
もともと「清」という国は、現在のChinaの東北省、昔の満洲国のあたりに住んでいた女真族の王、ヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が前身です。
ヌルハチは満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始する等、満洲人が発展する為の基礎を築き、1619年には、サルフの戦いで明軍を破った。
1636年には、女真族、モンゴル族、漢人の代表が瀋陽に集まって大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られ、大清皇帝として即位して、「清」が建国されました。
そして女真の民族名を「満洲」に改めます。
「満洲」という民族名は“文殊菩薩(もんじゅぼさつ)”に由来しています。
文殊菩薩というのは、梵名をマンジュシュリー (मञ्जुश्री [maJjuzrii])といいます。
智慧を司る仏で、武力ではなく「智慧」で国を治めようとした建国の理念が、そうした名称にも表れているといえます。
実質的に清を全国王朝にしたのは第四代皇帝である康熙帝(こうきてい:在位1661年~1722年)ですが、彼は、清代のみならず、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされいる人物です。
自ら倹約に努め、明代の1日分の経費を1年分の宮廷費用として遣ったり、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らすなど国費の無駄遣いを抑え、さらに治安の維持を図って、China全土の物流を盛んにし、内需を拡大し、民の生活の向上を図った。
さらに「康熙字典」、「大清会典」、「歴代題画」、「全唐詩」、「佩文韻府」などを編纂し、「古今図書集成」の編纂を命じて文学の興隆を図り、また朱子学を尊重し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったともいわれています。
そして「朱子全書」、「性理大全」など、朱子に関する著作をまとめ、明史を編纂し、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらを用いて、Chinaで初の実測によるChina全土の地図「皇輿全覧図」を作成させたりもしている。
要するに、歳費の無駄を省き、自ら質素倹約を旨とするとともに、国内経済の振興を図り、民を豊かにし、文化の興隆を図った。

そして康熙帝が行った、もうひとつの重要な事柄に「封禁令」というものがあります。
「封禁令」というのは「漢人は清国皇帝の聖地である満洲国に入るべからず」というものです。
要するに康熙帝は、自らの出身地である満州地方を聖地とし、漢人の立ち入りを禁じた。
今日のお話の最大のポイントです。
康熙帝は、漢人(Chinese)の立ち入りを禁じただけでなく、Chinaと満洲の国境である山海関に、関所を設け、Chineseの入国を規制します。
このあたりの清の歴史をみると、明代にChinaの治世が乱れ、漢人に平和と安定を脅かされた満洲方面を根拠地にする女真族が、ついには漢人の本拠地である北京にまで大軍を押し進めて漢人を抑え、それによって女真族の地である満州地方の平和と安定を図ったという歴史を見て取ることができます。
逆にいえば、女真族(満洲人)が、自国の平和と安定を図るためには、暴虐極まりないChina(漢人)たちの本拠地を制圧し、そこに首都を移転して漢人たちに君臨し、自国(満洲)の平和と安寧を図るしかなかった。
ちなみに山海関というのは、万里の長城の出発点です。
康熙帝は、封禁令によって、満洲国とChinaとの間の交通は、この関所以外、一切認めなかった。
おかげで、満洲地方は、この後約二百年にわたり、平和と安定を得ることができました。
ところが、清の治世が乱れ、欧米列強がChinaの大地への浸食を始めると、満洲地方の安定も、損ねられてしまう。ロシアの南下です。
義和団の乱(1894~1901)の後、乱の当時はろくな働きをしなかったロシアが、勝手に南下をはじめ、ついには大連のあたりまで浸食してしまう。
ロシア人のすることも、漢人と同じです。武力を用いて一般人を脅し、富と女を収奪する。
ロシア人たちが南下したとき、どれだけヒドイ仕打ちを現地の人にするかは、戦後、満洲から引き揚げようとする日本人達に、彼らがどのような振舞をしたかを見ても明らかだし、カザフやその他、何何スタンと名のつく国々が、ロシアや旧ソ連によってどれだけ酷い仕打ちを受けてきたかの歴史をみれば、なお一層明らかです。
ベラ・ルーシー(白ロシア)という名称があります。
これはモンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき、湖沼が多い白ロシアの地を避けて通った。
だから「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」ルーシーと呼ばれています。
どういうことかというと、13世紀のモンゴル軍というのは、支配地における強姦が将兵の職務となっていた。だからモンゴルの正統な継承国であるロシアは、それが現在にいたるまで不変の文化として残っていて、そうした文化は、そのまま旧ソ連に引き継がれた。
ソ連軍による無制限の強姦については、数限りないほどの証言が残っています。
「ドイツ人の女性は老女から4歳の女児に至まで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも250人に暴行された少女に出会った」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著)
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は9万5千ないし13万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた十万の女性のうち、その結果死亡した人が1万人前後、その多くは自殺だった」
「東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでは、すくなくとも2百万人のドイツ女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽる」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜)
こうしたロシア兵が、満洲に南下し、さらに朝鮮半島を経由して日本に襲いかかろうとしている。
日本は、日本を守りぬくために、朝鮮北部から満洲にかけて(当時は朝鮮は日本の一部です)南下するロシア軍との戦いに臨んだ。これが日露戦争(1904~1905)です。
日露戦争が終わると、日本は、ロシアが満洲に持っていた権益を合法的に受け継ぎます。
当時の満州は、「馬賊と阿片は満洲の花」といわれるくらいの、盗賊王国、麻薬王国だった。
そりゃあそうです。清の国力が弱まり、ロシアが南下して暴行のし放題。田畑は荒らされ、仕事はなく、飯も食えない。女房や娘は強姦され、子供たちは虐殺される。
ある程度元気の良いものは、馬賊になって徒党を組んで強盗団にでもならなければ生きていけなかった。そして馬賊となった人々を食わせるためには、馬賊の頭領は、アヘンを売り捌くのがいちばん手っ取り早かった。
日本は、混迷を続ける満洲で、きわめて生真面目に馬賊を退治し、法を定めて治安を保ち、産業を興し、農業を活性化し、道路や街を作り、あのリットン調査団ですら賞賛せざるを得なかった街づくり、国づくりを行います。
下の図は、全満洲の発電量のグラフです。当時の満州は、発電機、変圧器、送電線など、世界水準を超えるものとなっていた。

これだけではありません。日本は、満洲に「国道建設10か年計画」を策定し、道路や橋梁を築いた。昭和12(1937)年頃には、全満洲の全国道は、1万キロを超え、四季を通じて自動車の運行が可能にしています。
なにもない荒野に、新京(長春)、奉天(瀋陽)、ハルピン、吉林、チチハル、承徳、営口、錦洲、牡丹江といった近代都市を次々建設した。
さらに鞍山製鉄所では、年間20万トンもの鉄鋼資源が製造され、大連発電所、豊満ダム他、数々の近代工業設備投資が行なった。
満州人、Korean、Chineseにわけへだてなく諸学校を作り、近代的医療を施し、司法・行政機関を作り、China大陸の歴史始まって以来、初の法治を行った。
近代的警察制度を行い、軍閥や匪賊を討伐し、街を整備してアジアの奇跡と呼ばれるほどの近代化を促進したのです。
要するに、日本が行ったことは、現地人を教育し、彼らの生活水準を日本の内地と同じ水準に引き上げるというものです。
これは、欧米列強による植民地化・・・富の収奪を目的とするものと、その心得がまるで違う。
このため当時の満州は、治安は日本の軍が守り、街は建設の息吹に燃え、そこには労働が発生し、きちんと賃金も払われた。農業も振興され、日本の指導によって、きちんと灌漑が行われて肥沃となった農地で、人々は安心して農作業を営むことができるようになります。
つまり、食えて、働けて、安心して住むことができた。
断っておきますが、これら満洲の国家的インフラ整備は、満洲事変前、つまり、満洲国が起こる前の出来事です。
いまでもそうだけれど、Chineseという人種は、そこが食えて、働けて、住めるということがわかると、大挙して押し寄せる。
マンションの一室に、ある日、Chineseが住み始める。気がつくと、そのChineseの親戚やら友人といった連中が、次々とChinaからやってきて、そのマンションに住み始める。気がつくとそのマンションは、ほぼ全棟、Chineseばかりという情況になる。
こうした行動パターンは、古来、Chinese(漢人)の特徴です。
当時の満州は、日本統治のわずか20年ほどの間に、もとは満蒙人しか住んでいなかったのに、なんと9人中8人までもが漢人(Chinese)になってしまった。
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【昭和5年当時の満洲の人口】
満蒙人 300万人
Chinese 2600万人
Korean 100万人
日本人 23万人
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このことを、左翼系に偏向した歴史教科書などは「清王朝の政策によってChineseの満洲地方への入植が行われた」などと書いています。
これはとんでもない大嘘で、当時の清朝政府には、それだけの指導力も資金力もない。
要するに、南京において、日本が統治を始めたわずか2ヶ月後には、南京の人口20万が、25万人に増えたのと同様、民衆は、治安が保たれ、仕事があり、食えるところに人が集まる。
China全土が軍閥や共産主義者、窃盗団等によって、好き放題荒らされ、農地が荒廃し、建物が破壊され、惚れた女房は強姦され、旦那や息子が虐殺されるという無法地帯と化した中にあって、多くの人々が、治安が良くて仕事があり、安心して暮らせる土地を目指したというのは、ごく自然な行動です。
その結果、昭和になると、なんと毎年100万人規模で、Chinese達が満洲に流入した。
満州事変勃発前の昭和5(1930)年には、ついに全人口の9割がChineseになっています。
Chineseが増えるとどうなるか。これも昨今の日本の各所でみることができるけれど、彼らは彼らだけのコミュニティを作り、平気で暴行を働き、治安を乱す。
そしてついに、満洲国内で、Chineseたちによる主権をも主張するようになります。
これはChineseのいわば習い性のようなもので、彼らの行動は、時代が変わってもまるで変化しない。
いまでもChina共産党が、チベット、東トルキスタン、南モンゴルなどで異民族を統治するに至る方程式は、まるで同じです。
1 まず漢人が入植する。はじめは少数で。次第に大人数になる。
2 漢民族との混血化を進めようとする。はじめは現地の人との婚姻で。次第に大胆になり、果ては異民族の若い女性を数万人規模で拉致し、妊娠を強要する。
3 現地の文化財を破壊する。
4 天然資源を盗掘し、収奪する。
5 漢人だけの自治の要求し、国家を乗っ取る。
昭和のはじめの満洲も同じです。
人口の9割が漢人になると、自分たちで軍閥を営み、満洲の自治を奪った。
これをやったのが、張作霖(ちょうさくりん)です。
張作霖は、もともと匪賊(ひぞく・盗賊集団)の頭で、勢力を伸ばして軍閥となり、ついには、満洲国に軍事独裁政権を打ち立てます。
昭和4年、全満洲の歳入は、1億2千万元だった。そのうち、1億2百万元を、張作霖は自己の利益と軍事費に遣っています。なんと歳入の8割を軍事費にしたのです。
いまで言ったら、汚沢一郎がChinaの人民解放軍を率いて日本の政府を乗っ取り、95兆円の歳費の8割にあたる76兆円を軍事費に振り向けた、というに等しい。
しかもその軍事力の矛先は、なんと自国に住む満州人だった。
要するに、せっかく都市インフラが進み、みんなが豊かに生活できるようになったと思ったら、その富を横から出てきた漢人で、まるごと横取りしようとしたのです。

張作霖が、実質的な満洲の支配者となって行った政策の、一端が、次に示すものです。
1 財産家の誘拐、処刑
2 過酷な課税
なんと5年先の税金まで徴収した。
農作物や家畜にまで課税し、
収税の名目はなんと130種類。
3 通貨の乱発
各省が勝手に紙幣を乱発。
当然通貨は大暴落した。
4 請負徴収制度
税吏は、税額を超えて集金した分は、
奨励金として自分の収入になった。
いま日本では、友愛などというゴタクを並べる総理がいたり、大喜びでChinaに朝貢する売国議員などがいて、Chinese達に労働力1000万人受け入れを約束したり、彼らの最低時給を1000円にしようだとか、ついでに参政権まで与えようなどと言い出す、ボンクラがいるけれど、そういう行動がもたらした結果がどうなるかが、当時の満洲に見て取れるわけです。
要するに、張作霖は、国家を牛耳り、好き放題した。
日本人は、道義主義の国家です。だから規則があればそれに従う。
日本人のマインドは、常に相互信頼が基本にあるから、信頼に応えるためには、リーダーたるものは、規則があればそれに従うことを美徳とします。
ところがChineseは、人治主義です。法より人が偉い。法をどれだけ無視することができるかが、大人(だいじん)の風格として尊ばれる。
先日来日した習近平の行動もその典型で、日本に1ヶ月ルールを破らせることが、大物としての風格(あるいは貫禄)の証明とされている。
法よりも人が偉いのですから、権力を持った人間は、なんでもかんでも好き放題できる。
張作霖は、満洲国を軍事制圧すると、国民から税金として金銭をむしりとり、自身は老虎庁と呼ばれる豪邸に住み、贅沢の限りを尽くした。

そしてついに張作霖は、日本を追い出して満州を完全に自己の支配下に置こうとしたのみならず、Chinaまでも征服し、China皇帝にまでのぼりつめようと画策します。
そんな折に起こったのが、張作霖の爆殺です。
この張作霖爆殺は、長く日本の河本大佐の仕業と言われ続けていたけれど、公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の陰謀であったと明記されている。
すなわち、張作霖を爆死させ、それを日本軍のせいにすることによって、日本を糾弾し、さらに日本とChina最大の軍閥である蒋介石を戦わせることで、両国を疲弊させ、最後にソ連が、Chinaと日本の両方をいただく・・・というシナリオです。
張作霖が爆死したとき、満洲の一般市民がどういう反応を示したかというと、これが拍手喝采して喜んだ。当然です。むごい税金の取り立てで、国内を泥沼のような混乱に陥れたのですから、その張本人がいなくなれば、そりゃあ、みんな大喜びになる。ごく自然なことだと思います。
張作霖が死ぬと、その息子の張作良は、後継者として奉天軍閥を掌握し、蒋介石を頼って反日政策を進めます。
満州事変で満洲から追い出されると、こんどはChina共産党と結び、蒋介石との国共合作に引き入れる西安事件を起こした。
朝鮮半島でも、China、満洲でも同じなのだけれど、いわゆる反日・侮日政策を採った者たちの共通点として、「そこに民衆の幸せ」がない。
どこの国にも、多くの民衆がいて、誰もが家族の幸せ、生活の安定を求めて生きている。
それは昔も今もなんら変わることのない、人々のごく普通な、普遍的な思いです。
そして周囲の環境がそれを許さないとなると、やはりそこから人々は抜け出し、安住の地を求めてさまよう。
日本が統治した国は、いずこもそこに平和と安定と建設の息吹が芽生えています。
台湾、朝鮮半島はいうにおよばず、インドネシア、パラオ、タイ、ビルマ、シンガポール、マレーシア、カンボジア等々。
満洲人の不幸は、内乱が続くChinaと陸続きでかつては同一行政単位の国だったということです。
満洲の政治が安定し、工業や農業が盛んになり、学校や医療設備ができ、治安が良くなると、そこに内乱が続くChinaから、こぞって漢人たちがやってきた。
そしてこの漢人という種族は、大量にやってくるだけでなく、放置しておけば、その国の国民の数をはるかに凌駕するだけの人を呼び込む。
そして自分たちだけの自治を要求する。その国のや文化や伝統を破壊する。
そしてひとたび政権を取るや否や、権力を利用して、普通の神経では考えられないような暴政をひき、逆らう者、邪魔になるものは、かつての恩人であれ、平気で奪い、殺し、足蹴にする。
それがChina・漢人の流儀です。
過去の歴史が証明している。
いま日本は、きわめて親China寄りの政権が誕生し、実際にあった過去の真実の歴史を踏みにじり、日本の庶民が築いてきたありとあらゆる文化・伝統を破壊し、企業活動を損ね、経済を壊そうとしています。
そしてChinaから1000万人の労働力を呼び寄せ・・・1千万人で終わるはずがない・・・彼らに最低時給1000円を保障し、日本の戸籍を与え、ついでに参政権まで与えようとしている。
その先にあるものは、どのような日本なのでしょう。
京都に青蓮院というお寺があります。
このたび青蓮院は、1200年ぶりにはじめてのご本仏、青不動尊の御開帳を行った。しかも京都近郊の不動尊を一堂に集めての御開帳です。
なぜそのようなことをしたのかというと、我が国の道徳心の荒廃があまりに顕著であり、まさにいま、「1200年来最大の国難のときにある」からだからなのだそうです。
になった現代、辛い事件があまりにも多すぎます。この混迷の世の中で、青不動の強いお力をいただいて、いろいろな問題を少しでも良い方向に導いていただきたいと考え、ご開帳を行うことにいたしました。
日本を護るということは「庶民の幸せこそ国家の幸せである」という人類共通の理念を護るということなのではないかと、思います。
その日本がいま、貶められ、解体されようとしている。
私たちは、わたしたちの手で、この日本を護りぬかなければならない。
そうしなければ、この国を、そして「民の幸せ」を希求して亡くなっていかれた英霊たちに申し訳ない。
ねずきちは、そう思うのです。
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