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奥山道郎義烈空挺隊大尉
奥山道郎陸軍大尉

沖縄諸島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた沖縄戦は昭和20(1945)年3月26日から6月23日までの約3か月間の戦いです。
米海軍が戦艦から沖縄本土めがけて撃ち込んだ艦砲射撃の砲弾は、ただ爆発するだけでなく、火薬の中に無数の鉄片が仕込んであったそうです。
このため、爆発と同時にその鉄片が四散し、付近にいる日本人が多数殺傷された。
砲弾が飛んでくる。みんな防空壕に隠れるのだけれど、米兵が上陸してきた米兵は、防空壕の中にいる民間人に容赦なく火炎放射機を浴びせる。
だから、逃げる。そこを艦砲射撃が襲う。
赤子を背負って逃げるご婦人の背中で砲弾が炸裂する。飛散した鉄片が赤ちゃんの肉を切り裂き、必死で丘を越えてようやく逃げおおせた若い母親が背中を見ると、赤ちゃんの首がなかった。
そんな光景が日々繰り返されました。
そんな嵐のような艦砲射撃が繰り返されるさ中の沖縄に、上空から日本の飛行機が飛来します。
日本の飛行機が飛んでくると、沖にいる米艦隊は陸上攻撃を中断します。
米艦隊の砲火は、対空砲火一色に切り替わる。
日本から飛んできた飛行機が、特攻機 だからです。
米艦隊は、沖縄本土への艦砲射撃を中断して、総力をあげて対空砲火をはじめる。
空一面に壮絶な弾幕がはられる。
蟻の這い出る隙間もないほどまでに猛烈に撃たれる弾幕の中を、わずか数機の日本の特攻隊の飛行機が、突入する。
米軍の対空砲火は、近接信管といって半径15メートル以内に飛行機がくると、そこで爆発して四方八方に鉄片を飛散させます。
鉄片を浴びた特攻機は、機体を穴だらけにし、ガソリンタンクから火を噴きながら、敵の艦船めがけて必死の突入を図る。
ある機は空中で粉々になる。ある機は、海に激突する。
おそらく中にいる搭乗員は、全身に鉄片を浴びて血まみれになっていることでしょう。
それでも残った機が、敵をめがけて飛ぶ。
飛行機に乗っているのは、まだ十代の若い兵隊さんです。
その若い兵隊さんたちが空で戦っている間、沖縄の人たちは、地上への艦砲射撃による被害を気にすることなく、逃げることができた。
だから、当時の沖縄の人々は、特攻機が飛んでくると、逃げて、逃げて、走りながら、胸の中で手を合わせたといいます。
空で戦っていてくれているのが、自分たちよりもはるかに若い青年たちと知っているからです。
子に戦わせて、親が逃げる。そんな気持ちかもしれない。
日本は、沖縄での猛烈な市街戦に、手をこまねいていたわけではありません。
すでに制空権、制海権を奪われていた。
それでも日本は沖縄を救うため、必死の防衛戦を挑んでいたのです。
沖縄戦が始まった10日後には、戦艦大和が出撃しています。
帰りの燃料はありません。
片道切符の航海です。
大和には、沖縄の女性たちに届ける十万個の生理帯も乗っていた。
そして、昭和20年4月7日、戦艦大和は坊の岬沖で、沈みます。
特攻機の出撃は連日です。
その都度、優秀な若者が犠牲になり、その犠牲で、何人かの地元住民が敵の火炎放射機や艦砲射撃から逃げることができた。
それだけではありません。
空挺隊を組織し、米軍基地への突撃も敢行されています。
空挺隊というのは、敵の真っただ中にいきなり降り立って、敵基地を破壊する部隊です。
敵のど真ん中に着陸し、小部隊ごとに組織的に特殊攻撃を行う。
大多数の敵兵がいて、遮蔽物のない敵飛行場に飛びこむのです。
生きて帰れる可能性は皆無です。
その空挺隊の名を「義烈空挺隊」といいます。
義烈空挺隊の任務は、米軍に占領された飛行場に空挺部隊を乗せた飛行機を強行着陸させ、飛行場ならびに航空機への破壊活動を行うというものでした。
特攻機は、250キログラムという巨大で重たい爆弾を搭載しています。
ただでさえ非力なエンジン、ただでさえ、オクタン価の低い低性能なガソリンで飛んでいるのです。
敵艦隊に到着する前に、敵の高性能戦闘機が飛来すると、特攻の前に迎撃されてしまう。
だから、米軍の飛行場を使用不能にし、その隙を縫って、特攻機で米艦隊を急襲する。
そのために空挺隊員は、敵基地のど真ん中に降り立つのです。
空挺隊の乗る飛行機は、速度の遅い爆撃機です。
敵の猛烈な弾幕の中を、無事、敵基地のど真ん中に降り立てる保証もない。
途中で、飛行機もろとも中に乗っている空挺隊員が撃墜され、海の藻屑と消える可能性も大です。
それでも136名の烈士が志願し参加した。
編成されたのは、昭和19年の終わりです。
当初、サイパンを目標に準備を進め、猛訓練を繰り返したけれど、サイパンが玉砕。
次いで、硫黄島に突撃しようと準備を進めるけれど、これも立ち消えになった。
そして、昭和20年5月、鍛え抜かれた義烈空挺隊は、沖縄作戦に出撃した。
出撃が決定した日、義烈空挺隊・隊長の奥山道郎大尉(死後昇進で大佐)は、次のような遺書を三角兵舎内の隊長室で書き残しています。
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遺 書  昭和20年5月22日
この度、義烈空挺隊長を拝命。
御垣の守りとして敵航空基地に突入いたします。
絶好の死に場所を得た私は、
日本一の幸福者であります。
只々感謝感激の外ありません。
幼年学校入校以来12年諸上司の御訓戒も今日のためのように思われます。
必成以って御恩の万分の一に報わる覚悟であります。
拝顔お別れ出来ませんでしたが、
道郎は喜び勇んで征きます。
二十有六年の親不孝を深くお詫びいたします。
お母上様                      
    道郎
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「幼年学校入校以来」とあります。
奥山隊長は、陸軍幼年学校卒です。幼年学校は旧制中学一年または二年から難関を突破して就学する軍学校で、全国から選りすぐりの優秀学童を集めた軍人英才教育学校でした。
幼年学校出身の奥山隊長にとって、国を護り、愛する人を護る使命は、まさに血肉だった。
奥山隊長は、学業優秀であることに加え、体力も人一倍優れ、運動神経も素晴らしかった。
西郷さんを思わせるような堂々たる風采に加え、誰とでも明るく気軽に話す闊達な性格で、部下たちの信望を集めていた。
昭和20年5月24日夕方、義烈空挺隊136名は、熊本の「健軍飛行場」から12機の97式重爆撃機に11~12名ずつ分乗して飛び立ちます。
途中、4機が発動機の不調で基地に引き返し、残り8機は、10時11分「只今突入」の無線を発信したのち、6機が米軍占領下にあった沖縄の読谷飛行場に、2機が嘉手納飛行場に突入した。
北飛行場に突入した6機は、激しい対空砲火の中、5機が撃墜されます。
そして残る1機が、滑走路に胴体着陸強行に成功した。
パイロットは着陸と同時に戦死しています。
おそらく飛行中に対空砲を浴び、半死状態になっていたにもかかわらず、最後の最後まで操縦桿を話さず、着陸成功とともに絶命したものとみられています。彼は機内で突っ伏した状態で死んでいる写真が残されています。
米軍読谷飛行場に突入した義烈空挺隊の乗った陸軍97式重爆撃機
義烈空挺隊03

強行着陸した97式重爆撃機から降り立った空挺隊は、12名。
彼らは、群がる敵兵に応戦する傍ら、駐機中であった航空機9機を破壊炎上させ、30機近くに使用不能の損傷を与えた。
さらに飛行場にあった航空燃料用の7万ガロンの航空機燃料を炎上させ、約8時間に渡り、飛行場を完全に無力化させた。
少数ながら多大な損害を与え、奮戦した空挺隊員は、重傷で意識を失っていた1名を除き、全員戦死した。
四散した米軍機
義烈空挺隊04

吾か頭
南海の島に瞭(さら)さるも
我は頬笑む
国に貢(つく)せば
 奥山道郎陸軍大尉
 戦死日 昭和20年5月24日 享年26歳
沖縄戦では、一般市民、沖縄守備隊の多くの人が犠牲になりました。
そして知覧を飛び立った1400名余の特攻隊員も、その沖縄を護るために命を捧げた。
そして、ただ沖縄を護るために死ぬためにだけ猛烈な訓練を重ね、突撃した空挺隊員もいた。
ボクは、沖縄戦の是非論を議論する気などありません。
ただ、こうして必死に戦い、散って行かれた人たちがいた。
同じ日本人として、彼らの偉業を、ボクたちは決して忘れることなく、感謝の心をもって語りついでいかなくてはならないのではないかと思うのです。
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