにとっては、自分が厳しく処罰されることは初めから覚悟していたことです。
驚くことではありません。
石田さんが黙っていると、ポチコフ中将は、今度は静かな声で聞いてきました。
「日本人側にけが人はなかったか」
「ありませんでした」
石田さんは続けました。
「お願いがあります。
 私たちの考えと要求事項は、
 この日のために書面で準備しておきました。
 是非ご調査いただき、
 私たちの要求を聞き入れて頂きたい。
 そのために日本人は、
 死を覚悟で頑張ってきました。
 私の命はどうなっても良いです。
 けれど他の日本人は処罰しないで頂きたい」
「検討し、追って結論を出す。」
会見は終わりました。
このあと、日本人の要求事項は、事実上ほとんど受け入れられました。
病人の治療体制も改善され、中央の病院は拡大され、医師は、外部の圧力や干渉を受けずにその良心に基づいて治療を行なうことが実現されました。
第一分所を保養収容所として経営し、各分所の営内生活一般に関しては日本人の自治も認められるようになりました。
その他の、日本人に対する扱いも、従来と比べ驚くほど改善されました。
けれど石田さん中心とした闘争の指導者たちは、禁固一年の刑に処せられ、別の刑務所に移送されました。
この事件について、瀬島龍三さんは、回顧録で次のように述べています。
「この闘争が成功したのは
 国際情勢の好転にも恵まれたからであり、
 仮にこの闘争が四、五年前に起きていたなら
 惨たんたる結果に終わったかもしれない。」
このハバロフスク事件は、昭和30年12月19日に発生した事件です。
ソ連による武力弾圧は翌年の3月11日です。
その年の12月26日、興安丸が舞鶴港に入港した。
そしてこの船で、最後の日本人シベリア抑留者1025人が、日本に帰国したのです。
ハバロフスク事件の責任者石田三郎さんの姿もその中にありました。
一足先に帰国していた瀬島龍三さんは、平桟橋の上で、石田三郎さんと抱き合って、再会を喜びあったそうです。
この事件について、ロシア科学アカデミー東洋学研究所国際学術交流部長アレクセイ・キリチェンコは、その著書「シベリアのサムライたち」の中で、以下のように語っています。
「第二次世界大戦後、
 64万人に上る日本軍捕虜が
 スターリンによって
 旧ソ連領内へ不法護送され、
 共産主義建設現場で
 奴隷のように使役されたシベリア抑留問題は、
 近年ロシアでも広く知られるようになった。
 しかしロシア人は当局によって
 長くひた隠しにされた抑留問題の
 実態が明るみに出されても、
 誰一人驚きはしなかった。
 旧ソ連国民自体がスターリンによって
 あまりに多くの辛酸をなめ犠牲を払ったため、
 シベリアのラーゲリで
 6万2千人の日本人捕虜が死亡したと
 聞かされても別に驚くほどの事はなかったからだ。
 とはいえ、ロシア人が
 人間的価値観を失ったわけでは決してなく、
 民族の名誉にかけても
 日本人抑留者に対する
 歴史的公正を回復したいと考えている。
 今回ここで紹介するのは、
 私が同総局などの古文書保管所で資料を調査中、
 偶然に発見したラーゲリでの
 日本人抑留者の抵抗の記録である。
(中略)
 敵の捕虜として
 スターリン時代のラーゲリという
 地獄の生活環境に置かれながら、
 自らの理想と信念を捨てず、
 あくまで自己と祖国日本に
 忠実であり続けた人々がいた。
 彼らは、自殺、脱走、ハンストなどの形で、
 不当なスターリン体制に抵抗を試み、
 収容所当局を困惑させた。
 様々な形態の日本人捕虜の抵抗は、
 ほぼすべてのラーゲリで起きており、
 1945年秋の抑留開始から
 最後の抑留者が帰還する1956年まで続いた。
(日本人による抵抗運動のことを)
 ソ連の公文書の形で公表するのは
 今回が初めてとなる。
 半世紀近くを経て
 セピア色に変色した古文書を読みながら、
 捕虜の身でスターリン体制に
 捨て身の抵抗を挑んだ
 サムライたちのドラマは、
 日本研究者である私にも新鮮な驚きを与えた。
(中略)
 これは総じて
 黙々と労働に従事してきた日本人捕虜が
 一斉に決起した点で
 ソ連当局にも大きな衝撃を与えた。
 更にこの統一行動は十分組織化され、
 秘密裏に準備され、
 密告による情報漏れもなかった。
 当初ハバロフスク地方当局は
 威嚇や切り崩しによって
 地方レベルでの解決を図ったが、
 日本人側は断食闘争に入るなど拡大。
 事件はフルシチョフの下にも報告され、
 アリストフ党書記を団長とする
 政府対策委が組織された。
 交渉が難航する中、
 ストライキは三ヶ月続いたが、
 結局内務省軍2500人が
 ラーゲリ内に強行突入し、
 首謀者46人を逮捕、
 籠城は解除された。
 しかし兵士は突入の際
 銃を持たず、
 日本人の負傷者もほとんどなかった。
 スト解除後の交渉では、
 帰国問題を除いて
 日本人側の要望はほぼ満たされ、
 その後労働条件やソ連官憲の態度も
 大幅に改善された。
 1956年末までには
 全員の帰国が実現し、
 ソ連側は驚くほどの寛大さで対処したのである。
(中略)
 極寒、酷使、飢えという
 極限のシベリア収容所で
 ソ連当局の措置に抵抗を試みた人々の存在は
 今日では冷静に評価でき、
 日本研究者である私に
 民族としての日本人の特性を
 垣間見せてくれた。
 日本人捕虜の中には、
 浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、
 天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、
 食料ほしさに仲間を密告する者、
 ソ連当局の手先になって
 特権生活を営む者なども多く、
 この点も日本研究者である私にとって、
 日本人の別の側面を垣間見せてくれた。」
事件の総括は、上に示すアレクセイ・キリチェンコ教授のまとめの通りと思います。
日本人の中には、
 浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、
 天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、
 食料ほしさに仲間を密告する者、
 ソ連当局の手先になって特権生活を営む者など
もいた。
いまの日本でも同じです。
日本人の中には、日本の歴史・伝統・文化を学ぶこともせず、安易にGHQの日本解体工作を信じ、天皇を否定し、国旗や国歌を否定し、カネ目当てに他国に媚を売るような恥ずべき人もいます。
しかし、それでもなお多くの日本人は、いまでも天皇を愛し、自分より子や配偶者、部下たちの幸福を第一に考え、誰かのために、何かのために貢献できる生き方をしようと模索しています。
戦前の通州事件や、尼港事件の際、殺された多くの日本人たちは、「日本人は逃げろ~!」と叫んだといいます。
戦後の阪神大震災のときも、多くの日本人は、自分より先に、家族を助けてくれと救助隊に懇願して果てました。
そしていまなお、多くの企業戦士、多くの母親たちは、規則やきまりなど、外の力で動くのではなく、会社を守ろう、部下を守ろう、家族を守ろう、子に恥じない親になろう、父母に叱られない自分になろうという、内なる力に衝き動かされ、毎日を必死に生きています。
それは、ひとりひとりの人間として一番大切な生命をかけた戦いでもあります。
日本は法治国家だという人がいます。
たしかに、今の日本はそうかもしれない。
しかし、非常に治安が良かった江戸時代や、戦前の日本には、現代日本にあるような事細かな法律や省令、政令なんてものはありません。
そんなものがなくても、日本人ひとりひとりの中にある、道義心によって、現代社会よりもはるかに安心して暮らせる日本ができあがっていたのです。
わたしたちは、すくなくとも過去を否定するばかりでなく、現在と未来のために、過去の歴史からもっともっといろいろなことを学べるのではないかと思います。
最後にもうひとつ大切なことを書いて起きます。
私も、かつてのソ連やソ連が行った日ソ不可侵条約の破棄やその後の国際法上も違法な行為の数々、シベリア抑留や共産主義思想の強制など、ソ連に対しては限りない怒りを感じていますし、絶対に許すべきことではないと思っています。
しかし、そのことをもって、「ソ連人は」とか、あるいは「ロシア人は」とかいう一般化は、これは間違っています。
ひとりひとりを見れば、気の良いロシア人の方が圧倒的に多いのです。
ChineseやKoreanについても同じです。
異常行動を取る政府や政治は、憎むべき対象です。
しかしだからといって、それをChineseやKorean一般の問題にすり替えるのは、良くないことです。
先に結論を書いてしまえば、これらの問題は、特定個人が最高権力者となって、その個人に従うことが社会の秩序であり、それ以外の一切は排除される、という社会の仕組みそのものが人類の歴史の中で持ち続けてきた、大いなる過ちの集大成である、と思っています。
「眼の前にいる人たちを殺せ。
 殺さなければ、お前とお前の家族を皆殺しにするぞ」
と銃を突きつけられるという社会にあって、個人の持つ正義感を最大限に発揮するということは、そうそうできることではありません。
しかし、人類の歴史は、そういうことですくなくともこの何千年かの間、営まれ続けてきたわけです。
「眼の前にいる人たちを殺せ。
 殺さなければ、お前とお前の家族を皆殺しにするぞ」
と言われて、やらざるを得なかった人たちと、
「浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、食料ほしさに仲間を密告する者、ソ連当局の手先になって特権生活を営」んだ、シベリアの日本人と、果たして、どちらが是で、どちらが非なのでしょうか。
そのような日本人がいたから、日本人はすべて卑劣なのでしょうか。
問題は、世の中の歪みそのものにあったのではないでしょうか。
※本編は群馬県議員中村紀雄氏のHP
「今見るシベリア強制抑留の真実」を基に構成させていただきました。
この場にて感謝を申し上げます。
ありがとうございます。
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